後篇
玄関には母のお気に入りの小さな白い下駄箱があり、その上にはパイナップル編みで作られたレースの敷物がかけられていた。
純白のレースがあまりにも綺麗だったので、いつも上においてあった黄色い花瓶をどかしては、頭の上からレースをかぶり、そろりそろりと擦れた畳の上を上品に歩いた。
母のスカートをはき、わきの下まで持ち上げ、裾を引きずって歩けば、気分はまるで絵本のお姫様そのものだった。その姿を見て母は
「可笑しな格好。町娘さんが間違えてお城に足を踏み入れてしまったようね」
と笑った。
悪口を言われたような不快な気分になったが、母のからからとした笑い声につられてわたしも大笑いをして畳を更にすり減らした。
「ママも、たまに自分のことをお姫様だと思っちゃうときがあるんだ」
と笑いながら目を赤くしたので、わたしは「ママはかわいいから、一番のお姫様ね。二番目はわたしね」
とレースを母の頭にかけた。
しばらく母は顔を上げなかった。
肩が少し震えていた。
あの時母は、泣いていた。
父が家を出たのは、ブランコから転落した事故の傷が治りかけて、痒くて仕方がなかった頃だと記憶している。
父は、その日、大きなカバンを二つ持っていた。
一張羅を着て、「冠婚葬祭用」と書いてある靴箱からエナメルの靴を取り出し、靴ベラを使って丁寧に履いた。
母は、玄関先に見送りに出なかった。
わたしは、奥の部屋にいる母にも聞こえるように「帰ってきたら児童公園に行こうね」と大きな声を出した。
「じゃ、逆上がりの練習をしておくんだよ」と父は笑った。
わたしは、痒い頭の傷を掻き毟りながらこくりと頷いた。
あれが最後の会話だった。
その日は父の言いつけを守り、お昼御飯を食べ終えると一人で児童公園に行き、何度も鉄棒をギュッと握り締めて、地面を強く蹴った。
小さな柔らかい手に生まれて初めてマメを作った。
夕方、母に赤くなった手のひらを見せると「パパはね、帰ってこられなくなっちゃったの」といいながら、赤チンを塗って絆創膏を二つも付けた。
帰ってこられない、ではなく帰らない、が正しかったのだと知ったのは、大人になってからだった。
父が姿を消してから、わたしは母に理由を尋ねることはしなかった。そして、万華鏡を覗くのは、部屋に一人だけの時にした。
わたしの重さが、夫婦の重さだと言った父を必ず思い出した。
出て行った父にとって、わたしはなんて小さくて、軽い存在の子供だったのだろうか。
「お肉をもっとたくさん食べて、太っちゃおう」
こぼれそうになる涙をこらえて声に出した。
万華鏡の模様が歪んで見えた。
いろいろと我慢することを覚えた年だった。
シャワーハットを使わずに洗髪が出来た日の夜。目に少し入ったシャンプーが滲みた目をこすりながら、少し胸をはってお風呂を出ると、居間に母の姿はなく、つけっ放しになったテレビではアイドルが踊りながら歌っていた。
歌声の陰にささやく母の声と、震える女性の声が混じり、そっと声のする玄関を覗くと、りえちゃんのお母さんが仁王立ちになっていた。母は玄関前の狭い廊下に正座をして、俯いていた。
玄関に取り付けられたオレンジの蛍光灯の色が、りえちゃんのお母さんの真っ白なツーピースに反射して、少し肥えたその姿は、テレビで見た蛾のようだと思った。
「りえから色々と聞きまして。あなたの娘が怪我をした日のことです。いくらあなたが有能でも、仕事はもう回ってこないと思ってくださって結構ですので」
母は黙ったまま、少し顔を上げて困った表情を見せた。
早口でりえちゃんのお母さんは玄関扉に手を伸ばして
「あなたと主人が、長い付き合いなのは気付いて知っていました。でも、あたくしは、別れません。最後まで騙してくれるのが、不倫の最低限のルールじゃありませんか」
と言い残すと、大きな音を立てて扉を閉め、出て行った。
わたしは、シャンプーが目に染みて、大粒の涙をこぼしながら母にしがみついた。
母は、ごめんね。と小さくつぶやいてから、濡れた髪を触って、冷たくなっちゃったね、とやさしい声を出した。
わたしは、母がタオルで髪を乾かしてくれてから、シャンプーハットを使わなかったことを告げた。
偉かったのね。
ママより偉いね。
ブラシをわたしの髪に当てながら、母は何回も同じ言葉を繰り返した。
りえちゃんとはもう、遊べないのだ。恐らくママのせいで、りえちゃんが辛い目に合ったのだということは、話の内容で理解できた。
翌日から、多くの職人さんが、広い敷地にやってくるようになった。
何をこさえているのかと尋ねると、高い塀を作って、りえちゃんの家を囲むのだと、教えてくれた。
駄菓子屋さんでりえちゃんにあった。事故以来のことだった。
わたしとりえちゃんは、鈴やスーパーボールが飾られたくじ引きの景品越しに見つめ合った。前歯か2本抜けた口を大きく「ばーか」と声を出さずに動かしてから、一緒に来ていた友人達に向かって
「あの子、うちの貸家に住んでるの。ほら、あの巾着はね、うちの仕立てを頼んだ生地をちょっとずつ盗んで縫ったんだよ。だから変な模様。あーっ、わたしのスカートと同じ模様もある。スカート、捨てちゃおっと」
と、わたしの巾着を指さしながら、大きな声を出した。
泥棒という言葉に、駄菓子屋さんは眉をひそめ、わたしとりえちゃんを交互に見た。
わたしは、踵を返して家に戻った。
戻ってから大きな声を出して泣いた。
泣きやんで少しすっきりしてから、りえちゃんとの思い出の品を全部捨てた。一緒に描いた絵も、紙で出来た着せ替え人形も、全てゴミ箱に入れた。
母が「落ちていたわよ」と言ってテーブルの上に戻したものも、わたしは「いいの」とだけ答えて、その場でゴミ箱に戻した。
そんなとき、母は困ったような、怒ったような泣きだしそうな顔をしていた。
おそらくわたしも同じような顔をしていたに違いない。
りえちゃんのわたしへ対する悪口はエスカレートしていった。
母もどこかで耳にしたのだろう。
抗議に行った様子だったが、インターフォン越しで追い返されている姿を見た。
小さい頼りなげな母の体を夕陽のオレンジ色の影が押しつぶしてしまいそうで不安になった。
オレンジに溶けてしまう。
そう思った。
その翌日、藤枝氏がわたしの家にやってきて、母をどこかへ連れて行った。夕食時に戻った母は、いつもより少し元気な声をだして「お引越ししましょう」と言った。
高い塀の完成を見ることなく、わたしと母は転居した。
新しい家は、今まで住んでいた駅から電車で五駅しか離れていなかった。広めの庭がある、小さな一軒家が建っていた。
「この家、また借りたの?」
そう聞くと母は
「この家は、ママの家なのよ」
とくすぐったそうに笑った。
わたしは、ママの家という言葉がたいそう気に入って、幾度も口の中で呟いた。
母はその後、再婚することなく「ママの家」で一生を終えたのだった。
壁時計に目をやると、もう藤枝氏がやってくる時刻が近づいていた。大急ぎで布で散らかった部屋を片付け、仏壇の花を挿しなおした。
チャイムの音がして、わたしは深呼吸をしながら玄関へ出迎えた。震える右手を左手で押さえながら、ゆっくりと玄関の扉を開いた。
目の前に現れた男性は、名のらずとも間違いなく藤枝氏だと分かった。
白髪交じりの整えられた髪、細い顎。
印象的な、大きな、灰色の眼。
かすかに鼻をくすぐるミントの香り。
「手紙をありがとうございました。藤枝です」
大きな菊の花束を両手で渡してくれてから、大きくなりましたね、と微笑んだ。
わたしも少し微笑んでから、仏壇の前へ案内した。
仏壇の線香立ての前には熊のキャラクターの通帳を置いておいた。入金の理由を知りたい。本当に母は引っ越してからも仕立ての仕事を請け負っていたのだろうか。
母の前で藤枝氏は手を合わせたまま、しばらく動かなかった。その後ろ姿は小さくて、よく見れば背中も少し丸くなっているのだった。背負ってもらった頃の精悍な藤枝氏とは別の人が、そこにいた。
合わせた手をそっと離したのを確認してから、声を掛けた。
「りえちゃんは、元気ですか」
「えぇ」
「そうですか」
会話の糸口がこんがらがって、うまく解けそうになかった。
「母はここへ越してからも仕事をもらっていたんですか? 母は、ずっと生協で働いていました。仕立てをしている時間があったようには思えなくて」
「あなた名義の通帳のこと」
わたしは、唾を飲み込んでから、はい、と小さく返事をした。
藤枝氏は、小さくため息をこぼしてから「あのお金は、わたしの服を仕立ててもらっていたものです。労働の対価ですよ」と答えて口を噤んだ。
正座している腿とふくらはぎが重なる部分にじわりと汗をかいた。
冷めたお茶と手のつかないお菓子。
時計の秒針の音がこの場の空気をさらに緊張させた。
お茶を淹れ替えようと、少し腰を浮かせたのと同時に、藤枝氏が口を開いた。
「そろそろ、お暇します。ありがとう」藤枝氏が立ち上がったので、わたしも痺れた足を無理やり動かし玄関へとゆっくり歩いた。
「駅までご一緒してもいいですか」
返事を待たずに、クロックスのサンダルをひっかけた。
「その、穴があいたサンダルを履いている人をよく見ます。蒸れなくていいですね」
藤枝さんはわたしのサンダルを見て、わたしも一足買ってみようかな、と呟いた。
駅までの並木道は夕日を受けて眩しく光を反射していた。
「この並木道が、ゆりさんは好きだったのです」
「なぜご存知なんですか」
「あの家を、一緒に探しました。駅から家に帰る道が、一人で歩いても寂しくないところがいいと、言ったのです」
藤枝氏は眩しそうに並木道を眺め、木の成長は早いですね、と続けた。
「りえが、あなたに冷たいことをした、と悔やんでいました」
わたしは、一瞬息を飲んだ。
「わたしが、今日、ゆりさんの仏壇に手を合わせに行くことを、りえに話してきたのです。あの子ももう、子供ではない。あの時、見てはいけない現場を、偶然目にしてしまった。わたしの一番の罪は、嫌がるゆりさんを、家に上げていたことでした。いつもは外で会っていたのです。仕立て終えた服を持ってきたゆりさんを、わたしが無理を言って……」
「もう、昔のことです。母もきっと笑って聞いています。わたしも上がりたかったのよ、なんて小首を傾げて答えていると思います」
駅まで五分の道のりは意識してゆったりと歩いても、あっという間だった。
短い挨拶をしてから、パスケースを右手に、ゆっくりと改札をくぐった藤岡氏の背中に向かって最後の質問をした。
「わたしの娘も、藤枝さんと同じ灰色の瞳なんです。わたしが生まれる前から、藤枝さんは母を知っていたのでしょう?」
目から涙が零れ落ちそうになるのを、こらえるのに必死だった。それ以上に声が震えるのを隠すのが精一杯だった。
「そうです。あなたが生まれる前から、ゆりさんを……。でも、わたしは卑怯ものだった」
藤岡氏は振り返り、立ち止まるとしっかりした低い声で答えた。
「あの時、病院で藤枝さんの背中で嗅いだ香りと、母の香りが同じことに気づきました」
藤枝氏は、灰色の目を大きく見開いて、わたしを見つめた。
「都合のいい言葉で、申し訳ないのだが……。幸せでいてくれましたか」
「ええ、母もわたしも、とっても」
改札の向こうで立ち止まったままの藤枝氏に背を向けた。
さよなら
背後から優しい声が聞こえた。
わたしは振り返らずに、母の好きだった並木道へと、ゆっくりと歩み始めた。
お付き合いくださった方には、心よりありがとうございました^^