2人のチェロ奏者
マホガニー材、真中だけすりガラスの、『OFF&ON』と流麗なフォントで書かれてあるドア。ぐっと奥へ押して中にはいる。
鼻に感じたのはコーヒーじゃなくて紅茶の香り。あとケーキが焼かれてる匂い、だ。この独特のこってりした匂いは……チーズケーキかな。
「いらっしゃいませ」
カウンターにてグラスを磨いていたガタイのいいお兄さんと目が合った。はちみつ色の短髪……どこかで見たことあるような……。
ぺこ、と軽く頭を下げると、「お好きな席にどうぞ」と手で差し示された。俊敏そうなにーちゃんだ。言われるがままに窓際の席にいって座り込む。そのまま暖かいからぽやっとしてたらお兄さんがメニューを届けるよりはやくもう一度入り口のドアが開いた。
現れた人物二名と自分の腕時計を見比べてわたしはたまげた。だってまだ11時15分。
伊勢先輩、はやっ!
っていうか、なんでお連れに瀬川君!?
「いらっしゃいませー、おー来たか。もう来てるよ彼女」
「うん、サンキュ。今日のおすすめは?カズ」
「今日はチーズケーキとアールグレイかねえ。グアテマラコーヒーもいいけど。ケーキ食うならたぶん紅茶の方がいいんじゃねーかな」
「じゃケーキと紅茶ひとつと……僕はミルクティー。界は?」
「俺もミルクティー」
「りょーかい。座って待っててくんな」
……な、なんだなんだ。
伊勢先輩が顔広いってうのは知ってたけど、まさかこんな辺境の地までその手が入ってるとは。超親しげオーラ出てたよ。ぽかんと口を開けてると、やがて目の前までやってきたハンサムチェリスト二人。
「おはよ。ごめんね朝から。どしたのびっくりした顔して」
「え、あの、おはようございます。」
「おはよう」
「店員さんと……お知りあい、で?」
「何言ってんだよ。あいつうちの学校のパーカス科だぞ。四年打楽器の井堀和将。俺のコンチェルトでもティンパニやってくれてるだろーが」
横からの瀬川君の突っ込みに思い切り店員さんを見ていた。ショーケースからケーキを取り出してる。
ああ。そうだ。一度打楽器の演奏会って興味あったから聴きにいったことあって、そこで一際かっこいー!って思ったことあったんだよ。井堀先輩の打楽器。なんで思い出せなかったんだ。わたし。
「で、まあ。カズのことは置いといて。本題入りましょうか。」
「あ、はい」
伊勢先輩は人に威圧感なく物事をとりしきるのが非常にうまいと思う。だから自治会長なんかに推薦されるんだよね。
「まず、一番目。いいことからね。突然だけど高崎さんはダニエル・ヒューバーって知ってるかな」
「オーボエ奏者の?はい、ええ、もちろん。大好きですよ。彼のブラームスのシンフォニーとかサイコウだと思ってます」
「ありがとう。じゃね、これ受け取って」
なぜかお礼を言いながら私のお向かいに腰掛けた先輩は、手にもってたファイルから何かのパンフレットをとりだしてみせた。身を乗り出して見てみる。音楽講習会のパンフ。あ、オーボエ講師ダニエル・ヒューバーさんだって。うわあ!超行きたい!
「彼ねえ、実は僕の父だったりするんだな」
…………。
止まった。
なに?
「おとうさん?」
「ええ」
「家族?ダニエル・ヒューバーさんと?先輩が?」
「ええ。……あ、そーか。うん、学校だとね、日本名しか名乗ってないからね。でも正式名は譲司 Ashrey Huberなので。僕。似てない?」
「にて……ます。そう考えると」
うわー、と打ちのめされながら私は再びパンフレットを見た。イギリスでやるんだって。ロンドンの王立音楽院でやるんだって。いいなあ。いいな、いいなーっ。
ってうか伊勢先輩、あんな有名なオーボエ奏者の息子さんなんだ……きっとお家とか音楽にあふれてるんだろうな。素敵。
「でさ。父が、高崎さんをその講習会に招待するって言ってるんだ。僕が色々話してあるから、興味もっちゃって。オーボエがそんなに好きな子なら大丈夫だ、ぜひ会いたい、って。もちろん高崎さんが嫌ならいいんだけど、もし参加してくれるなら交通費だけの負担でいいし、僕のイギリスの実家がロンドンへの通勤圏内にあるから宿泊先にも困らないよ。どう?」
もうなんだかわけがわっかんないぞお!
最近のわたしの生活、フツーの日がないっ。
意外すぎる伊勢先輩の言葉にただただ目をむくことしかできない。ずーっと黙って頬杖ついていた瀬川君がぼそ、と小さい声で突っ込んできた。
「行ったほうがいいよ高崎」
おまえの音楽は多分、日本じゃ潰されてしまうから。
「……」
顔を上げた。瀬川君はいつもどおりのクールな表情。数日前にはあーんなに甘い顔で恩納さんと一緒に帰ってたくせに。なんだよ。ウケますよそのギャップっぷり。
っていうか、そう、そうかあ。日本じゃ、潰される、かあ。
……たしかに今、あんまり楽しくないけどなあ。
「高崎さん?イヤ?」
「いいえ」
首を振った。よし。決めた。
「参加させていただきます」
学校なんかどうでもいい。
教授のこともどうでもいい。
大好きな音楽と、大好きなオーボエと生きるため、少しだけ。
少しだけ、勇気出してみよう。
***
「お話中失礼しますよ」
その後しばらくたってから井堀先輩がテーブルまでやってきた。もうお茶もケーキも届いているというのに。一体ナゼ。
伊勢先輩と瀬川君も同じことを思ったらしく顔を上げた。
「なにカズ」
「お勘定は早いですよ」
「ちげーっての。」
ややむっとした顔で井堀先輩は答えた。
わたしを見て。
「オーボエの子だろ。オケの」
「え。あ、そうです。高崎です。三年の」
「ちょーっと俺きみに関してムカツクっていうか酷い噂聞いたんだけどさあ。言ってもいいか。っていうか言うぞ。ジョージとカイもそのこと話そうとしてきたんだろ」
「……まー、推測するにおそらくは、ね」
「その通り、なんだろうなあ。」
「……?」
伊勢先輩と瀬川君が顔を見合わせて苦笑した。
わたしはひとり意味がわからず。「何ですか」
とたずねたところ。
「いやあ、ははは、あのさ。自分たちで言うのもすごいヤなんだけど。」
伊勢先輩の笑顔が引きつった。
「はあ」
「その……高崎さんに対する、悪口とか。嫌味とか。聞こえてくるのさ。オケの時間とか他の時間とかに」
「えっ」
「俺も直接耳にした。でもその言い方があんまり一方的すぎて、っていうかお前がそんな事言われてもあんまりフツーにしてる姿がむかついたりしたんだが、まあとにかく腹が立ってしょうがなくて、問いただしたんだよ、木管の女一人。」
ええ!
い、いつの間にそんなことを。
「なんで高崎がそんな目に合ってるのか理解できない。お前絶対人に嫌われるタイプじゃないだろ。はっきりしなくて苛々することはあるけど」
瀬川君はいつも一言多いんだよ!
ほっといて。
「で?」
「……で、還ってきた答えが」
「”伊勢先輩と瀬川君にちやほやされててムカツク”からだそうで。」
「ほんと傲慢この上ないんだけど、悪い。おまえがいやな目にあってるのって、俺らのせいなんだろう」
──。
息を止めた。
視線をテーブルへ落とした。
あやまった。あの瀬川君が、あやまった。
胸が痛み出す。
最近瀬川君を見るとこうだ。ちくちくする。
なんだろう、あやまってほしいわけじゃない、っていうか、あやまってもどうにもならないことだと思うんだけど。
だけどなんか、嬉しかった。
わたしはちゃんと認められてるって。
わたしのことを気にかけてくれてるひとがいるんだって。
喉がちょっとだけ、熱くなった。