[XI]
アンドリューが外の世界へと戻ってきて、まず耳を貫いたのは、秋村楓の叫び声だった。
ミサキの最期の言葉は、確かに彼女にも届いていたのだった。
半狂乱になった楓は、手の中の小さな鏡に向かって、好きな人の名を呟き始める。
マチヤはそれを見て、自身のしたことは間違っていたのだろうか、と疑問に駆られた。しかし、傍らでアンドリューが自分を見ていることに気付いて、それを掻き消すように頭を振る。
──私は間違っていない。
そう思い直し、マチヤは彼女へと近づく。
手の届くほどの距離まで寄っても、楓がマチヤの方を見ることはなかった。割れた鏡を見つめたまま、名を呼び続けている。正面に膝を付いて、マチヤは楓の手を取った。
それでようやく、楓は顔をあげた。そして振りほどいた手を、マチヤの頬へと振るう。
バチン! という音が楓の心中に染み渡り、涙がまた零れた。
「どうして! どうして放っておいて……!」
楓は胸が苦しくなって、最後まで言いたい文句も言えなかった。それがまた悲しかった。
マチヤは立ち上がり、上から怒声を浴びせる。
「あれは人じゃないのよ!? ましてや、池内美咲でもない!」
「違う! あの子はミサキよ! 私だけの、ミサキなのに!」
その言葉に、苛立ったようにマチヤが激しく地団駄を踏んだ。
「カエデが! 本当に好きなのは、誰!?」
それは先ほど言う事の出来なかった問いだった。そしてマチヤが、一番聞きたかった問いでもあった。その答え次第では、見逃すこともあるかもしれない、と考えていた。どんな答えならそう思うことになるかまでは、わからなかったが。
しかし、例え前後が逆になっていたとしても、その道はなかったのだなと、楓の答えを聞いてマチヤはそう思うことになる。
「みさきよ! わたしがすきなのは、みさきなんだもん!」
そう言って楓は、わんわんと少女のように泣きじゃくる。
楓には偽者も本物もなかった。池内美咲も、ミサキも、共に本物であって、好きな人なのだった。
マチヤは思う。私は間違えなかった、と。人は人だけを好きになるべきなのだ、と。
楓がそれを聞いたらまた「勝手なことを」とか「押し付けないで」とか言うのであろうことはわかっていたから、口には出さなかったが。
マチヤは、人に自分の正義を押し付けることについてを、問題視したことはない。それは正しいのだから、突っぱねる方がおかしいのだとすら思っている。
そこをアンドリューは気に入っていた。
泣きじゃくる楓に背を向けて、マチヤは歩き出す。アンドリューもそれに黙って従った。
去り際に、ただ一言だけ「泣くほど好きなら、そう言えばいいじゃない」と告げた。それを聞いて楓は、いやいやするように首を振った。
「じゃあ勝手にしなさい」
少女が一人、常闇に取り残された。
しばらくして、楓の姿が見えなくなった頃、マチヤが重々しく口を開く。
「彼女の記憶、盗ってきて」
まだ“悪魔殺し”の仕事は残っていた。悪魔に関わった者から悪魔の記憶を消して、ようやく完了するのだ。そしてそれは、相手が怪異だった場合でも同じだ。むしろ怪異の方が、怪談の消失へと追い込む為にも必要な措置であった。
「怪異にまつわる記憶を、全部だからね」
怪談があって怪異があるのだ。異世界から勝手にやってくる悪魔とは、ものが違う。
アンドリューが「いいのか?」と聞き返した。
マチヤは戸惑う。今までそんなことを、訊かれたことはなかった。
「なにか、間違ってる?」
おずおずと訊ねると悪魔は笑った。
「いいや、何も。ただ、いいのかなと思っただけだ」
「……わけわかんない。怪談潰しに必要だし、あの子のためにも必要なことだと思うけど」
「そうだな。あのままでは、壊れてしまうだろうな。……フム。まだ泣き声が聞こえる」
言われてマチヤは耳を澄ましてみたが、悪魔とは聴覚が違うのか聞こえることはなかった。
「もっとも大分前から、壊れてたとも言えるが」
嘲るような口調にマチヤは、なんだか腹立たしく思った。
「ふんっ! いいから行ってきなさい!」
「了解、我が主人」
まったくキザでムカツク等とぼやつきながら、マチヤを左手を上に掲げた。これで周辺の結界は解除され、生活音が聞こえ始めてくる。
──記憶を消されても、人の脳は都合がいい。適当に補填されるはずだ。多分アイツも、その辺考えて盗ってくるだろうし。後は時間はかかるけど、あの怪談が消えていくように工作してそれから……。気になることも、あるのよね。
今後の活動について模索しながら、マトリョーナ・カラスは一人帰路へと着いたのだった。