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前編

その人は、しきりに左手で頭を掻き毟りながら、「大きなお世話かも知れませんが」と前置きしてから、相続についての説明を始めた。

 当社の頂戴する葬儀代、墓石の費用は勿論のこと、お坊さんに支払う戒名代(その人は、お布施とは言わずに戒名代と何度も言った)についても、領収書を発行してもらうことを進言してくれた。

 長い相続の講釈を終えると、ナイロン製の大きなビジネスバッグから、葬儀の見積書や祭壇の見本写真などを次々と取り出し、テーブルの上で広げて、慣れた口調で、葬儀の段取りと入用なものの説明を始めた。

 フラワー家族葬。

 火葬場おしのぎ。

 ドライアイス(初回十キロ)。

 長い説明の中で、頭の片隅に入ってきた単語はこの三つだけだった。

 ぼんやりとリビングの窓越しに目をやると、道路向かいにある広い市民農場の脇に、咲き乱れる彼岸花が風に揺れていた。

 母は、毎年きちんと彼岸の時期に満開になるこの花を不思議だと首を傾げていた。

 真っ赤に咲き乱れる彼岸花に連れさられてしまったように思えた。忌々しい、毒気の強い花。

 母の死以降、悲しみよりも、怒りや驚きの感情に支配されて、涙を流すきっかけをすっかり失ってしまっていた。

 窓の外にばかり気をとられて生返事しか返さないわたしに、葬儀社の人はすっかり呆れてしまった様子で、きちんと受け答えをしてくれる夫の方しか見なくなった。

 葬儀社の人が帰ってから、わたしは市民農園脇の彼岸花の首をすべて切り落とした。


 彼岸花は、火葬場の敷地内にも群生していた。長い首先に揺れる赤い花びらを見ていると、胃からこみあげてくるのを感じた。

 込み上げるもの、全てを吐き出したいのに、吐けない。常に船酔いしているような、この感覚は、悪阻を思いださせた。

「火葬場おしのぎ」に手を付けることなく、白い壁に寄り掛かり、子宮のあたりに両手をそっと当てて、目をきつく閉じた。

 わたしは、母の死を身ごもったのだった。

 大きな焼却炉の中で、母がゆっくりと骨になってゆく姿を想像した。

 彼岸花色の炎に包まれて、母は小さなカルシウムの欠片になった。

 職員の方が、小さな欠片まで残らず骨壷に収めてくれた。そっと、その骨壷を両手で持ち上げた。冷たい陶器の感触が両手から伝わってきた。軽い、と思った瞬間、涙が溢れ出して、止めることができなかった。

 娘が、ママ、泣かないで、と囁きながら、喪服の裾を強く引っ張った。

 わたしを見つめる灰色の大きな瞳が、涙を湛えて揺れていた。


 夫は、わたしがまるで綿菓子の上を歩いているようなフワフワした毎日を過ごしている間に、娘の保育園の入園申請手続きをしてくれていた。

 娘の面倒を見てくれていた家族がいなくなったと事情を話すと、市役所は迅速に対応してくれたという。

 市役所から入園の許可書が届くと夫は

「入園待機児童のニュースを見たばかりだったから、心配だったんだよ」

 と嬉しそうに大きな声を出した。その許可書が届いた日から、少しずつ、遺品の整理を始めた。

 押し入れの奥に仕舞われていた小さな桐箱を開けてみると母名義の通帳が三通、わたし名義の見覚えのない預金通帳が一通見つかった。

 愛らしい熊のキャラクターの描かれた表紙には小さくマジックで「仕事」と記載されていた。

 開いてみると、毎月十五日に六万円の入金がある。振込み人はフジエダヒロシとカタカナで記載されていた。わたしの高校入学時、大学入学時にだけまとまった金額が引き出されているが、あとはフジエダヒロシ氏からの振込みで残高は増える一方の口座だった。

「フジエダヒロシ」

 わたしは声に出してみた。思い出の糸を手繰りながら、しばらく口の中で名前を呟いた。

 それは、かつてわたしが住んでいた貸家の大家だった。わたしたちの転居後も母とは付き合いがあったのだろうか。遺品の整理中、母の手帳から藤枝氏の住所を見つけ出した。

 悩んだ末、藤枝氏に短い手紙を書いた。

 母が死んだこと。それだけを短い文で伝えた。

 藤枝氏から、十月十日を指定して、お花を手向けにお邪魔したいという内容のはがきが届いたのは一昨日のことだった。

 短いはがきの、万年筆の優しい文字が温かい気持ちにさせてくれた。何度も何度も繰り返し読んだ。そのはがきを、わたしは誰の目にも触れないように、そっと母の仏壇の小さな引出しに仕舞った。

 十月十日は、母の誕生日だ。藤枝氏は母の誕生日を覚えていたのだろうか。お線香に火を点けながら、母に問いかけた。


 藤枝氏がやってくる当日、夫は娘を外に連れ出してくれた。

 溜まっていた娘の入園準備をしなくてはならない。母の使っていた裁縫箱から必要な道具を取り出した。

 タオルのネームタグ、ポーチ、お昼寝用の布団にひくシーツなど用意するものがたくさんあった。娘の選んだサーモンピンクの生地を、主のいなくなってしまった和室で広げた。

東の窓から入る太陽の光が、真新しい仏壇に届くと、ワックスの効いた小さな仏壇はギラギラと強い光を布地に反射した。華奢な体に派手な服を好んできていた母そのもののようだと、見とれてしまう。

 十五年ぶりにチャコペンを手にし、布地に線を引く。まっすぐ引いているつもりでも、畳の目の波にペンが引っ掛かり、苦心して描いたポーチ用の長方形は、よく目を凝らせば台形に見えるのだった。

 不器用なのは、父親似なのかしら

 誰に聞くでもなくそう呟いて、溜息を洩らす。

 ふと手を止めて庭に目をやると、手入れをする人のいなくなった庭は、いつの間にか雑草が伸び、荒れていた。縁石に置いてあった長靴を履き、見苦しいほどに高く伸びてしまった雑草だけ摘み取った。

 遠くに救急車のサイレンが聞こえた。大学病院が近いため、サイレンの音を聞かない日はない。

「人はね、一人で生まれて一人で死ぬの」

 悪酔いすると母はまだ小学生だったわたしに、しつこく繰り返す癖があった。わたしが黙って聞いていると

「死ぬのって生きるってことと同義語よね」と同意を求めた。

 母の言葉の意味が分からず、ただ首を縦に小さく振ると、それなら、まだ生きていけるわ。と母は微笑んだ。

 それなりに年を重ねた今でも理解はできない。

 しかし、骨壷を抱いた瞬間、感覚として母の言葉を理解した。

 けたたましいサイレンは、骨壷のひんやりとした感触と、母の言葉を思い出させた。

 心臓を素手で握られたような痛みを感じる。


 草を庭の隅に放り出し、両手で耳を塞いだ。

 塞いだ耳の奥から、母の寂しげな、お酒にかすれた声が聞こえた気がした。

 平気よ。

 一人で生まれて一人で死ぬのはみんな一緒なの。

 藤枝氏が来る前に、部屋を片付けなければならない。

 耳の奥の声を振り払い、和室へ戻った。

 草で切れたのか、指先に血が滲んでいた。舐めてみると、鉄の味と野菜の灰汁に似たえぐみが口内に広がった。

 裁断し終えた余り布を丁寧に畳んだ。母が生前使っていた桐ダンスの一番下の段には、生地が丁寧にしまわれている。萌黄色の布の上に、サーモンピンクの布を重ねた。

 質感も、色も、模様も違う布を重ね合わせていると、組み合わせは無限で、それはまるで万華鏡を覗く楽しみに似ている。

 藤枝氏の隣に住んでいた頃の想い出は、覚えていたくないことだらけなのに、鮮明に脳裏に焼きついている。


 まだ、父と母とわたしが一緒に暮らしていたころ、一度だけ電車に揺られてお城を見に行ったことがあった。

大 震災後に再建築された比較的新しく華奢な作りのその城は、重量感こそないが、小さいなりにも天守閣があり、そこから見る城下町はおもちゃのようだった。

父に肩車をされて城内にあるお土産屋さんを冷やかしていると、父が万華鏡をとって、二三度くるくると回してから

「足をしっかり押さえてあげるから、手を離して覗いてごらん」

 と渡してくれた。

 バランスを保ちながら父の肩の上で、くるくると万華鏡を回すと小さなビーズや千代紙が様々な模様を作り出した。

 飽きることなく万華鏡を父の肩の上で覗きながら、城内から城下町へと降りて行った。父が掴む足が少し痛いのも、時おりわざと肩をゆすって驚かしてくれるところも、お気に入りの乗り物だった。

「まるでお姫様と籠持ちみたいね」と母は眩しそうに笑った。

 父は「少し前まで肩車なんてどうってことなかったのに、重たくなってきたな。子供を背負う重さが、夫婦の責任の重さになるのかな」と呟いたが母の返事はなかった。

 強い風が母のスカートの裾を捲りあげた。

 真っ白い細い足が陶器の人形のようだと思った。

 母は両手でスカートを抑えながら、少し前を黙って歩き続けた。

 その日から、万華鏡で見るような、モザイク模様が好きになった。

 塗り絵のお姫様のドレスは様々な色を組み合わせて塗りつぶした。

 りえちゃんは、藤枝氏の一人娘だった。わたしの塗り絵を見るたびに

「シンデレラ姫は端切れの洋服から、綺麗なドレスに変わったはずなのに、ずっと貧乏人みたい」と怪訝な顔をした。

「もともとある絵の通りに塗らないなら、塗り絵や―めた」

 りえちゃんはそう言うと、綺麗なエナメルの靴を履いて玄関を飛び出した。

「公園でブランコする人、この指とーまれ」

 りえちゃんの弾けた声に呼応して、わたしは運動靴を履いて後を追った。

 近所には、一緒に遊んでくれる年頃の子供がいなかったため、わたしはりえちゃんの我侭に嫌気を感じながらも、金魚の糞のようにまとわり付いていた。

 公園のブランコの脇には大きなイチョウの木が植えられていた。たくさんの緑の葉を揺らし、ブランコに木陰を作った。

「ね、うんとブランコを漕いで、うんと高いところで片手を離してイチョウの葉っぱを取ろうよ」

 りえちゃんはそういうと、勢いよくブランコを漕ぎだした。わたしは慌てて鉄臭いブランコの手すりを掴んで、地面を思いっきり右足で蹴飛ばし空に飛んだ。

 左手で葉っぱを掴んだところまでは覚えていたが、落下した瞬間は何が起こったのかわからなかった。ただ、全身に強い痛みを感じ、声を上げることすらできずにいた。

りえちゃんは悲鳴を上げると「ママに言ってくるから」と走り去ってしまった。

 うつぶせのままでは砂が口に入るので、ゆっくりと仰向けになり、地面に寝転がったまま、イチョウを見上げた。

 青い空に、緑の葉が重なり合って、万華鏡と同じくらい綺麗だと思った。どれくらい見惚れていたのか、生ぬるい液体がゆっくりと顔を伝って耳に入った。

 血かもしれない。

 ブランコから落ちて初めて、わたしは声を上げて泣いた。

 暫くして駆けつけてきた男性がわたしを背負って病院まで連れて行ってくれた。

頬に触れた仕立てのいいシャツに見覚えがあった。先日、藤枝氏から頼まれて母が仕立てたものだった。まっ白い生地に、赤黒いシミが広がっていった。

 鉄の匂いと藤枝氏の使っていた香水の香りが鼻をくすぐった。ミントのような、清潔な香りだった。男の人も香水を使うものなのだと痛みの中、ぼんやりと考えた。

 背中で「服を汚してごめんなさい」と呟いたが、藤枝氏は走るのに一生懸命で、ぜーぜーいう荒い息が返ってくるばかりだった。

 診察室で傷口を縫合してもらっている間中、藤枝氏は

痛くないかい? と繰り返しわたしに尋ね、お医者様に静かにするようにと窘められていた。

 お医者様は最後に

「これだけの傷なんだから、痛いに決まっているでしょう」

 と呆れた声を出した。

 頭に包帯を巻いてもらい、待合室に戻ると同時に母親が財布を持って駆けつけてきた。母の髪は乱れていて、服にはシワがよっていた。抱きついた母の体からは、甘いミントの香りがした。

「シャツ、仕立て直します。本当にお世話になって、すいません」

 母がハンカチで藤枝氏の肩に触れると藤枝氏は、そっとその手を払ってから咳払いをして、待合室中を見渡した。

「ご主人は」

「分からないんです。会社に連絡したら、もうとっくに会社を辞めているのだと聞かされて……どこにいるのか、分からないんです」

 涙声になった母の肩に、今度は藤枝氏がそっと手を添えて、病院を後にした。

 わたしは、右手を母に、左手を藤枝氏に繋いでもらって、ゆっくりと家に帰った。

 三人とも会話はなかった。

 アスファルトに手をつないだ三人の影が長く長く伸びていた。

 そのころ住んでいた小さな貸家は、母に仕立ての仕事を出してくれている藤枝氏の広大な敷地の中に建てられていた。わたしの家のほかにも三軒ほど小さな貸家が寄り添うように建っていた。どの家からも足踏みミシンの音がしていた。

藤枝さんは社長さんで、大家さんなのよ。分かりやすく言うと、そういうことなのよ、と母は教えてくれた。

 その夜、母と父は大きな声を上げて喧嘩をした。そっと襖を開けて覗くと、母が父の通勤用の鞄から、布の端切れを次々と取り出しては空に投げた。

 マジックショーのようだと思った。

 母は、泣きながら端切れを放り、父は藤枝氏の名前を荒々しく叫んだ。

「通勤しているふりをして、何も鞄に入れるものがないからって、こんなものを詰め込んで……」

 母は、散らかった布の海で突っ伏した。

読んでくださりありがとうございます。後篇に続きます。全二話です^^

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