壁、あるいは峰
配膳の指導はもっとも厳しかった。
屋敷に入っても、右も左もわからなかった。
手馴れない仕事は、難事のオンパレードだった。
そんな彼女に、
そっと誰にも知られずに教えてくれる人がいた。
貴人たちは少女を人間として視なかった。
そうは言っても邪険に扱われたり、暴力を振るわれたりしたわけではない。
あたかも彼女がいないかのような振る舞いだった。
雇い入れられたときも、
先輩から、
すべては確認済みだからこちら声をかけてはならないと厳命されていた。
話し掛けようにも、その鼻先をみただけでそんな気は失せてしまう。
貴人たちは纏っている空気がそもそもちがう。
話しかけるどころか、仰ぎ見ることすら憚られる。
貴人たちはここで働いている人たちに目をくれようとしなかった。
それでいて、
まったく気にしないわけではなくて、
家具の上に少しばかり埃を見つけただけで、屋敷の奥方は明確な不快な仕草をみせる。
彼ら、彼女らの姿は神々しくて顔はおろか、全体像すら直視することができなかった。
あたかもそこにいないように扱った。
あえて無視するというのならばまだ人間味を感じることができる。
あたかも本当に少女が視えていないかのようなそぶりは、
完全に演技ではなかった。
第一印象はただ冷たい場所というものだった。
そうした中でその女性は、働き手のなかで唯一、
貴人たちから人間として扱われていた。
少女からすると、
自分たち下働きの者と、貴人、すなわち、屋敷の家族との仲だちをしているように見えた。
その人が目をかけてくれた。
その方法もよく考えられていて、
下働きの仲間から嫉視されないように、
少女にだけわかるように、細心の注意が巡らされていた。
そうした兆候は、彼女の、目の動きや首の傾げ方などで微妙なかたちで知らされた。
ちょっとしたしぐさで、
仕事の内容を教えてくれる。
少女は、彼女との間に特別なつながりができたように思えてうれしかった。
後から考えれば、
指先でそっと円をつくっただけで、配膳の内容がわかるわけがない。
それにもかかわらず、どの食器を使うべきか、
困った時はすぐに教えてくれた。
それだけではない。
下働きの仲間からわざと間違った食器を運ぶように命じられることがあった。
そのときは、たまたま彼女もそばにいて、指の合図が密かに示されたが、
いつもと何かがちがう。
嘘であることをわかっていながら、黙認せよ、
後は自分に任せて貰えばいい、
そう指は語っていた。
彼女は要らぬ波風を立てないように注意をしてくれたのだ。
はたして間違った食器を持っていったが、
ほぼ同時に彼女が現れて、自分の失態だととりなしてくれた。
少女をまさに叱りつけようとしていた、
その女中は恐縮して平伏してしまった。
ただ驚いてあんぐりと口を開けたままでいると、
その女中に服を引っ張られて、
彼女と同じ姿勢を強要された。
改めて 自分がメッセージを交わした女性が、
この屋敷でどのような地位を得ているのか、
思い知った気分だった。
この人が自分の味方になっていてくれる。
そう思うと心強く思えたが、
べつに思い上がりなどではなく、
自分と同じ時期に、
屋敷に入った子に対して、
同じ厚遇を与えているとは到底思えなかった。
彼女たちの嫉視が自分に向かないように、
その人物は注意を払ってくれる。
家も家族も、
何もかもを失ってしまった彼女からすれば、
大変にありがたい話だった。
使用人同士でつるまないように、
意図的にそのような空気が母屋だけでなく、
使用人のために用意された宿舎にも、
そこはかとなく醸し出されていた。
それでも少女の後に入った子と打ち解けることができた。
彼女は言った。
「あなたの方言、何処かで聴いたことがあるわ」
そう言われると辛いものがあった。
少女はここで生まれたものだと思いたかった。
それまでの生は、
さながら前世のようなものであって、
思い出したくなかったのだ。
そのことを話すと、
彼女は前世とは何かと質問してきた。
驚くべきことだった。
彼女は神々への信仰を知らないのだ。
どのような境遇で育ったら、
こんな不幸な状況に陥るのだろうか?
無意識のうちに同情の視線を送っていたようだ
友人はいきなり怒り出した。
「そんな目で視ないでよ、それを知らないことがそんなに恥ずかしいことなの?」
どうやら自尊心には事欠かないらしい。
少女はこの新しい友人に興味を持った。
山の向こうには神々への信仰を持たないという集団のうわさを聴いたことあった。
それを示す固有名詞を口にしたところ、
彼女は驚いた顔をして返した。
「私たちのこと、知っているじゃない?完全に記憶を失ったわけじゃないのね?」
今度はこちらが質問し返す番だった。
「記憶ってなに?」
その単語に思い当たるところがなかったのだ。
友人は思い出という言葉に言い換えてくれた。
それならばわかる。
彼女によると、
病気や事故によって、
人は記憶を失ってしまうことがあるようだ。
少女は思わず呟いた。
「それは生きながら、死んじゃうってことだわ。思い出を忘却の川に流しちゃったまま、蘇ったのかもしれないわ、きっと死の神々のひとりがきまぐれを起こしたのね」
それは友人にとってはしょせんは異言語にすぎなかったようだ。
ちょっとした連峰を境にまったく世界が違うとはどういうことだろう?
少女は、友人がかつて棲んでいた世界が、
神々の祝福から見捨てられたような、
じつに可哀そうに思えたが、
彼女を視れば、
自尊心は高いし、
まったくみすぼらしくは視えなかった。
それを言うと、
彼女は笑って返した、
皮肉まじりに、
「この家の貴人たちよりも私は、あなた方の言い方からすれば、神々の祝福に近いところにいるわ。だけど本当に神々って何?とてもえらい人なの?古代の英雄とか?」
友人の存在は重要だったが、
少女は、
自分に対する最大の庇護者のことは忘れたことはなかった。
彼女も、少女のことは忘れなかったからだ。
たいして高くもない、
旅人から絶景だと注目されるでもない、
何処にでもある峰だったが、
そこをさかいにミラノ教皇と神聖ミラノ皇帝の勢力を二分する境であることなど、
もとよりふたりには関係ないし、知るよりもなかった。
十字軍を企画した、
聖界の意図が知れたときは、
皇帝側にとってすでに策を巡らすには遅すぎた。
俗界の諸権利は、
聖界にぞくぞくと侵食されつつある時代だった。
中世、竜騎士や魔法の使い手が中原で活躍する時代は終わりつつあった。
だが、
皇帝の公的なる敵はあくまでも異教徒であって、
教皇に、
矢を向けるわけにはいかなかった。
そんなことも、
いまのふたりにはいっさい関係ない。
誼を通じたふたりであったが、
それほど長い時間、
言葉を交わしあうわけにはいかなかった。
前述のごとく、屋敷の中は何処であっても私語を禁ずるような空気が立ち込めていた。
たまに所要のために外出する際に、同時に言いつけられれば、それはもうけものというていどだった。
それでもこの地に訪れるより過去のことは、
彼女にとってほぼなかったことに等しかった。
新しい友人はそれに対して、
本人が気付かないくらいに貢献したし、されもしたのである。
だから、この土地から逃げ出そうという気はまったくなかった。
だが、始終、監視されているような気配が何処にでも拭いきれなかった。
その視線の強さは、
屋敷から離れれば、離れるほどに強くなっていくことも、
少女の思いを強くする理由になっていた。
ある日、牛乳を運ぶように言いつけられた午後のことだったが、
友人と運よく一緒になったのだが、
彼女に自分の思いを打ち明けてみた。
彼女は即答した。
「そうかしら?それほど感じないけど。私たちが働いている家は、元々、厳格な家ではあるし」
丘の上から鶯谷といわれる谷底をふたりで眺める。
あれも何らかの境界を指示している。
少女はこの土地から逃げようなどと夢想だにしたことはない。
そもそも、
ここに来る以前の記憶はかなり曖昧になっている。
たしかに自分の名前はちゃんとわかるし、生まれた町の名前も言えるし、紙の上に文字で書くこともできる。友人はそれを奇跡だと言い立てる。
文字を書くのは、聖職者や貴族だけ、だと言うのだ。
たがが小さな峰だけで、
これだけ人が住まう境涯が違うとはどういうことだろう。
少女は、
友人との関係においてそびえていた峰を疎ましく思い、
それを破壊するために、
何ができるのかと考えた。
突如、聳えた峰は、
生まれる前のことを思い出させて、
少女を不眠症にした。
夢の中にそのときのことが出てきて、
眠ること自体を畏れたのだ。
昔を思い出すのはいやだった。
今がいいとは思わない。
さりとて、
不必要に傷を大きくする必要はない。
夢の中で少女は高い石の壁を見上げていた。
その先には仕切られて小さくなった空があった。
壁のせいで、
空が空であることを妨げられていた。
空気が良いと父親のひげがうまく跳ねる。
そういうことがあると、
たまに壁を潜ることが許された。
まさに青に祝福されているという気分だった。
空はちゃんと空だった。
いかにも青々しいさまは、
大空の神々の機嫌の良さを意味していた。
だが、
大人たちによってすぐに壁の中に戻されてしまう。
彼らや彼女らは、少女の安心を主張するが、
そのじつ、
大人自身の心の安定を図っているようだった。
壁の外で遊んでいる子供たちとはすぐに別れなくてはならなかった。
彼らと関わることを、
大人たちのなかで、
少女にとってもっとも大事な人物は、好んではいなかったようだ。
食事の席で友人たちの話をすると、
彼女はじっさいには明言しなかったが、
ナイフが肉を切る音がいつもよりも雑音が入った。
そのとき、その人物がどんな顔をしているのか、
少女は視線を上げることができなかった。
夢はそこで終わった。
心配したこの世界の友人に起こされたようだった。
いま、少女が置かれている状況は、
退屈でたまらないものの、
かつて、
手に入れたくてたまらない生活のような気がした。
一定量の義務を果たせば、
それなりに自由を享受できる。
そう友人に言ってみると、即座に反論が返ってきた。
先ほどまで自分たちに命令していた貴族たちを暗に指して、
「だって、あの人たちは自由じゃない」
あなたは何も知らないのよ、
そういう言葉がつい出そうになったが、
あまりにも非合理な疑問なので、
すんでのところで呑み込んだ。
何もない日常が終わろうとしている。
沈もうとする夕日は、
きっと神々からのメッセージなのだろう。
それに関しては、
友人も多少の理解は示してきたようだ。
「あなたがそういう事も、なんだから一理、あるような気がしてきたわ。だって、夕日は、どんなえらい王様も貴族様もつくれないものね。神々がおられるようなきがしてきたわ」
何かの目的があって、
ここに来たのならば、
彼女の双眸がオレンジに色づいたことが、
その理由を示しているような気がしてきた。
きっとこういうことなのだ。
あの峰を、城壁を、
越えるとはこういうことだったのかもしれない。
そう思ったら、
単なる前世にすぎなかった、
ここに来る以前の生活がリアリティを備えたものであって、
けっして、夢心地ではないことに気づいた。
自分はここで生まれ育ったわけではない。
そのような当たり前のことに気づき始めた。
すると、
必ずしも自分が生涯、ここにいなくてはならない。
それが既定事実ではないことに気づいた。
生まれるまえが確かにあるのならば、死んだあとがあってもいい。
自分はかつて死んだのだ。
そしてもういちど死んでもいい。
ふいに肩に友人の手が触れたことに気づいた。
彼女は優しい声をかけてくれた。
「さあ、帰ろう。奥方様に怒られるわよ」
友人に促されて立つ瞬間に、
夕日は、かすかな瞬間だが緑色に変化した。
それは自身の身体に流れている血の色に近いと、
このとき、
久しぶりに思い出した。
だが、
気が付くと太陽はふたたび赤熱していた。