[IX]
秋村楓の前に、マトリョーナ・カラスが立っていた。夕日に向かって立つことになった為、秋村楓がどんな思いで自分たちを見ているのかは、想像するしかなかった。だがどんな思いであっても、彼女が撤退することは、もうない。
銀色の髪が、夕日を受けて赤く燃えていた。
マチヤの傍らには、先日楓を捕らえようとした、蛇の刺青をした悪魔がいる。両腕を組んで悠然と立ち尽くしていた。
楓は怖かった。彼のことが。けれどそれ以上に、ミサキを失うことを恐れている。
だから、明日より先の彼女の為に、自分の為に、今この瞬間、彼女を二度と自分たちと関わらないようにと、約束させなければならなかった。
秋村楓に特別な力はない。口先だけで、彼女の正義を歪ませる必要がある。あるいは、最後まで心が折れないことが、唯一出来る抵抗の術だ。対してマチヤは、ミサキを消し去ればいいだけ。悪魔の力や不思議な術をもってしてだ。
ミサキの消失は既に決しているも同然だった。出会ってしまった時点で、消えていてもおかしくはなかったのだから。
それは楓もよくわかっていて、ミサキもようくわかっていたから、せめて最期のお別れをしたかったのだった。
楓が鋭くマチヤを睨み付けると、
「よく、考えられた?」
彼女は平然と口を開いた。見下ろすような声だった。即座に楓が言葉を返す。
「一日もいらなかった。この子は、絶対に渡さない」
そう言って、手にしたコンパクトを胸元でぎゅっと握り締める。地の底から響く声だった。
「楓ちゃん……」ミサキは複雑な気持ちで、それを受け止めた。
マチヤが大きく溜息を吐いた。その瞳は、何もかもわかっているのだと、物語っていた。
「イケウチ、ミサキ」
その名がマチヤが零れて、楓は明らかに動揺していた。
「貴女の怪異は未だ不明だけど、昨日ガラスに彼女の姿が、あったのよ」
見られていた! 楓の視線がマチヤから微かに外れた。
「初めは彼女も妖怪か何かなのかなって思ったけど。仲いいみたいだし」
「そんなわけ、ないじゃない」
楓は口の中が乾いていた。その一方で、手にはじっとりと汗をかいている。
「うん、そんなわけなかった。正真正銘の人間だった。……貴女」
心臓が早鐘のように激しく打ち鳴らされて、楓は苦しいくらいだった。呼吸もうまく出来ないほどで、ただただその先を言わないで欲しかった。知られたくなかった。
「彼女の姿を、怪異にとらせているのね?」
その時楓の耳には、ザクッザクッと、新雪の踏み荒らされる音が聞こえていた。
ミサキが「楓ちゃん、もういいよ」と言う声も、届かないほど激しい音だった。
「ねぇ、カエデ、貴女、彼女のことが……好きなの?」
マチヤがそれに気付くはずもなかった。
「だ、だったら、どうだって言うの……? 女が女を好きになったら、いけない?」
震えた声で、精一杯の虚勢を張っても、先ほどまでの気概がなくっていることは、誰の目にも明らかだった。
「いいえ。……質問を変えるね」
夕日が沈みきり、辺りが暗黒に包まれると、街灯がチカチカと点滅してから、頼りなさげに点った。
秋村楓は、マトリョーナ・カラスの足元を見ていた。
「貴女が、本当に好きなのは──」
その瞬間、マチヤを言葉を詰まらせる。楓の背後、T字路の真ん中に立つカーブミラーから、大きな腕が飛び出してきたのであった。灰色をした巨腕だ。マチヤを捕らえんと、真っ直ぐに伸びてくる。それは“鏡の中のアクマ”の腕だ。
ミサキの精一杯の抵抗だった。
「下がれ、マトリョーナ!」
アンドリューがマチヤを押しのけ、その身代わりとなる。痛いほどに握り締められたまま、鏡の中へと引きずり込まれていった。
マチヤはただそれを唖然と見ていることしか出来なかった。また楓も、何が起きたのかわからずに呆然とするばかりだった。
二人の少女が、夜闇の中に取り残された。