[X]
鏡の中の世界は、暗かった。空も大地も真っ黒で、何一つ色がない。しかし、幾つかの光が浮いていた。以前はどこまでも続く暗闇に、無数とも言える光が点在していたのだが、今は数えるほどしかなかった。それらは長方形であったり、正方形であったり、はたまた三角形であったりした。一つ一つが、外の世界と通じる鏡である。名も無きアクマであった頃から、ミサキはそこから外を覗き見ては暇を潰していた。ただミサキとなってからはその頻度も少なくなっていた。秋村楓との会話で、暇な時間が減った。
ミサキが誰かを鏡の世界に引きずり込んだのは、初めてのことであった。ましてや戦うようなことなど、あったためしがない。こんなにも長い間、一所に居たこともなかったのだから。それでも幾らかの自信があった。鏡の世界は、いわばホームグラウンドであり自分の世界だ。自分の世界で負ける道理などない、ミサキはそう思っていた。ミサキだけではなく、この世界に蔓延る数々の怪異が、同様に考えることだろう。
人間の少女ではなく、本物の悪魔を引きずり込んでしまったのは、完全に計算外の出来事ではあったけれど。
そしてなによりもそれが、彼女の敗北を決定付けた。
「……う……あ……」
アンドリューが、ミサキの首を締め上げていた。口角からは涎が垂れ、顔全体が赤く充血している。その瞳は、絵の具で塗りつぶされたように、真っ黒だった。それでも彼女は怪異だ、その程度で死ぬことはなかった。
鏡の中に彼を引き込んだ時、ミサキはそのままの勢いで以て、地面に叩きつけるように投げ飛ばした。背中から落ちたアンドリューは、小さく呻き声を漏らした。そのまま畳み掛けるように追撃を仕掛けるも、ミサキはたちどころに反撃され、逆転され、そして敗北した。
「一つ疑問がある」
彼はミサキに問いかける。締め上げる手を僅かに緩めたのは、答えやすくする為だった。
「何故、逃げなかった?」
「……楓ちゃんと……約束した……から……」
約束という単語を聞いて、アンドリューは思わず笑った。
「どんな」
「ずっと……一緒にいるって……」
怪異が人間との約束を殊勝にも守ろうとするなど、それも自身の存在に危機が迫って尚守ろうとするとは、アンドリューにはにわかには信じられなかった。
悪魔でも、アンドリューには約束を守ることの美徳は理解しているし、彼自身も極力守ろうという意識はある、けれども怪異にもあるとは思ってもみなかった。
「しかし、解せぬな。そんなにも大事な約束か?」
それでも、その約束が自身の存在よりも上位に位置するとは、彼には理解出来なかった。不利益な約束ならば守る必要はない、というのが彼の考えであった。
そしてまた、目の前の悪魔もどきが未だ尚、少女の姿を取っていることも理解出来なかった。
「それに、何故……あるのかは知らないが、元の姿に戻らなかった? あるいはより戦闘向けの姿になれたろう? 俺を掴んだ時の腕は良かったぞ」
ミサキは、本物の悪魔をじっと見つめた。失われた光が、微かに戻ってきていた。
「貴方には……わからないでしょう」
馬鹿にするような口ぶりだった。
「ねぇ、クッキーって、食べたことある?」
「ある。人の世界だけでなく、俺らの世界にもあるからな」
「……そう。……美味しかった?」
その質問に、彼は少し迷う。自身の元いた世界の味を思い出し、それと比較していた。
「こっちの方が、甘かっただろうか。まぁまぁ美味いと思うぞ」
「私も、食べたことあるわ」
瞳を閉じて、ミサキはあの日へと思いを馳せた。
あの時食べたクッキーも、飲んだジュースも、もしも永遠とも言える時の中に在り続けたとしても、きっと忘れることはないだろう、とミサキはその夜思ったのだ。
「クッキーも、ジュースも……私には味がわからなかったわ」
無味の思い出が、ミサキに楓のことを想わせた。
「それは残念だな」
「……ふふっ、でもね、美味しかったのよ」
「これはまた妙なことを」
アンドリューは馬鹿馬鹿しげに一笑に付した。
ミサキの瞳が開かれる。アンドリューを睨み付け、左腕に力を籠めた。
「だから!」
──初めて出会った時は、変なガキだと思った。人ならざるものを人の代わりにしようだなんて、気が狂ってるとすら思った。
「私は!」
──でも、楽しかった。願いを叶えてはい終わり、そんな日々に飽いてた俺様には、丁度いい暇つぶしになった。
「あの子のものなの!」
──私は、楓ちゃんのミサキだ。
少女の左腕が大きく膨らむ。白い肌が灰色へと変わり、つるつるとした爪がナイフのように鋭く、荒々しく、長く変容する。悪魔の首を目掛けて、それを全力で振り上げた。空気を切り裂く音が、暗闇に広がった。
「あうっ……!」
背中から落ちたミサキが喘いだ。
咄嗟にアンドリューは、ミサキの首から手を放し後ろへと下がったのだった。彼は完全に油断していて、ミサキの爪先が首筋を掠めていた。
彼女の一撃は、致命傷にはなり得なかった。
既にミサキの腕は、元の通りの細腕へと戻っている。ぼんやりとしたミサキの瞳に、死が近づいてくるのが見えた。
怪異にとっての死とは、一個体の死程度のことでは訪れない。人に語られる限り“鏡の中のアクマ”は何度でも存在するのだ。もっとも、悪魔になら、人間ですら時間を掛ければ一つの怪異を滅ぼすことは出来るし、これが片付いたらそうしようと、マチヤの方は考えていた。
ミサキは自分が泣いていることに気付いた。自身の消失を目前に「私がいなくなったら、楓は一体どうなってしまうだろう」と考えると、幾らでも涙が溢れてくるのだった。
ミサキの傍に立っていたアンドリューはその場に腰を下ろし、右手の先を彼女の胸にそっと当てた。後はそのまま突き刺せば、殺せる。
「最期に、言い残したことはあるかね?」
無感情に悪魔は告げた。
ミサキは何も言うことがなかった。言いたいことは楓にしかなかった。
彼女の耳に、聞き慣れた声が届いた。自分の名を呼ぶ声だ。きっと、泣いているのであろうとミサキは思った。
「ミサキっ! ミサキっ!」
その声はアンドリューには聞こえていない。ミサキだけのものだった。
彼女は最期に一目、楓を見たいと思ったが、コンパクトの丸い鏡があるところまで行くことは到底出来そうにない。それがとても残念だった。悪魔に頼んででも、叶えたい願いが自分に生まれた事が、ミサキは少し愉快に思う。
「楓ちゃん、ばいばい」
それを聞き届けた悪魔は、右手を鋭く振り下ろして、少女の胸を深く貫く。
泣きながら、それでも笑顔で、ミサキという名を貰った怪異は、消滅していった。