3
並木道の景色が、視界から流れるように左右に消えていく。私の息遣いと連動するように、それは上下に揺れ動いていた。
普段からあまり運動をしていない為、心臓の音は頭にまで響き渡る。汗が噴出し、本能が私の足を止めようと邪魔をしてくるのを感じた。
だが、一刻も早くこの事を伝えなければならない。その一心で私は通学路を駆け抜ける。
校門を抜け、学生達が使用している教室が集う教室棟に駆け込んだ。上履きは無造作に踵だけを踏まれた状態で、私の足を包み込む。
朝一番という事もあり、校内には生徒の数は少なかった。だが、その雰囲気を感じる暇など今の私にはない。
無思慮に階段を駆け上り、教室の前へと辿り着いた。そして勢い良く扉を開け、開口一番に彼の名前を叫んだ。
「早乙女君!! いる!?」
彼は自席からキョトンと私の方を見ていた。朝早く登校していた彼は、誰も居ない教室で文庫本の読書中だったらしい。
息も絶え絶えに、私は焦りの感情を彼にぶつける事になった。
「何かおかしいの!!」
私の状況から事態を重く感じ取った早乙女君は、直ぐに会議机を作成した。
そして事情の説明を行うこととなった。
私の通う高校では、異性間交友というものに寛大な教師や生徒が多く、多数のカップルが存在していた。その為、一緒に登下校をするカップルはもはや景色のように感じるほど頻繁に目にする。
少しでも一緒に時間を共有したい。そんな気持ちを表しているかのようだ。
朝の登校中、いつものように何の代わり映えもない通学路を歩いていた時の事。目の前を歩くカップルに私は違和感を覚えることになる。
左側を歩いている男子が女の子に見せ付けるように、右耳の耳たぶを触る姿を目撃したのだ。
単なる偶然だろう。最初はそんなに風に気にも留めていなかったが、それが頻繁に行われる事に気付く。そしてそれを見つめる女子は、照れるような反応をしていたのだ。
私は心の中で悲鳴をあげた。
(どうして他のカップルが【暗号化】使っているの!?)
私はその光景を単なる偶然とは考えることができなかった。
そして状況を整理する事が出来ず、焦りの感情を持つことになった私は、通学路を駆け抜けて早乙女君へと情報を伝えることにしたのだ。
・
・
・
話を聞いた早乙女君は「どうして?」という表情を見せた後、真剣な面持ちとなった。
「偶然ではないんだね?」
「多分、偶然じゃないと思う。一組しか確認していないから確実とは言いにくいけど、前触れもなく突然に仕草してたの。しかも頻繁に。女の子も照れたような表情を見せてたから、偶然とは考えにくいと思った」
早乙女君はノートを取り出して状況を整理しだした。問題点を書き留めながら、早口で話し始める。
「つまり偶然じゃないと仮定したとして、【暗号化】手法が他の人に漏れているとしよう。どの程度漏れているのかは断定できないけど、素性も知らない目の前のカップルが急に仕草を始めた。となると、かなりの範囲まで浸透していると予測できるね」
私は一番の問題点を口に出すことで共有シェアしようと試みる。
「けど、どうして広まっているの? これは中川君と藤井さんだけの秘密だったはずだよね?」
早乙女君は手に持ったペンをノートにトントントンと叩き付ける。冷静さを無理やり取り戻そうとしているようだった。
「僕達二人から漏れたという可能性は?」
私は顔がカッとなるのを感じ、勢いよく声を出すことになった。
「私は誰にも言ってないよ!? 早乙女君もそんな事漏らすはずないよね!?」
私の発言後に彼の表情がみるみると変化していくのが分かった。サーッと血の気が引いていくような、そんな雰囲気を見せる。
「あぁ……!! しまった!!」
早乙女君らしからぬ言葉だった。そして彼は全てを理解した様子で、頭を抱えだす。肘を机に付け、顔は徐々に机へと近づいていった。
「エンドユーザーの考慮を忘れてた……!!あぁ、なんて馬鹿な……!!」
私は、エンドユーザーという用語の意味が分からなかったが、それが藤井さんを指している事をなんとなく把握することができた。そして、それと同時に彼女の思考がダイレクトに頭の中に入ってくる。私は気付き、落胆し、驚愕してしまう。
「そっか……単なる自慢だったんだ……!!」
私達は、大きな過ちを犯していたのだ。
愛情表現をもっとしなければならない。そんな悩みを中川君経由で聞いていた私達は、藤井さんの本心を捉えることが出来ていなかった。中川君自身も間違えていたのだから、当然と言えば当然だった。
それは愛情表現の少ない中川君に対して、絶対量の増加を求めるものではなかった。単に【他の人に対して見せつけて、自慢がしたかっただけ】だったのだ。
彼女は女性特有の感情である、身に着けたアクセサリーを見せ付けて自慢するような感情。
つまりは承認欲求を満たそうとしていたのだ。
目の前の依頼人を救うことに必死だった私達は、藤井さんの事を考慮していなかった。
不幸な事に私達の提案は中川君の交渉により、一旦承認される形となった。だが【承認欲求を満たしたい】彼女は、本来の目的から逸れている事に気付いて、ある行動をする。
それは簡単に想像する事ができた。
私はこんなにも愛されているんだ!という事を表現する道具ツールへと変えてしまう事を思いついた彼女は、愛情表現の仕草である【耳たぶを触るという行為】を他の人に教えてしまったのだ。
そして、それが人から人へと広まることになった。
会議ミーティング後の調査により、私達はほとんど想定していた情報を得ることになる。【暗号化】手法は学校内で大ブームメントを巻き起こしている事が分かった。早乙女君も調査していたようだが、男子経由では情報を得ることができなかったらしい。つまりはこの手法が女子の間だけで流行し、女子の間だけで共有されている事が判明した。
この流行をしている【暗号化】は、中川君と藤井さんが設定した【耳たぶを触るという仕草】から変化していなかった。何故なら、【自慢する為の道具】という点に視点を置いているらしく、仕草は全員が共通したものでなければならなかったからだ。それにより登校中の私が気付くことになったのだった。
また、女子達は一蓮托生となってこの手法を上手く運用する事を考えていた。定期的に共通の仕草を変更する事で、男子達に感付かれないように計画していたのだ。そして上手く感情をコントロールし、二人だけの秘密なんだよと嘘を付く。それにより【暗号化】が誰でも使用する道具ツールであるという秘密が、男子に漏れないようにしていた。
まんまと騙された男子達は、仕草を公共の場で見せ付ける。もちろんバレる可能性もあるにはあるが、他のカップルを意識して見るという行為を男子はあまりしない傾向にあると思う。そして二人の秘密であるという先入観がある為、気付く可能性が低い。
女子達はそれを見たり、または他の女子に見せ付ける事でヒッソリと満足感や優越感に浸っていたのだった。
「いつか男子達にバレるよね。そうしたら、中川君にも伝わっちゃうかもしれない……」
私は落ち込んだ口調で、早乙女君に話しかけた。心的要因の把握は私の担当だ。上手くいかなかった事にとても責任を感じていた。
「そうだね。直ぐに中川君に謝るのが一番かもしれないけど、それによって藤井さんとの関係を悪くしたくない。男子達に発覚してから謝りに行くのが、良い段取りだと思う」
「うん……」
どんどんと声のトーンが低くなる。早乙女君はそれを察するかのように、私に喋りかけた。
「これは僕のミスだよ。【暗号化】を提案したくせに、影響の想定が出来ていないなんてあってはならないミスだよ。長谷川さんが落ち込む必要は無いから気にしないで」
人の心を捉えることが苦手だと言っていた早乙女君だが、そのフォローには甘えてしまいそうになった。自分のせいだと思いつめる、自分の心を読まれたような気分だった。
心の中で(それでも、私の方が悪いと思う。)と、口に出せない言葉を呟く。
その後、小さな会議机ミーティングテーブルで私達は無言になり、放心していた。居た堪れない気持ちになり、自分から切り出す事でその案件にケジメを着ける事にした。
「その時は、一緒に謝りに行こうね」