[VI]
それから私はモモ先生に招かれて、生物科室へとやってきた。
「適当に座れ」
と言われたが、椅子の上にまでプリント類が置いてあって、どこに座ったものやら。訊こうとしたけど、既にコーヒーを淹れる準備に取り掛かっていた。コーヒー中毒は伊達じゃない。
生物科室に入るのは初めてだった。奥行きはそこそこあるが、横幅は狭い。真ん中にどんと長机が置いてあり、その上にはビーカーや試験管や、プリントが山のように置いてあった。次の中間試験の草案らしきものも置いてあって、目のやり場に困る。どういうわけか梟の剥製が机の中央に飾ってあった。私の後から入ってきた骸骨は、そこが定位置なのか、扉の脇に突っ立っている。さっきからカタカタと笑うように顎が鳴っているものだから、なんか気になってしまう。
私は適当な椅子の上のプリントをどかして、そこに座った。
「コーヒー飲むか?」
「……いただきます」
折角だし、あの噂を確かめてみよう。コーヒーの美味しさなんてわかった試しないけど。
骸骨が笑いながら「我も欲しいですぞ」と言うが、貴方こそ味がわからないだろうに。というか、床がびしゃびしゃになるだけでしょ。
骸骨を無視してモモ先生が熱々のカップを手渡してくれた。実はビーカーを渡されるのではないかと内心ビクビクしていたのだが、そんなことはなく、いや先生は黒々とした液体の入ったビーカーを手にしていた。客人への配慮、というやつなのだろうか。
見るからにブラックだった。一口啜る。……かなり苦い。ちょっと涙目になった。
「図々しいかもしれませんけど、砂糖とかミルクとか、ないんですか?」
「すまん。今度は用意しとく」
缶のブラックよりも、苦いんじゃないだろうか。これをガブ飲みしてるのか……胃悪くしそう。それでも出されたものだから、ちびちびと飲み進めていく。
「それでだ」
先生が迷い顔を浮かべながら口を開いた。
「まず、そうだな。何から言ったものか」
何から言われたものか。正直色んなことがあって、何を聞いたところで、なんの感想も浮かんでこない気がする。未だ混乱中なのだ、実のところ。
「あ。自己紹介でもしとくか。そっちの骸骨がジョニーだな」
「んん! よろしくですぞ!」
カタカタカタカタと、一際大きく顎が鳴った。「うるせえ」と先生が言うと、一度は黙ったがすぐにまたカタカタと顎が鳴り出す。
「“深夜に笑う骸骨”っていう怪談聞いたことないか?」
ううん? ちょっと聞いたことなかった。だから私は首を横に振る。
頭の中で「ダサいわねぇ」と小馬鹿にしたようなミサキの声が聞こえた。でも実際出会ったら怖いのは、鏡の中のアクマよりも笑う骸骨よね絵面的に、と返すと「むー」と拗ねてしまった。かわいい。
「だろうな。大昔の話だ。まぁ、それがそいつなんだ」
「はあ」
ただ顎の合わせが悪いだけかと思った。
「あと、あっちの梟、あれも怪異だ」
「あれも、なんですか?」
だからこっちに置いてあるのか。どんな怪談なんだろう。
「“喋る梟の剥製”だ。名前は長老」
こっちも初耳だ。あと、なんかしょぼい! 思わず「それだけなんですか?」と訊ねたら、先生は苦笑いしながら「それだけなんだ」と答えた。
「ただ、まぁ、気紛れでな。喋る時はいつまでも喋ってるが、喋らない時は喋らない」
「そうなんですか」
「しかも喋るだけだから、会話にならない」
一方的に好き勝手喋るだけなんだ、と先生は呆れたように言う。
一方的に喋るだけの梟と、笑いながら話す骸骨。なんていうか、うるさそうだ。
「で、お前のとこのは?」
「えっ」
「お前も怪異を持ってるんだろう? どんな奴かくらい教えてくれ。興味もある」
そう言われても……この子のことは、ちょっと言えない。先生と美咲は面識があるし、それはつまり、色々とバレてしまうということだ。恥ずかしいし、秘めておきたいものだ。
「それは、その、すみません」
頭を下げて謝る。さっき助けてもらったことには、感謝はしている。解決にはならなかったけど、それでも少しの時間稼ぎが出来たと思えば、いい結果だった。
「……そうか。ま、色々あるしなーこっちの世界は」
先生もやっぱり、何かあったのだろうか。骸骨や梟と関わりを持つような出来事は、私にはまったく想像できないけど。
「でも、それが何なのかってのはわからないが、とりあえず今のところ、悪いものじゃないってことはわかる。悪いものだったら、とっくに私がなんとかしてるしな」
なんとかする、ってのは、そういうことなんだろう。さっきマチヤに妖怪退治をしているって言ってたし。よかった、彼女のように、とりあえず消し去る、みたいな人じゃなくって。積極的に守ってくれなくても、それだけで救われたような気持ちになった。
「だけどね、秋村。普通の生活に、普通の人間に戻るなら、今だと思うよ」
マチヤと同じような、諭すような声だった。
「私が言えた義理じゃないかもしれんが……いや、私だから言わせて貰う。普通が、一番なんだ」
それが親切心から出たものだということは、頭ではわかっている。今の自分が、いやあの時の自分が、おかしかったという事はよくわかっているのだ。
「……すみません」
でも私は、あの子なしにはなれないのだ。
脳裏に浮かんで消えた顔は、美咲だろうか、それともミサキなのだろうか。