一
マトリョーナ・カラスは遂にその日一日、学校へ行くことはなかった。
“鏡の中のアクマ”という、どんな願い事も叶えてしまいかねない、危険な怪異の後始末で手一杯であった為だ。怪異の完全消失の為に、既に発生してしまっていたアクマを超常的手段で消滅させ、関わった人間の記憶を消し、面白おかしく都市伝説を流布する者を特定し、これまた記憶を消した。二手に分かれて、一日掛かりの仕事だった。
マンションへ帰ってくるや否や、彼女はベッドにダイブしアンドリューを苦笑させた。
「あら、いたの」
「そらいるさ」
「終わった?」
「おおよそ、な。今はまだ語る者もいるが、徐々になくなっていくだろう」
「長期的になるのね」
余程疲れてしまったのか、マチヤはふわぁと大きな欠伸をする。
「悪魔よりも面倒だ」
そんな彼女の前にアンドリューはコーヒーを差し出した。もう少し話をしろ、という意味合いを含ませていたが、それに気付いたかどうかはわからない。
マチヤがコーヒーをぼうっと眺めながら、
「あの子、どうなるのかしら」と呟いた。
「そんなに秋村楓が気になるかね」
アンドリューにそう言われると、彼女はむすっした顔で「別に」と返す。
そして続けて、
「なんだかイライラする子なだけよ」とぶっきらぼうに言い放った。
悪魔は嫌らしい笑みを浮かべる。
「人間の脳は欠けたとしても、どこかが補うことがあるらしいな」
突如としてそんな話を持ち出した彼に、マチヤは怪訝な視線だけを送った。気にせずアンドリューは語る。
「それで俺は思うんだが、人の感情も同じなのではないかと」
「……何が言いたいの」
「そのイラつきは……」
アンドリューは次の言葉を、これでもかと溜める。
溜めて溜めて、ようやく放ったのは、
「恋ではないかね?」
という、マチヤにしてみれば突拍子もない一言だった。あまりにあんまりなものだから、思わずマチヤは口に含んだコーヒーを噴き出してしまった。「おや汚いな」と他人事のように言うのが、余計にマチヤの怒りを逆撫でする。
「ばっかみたい。もう一度言う。ばっかみたい」
「どうしてかね」
「だって私の恋は、貴方が持っているじゃない」
なるほど、と納得したように悪魔は右手で顎をさすり、左手の平を上にして彼女の眼前へと突き出した。そこには淡いピンク色をした石が乗っている。
「確かに持っている」
マトリョーナ・カラスはアンドリューとの契約で、自分が到底使うことのない感情を差し出していた。
「だが、それで先の話に戻る」
「……なんだっけ、眠いのよ、覚えてないわ」
「感情も、欠けたらどこかが補うのではないかね?」
その言葉にマチヤは、ようやく彼が何を言いたいかを理解した。秋村楓に対するこのイラつきは、失われた恋心の代わりなのではないか、そんな話だ。
「馬鹿馬鹿しい」
マチヤは一笑に付して、悪魔の手の平に乗った小石を指差した。
「私の恋心は、それよ」
アンドリューはつまらなそうな顔をして、その石をポケットへと仕舞いこむ。
「くだらない話は置いといて。魔が差すという現象について、話したいんだけど」
「フム。良いだろう」
しかしその退屈な気分も、マチヤがもたらした話によって、掻き消されていくのであった。