逃げる。
「…………」
オーボエの部屋を出、管棟をそそくさと後にする。通り過ぎるひとたちの視線が痛い。なにか噂されてる気がする。っていうかされてる。
来たよ。
来たよきたよきたよー。
瀬川君ファン(一部伊勢先輩ファンも含む)の女の子たちによる嫌がらせ第二段が……。
「あれ、まゆちゃん楽譜コピーじゃなかった?なんでそんなに重そうな原譜持ってるのー?」
「……忘れてきちゃったの。図書館であわてて借りた」
うん。これはほんと。昨日あんまり夜家でぼーっとしてたから準備しないでガッコきちゃったんだよね。
室内楽の合わせ三回目。教室を開けてみるとまだ沙絵ちゃんしか来てなかった。
今日も完全に手入れの行き届いたショートボブがつやつや。細い足を包むジーパンも素敵。見るからに教養高そうな女の子なのだ。
「おっはよーう、ごめん、実行委員の仕事が伸びて遅れました!はいこれお詫びです!」
「あージョージおはよ。遅れたっていっても10分じゃない、べつにそんな気つかわなくてもいいのに」
「ノン!礼儀ですよ、これはね。おはよう沙絵。おはよう高崎さん。昨日のオケ、最高だった」
あ、はあ、どうも。
ドリンク持参で登場した伊勢先輩に恐縮して会釈する。
だってうれしくないわけがない。瀬川君のせいでぱっとは目立たないけれど、それでも伊勢先輩だってかーなーりいいチェロを弾くのだ。一度聴いたことのある、先輩のエルガー。かなしくてかなしくてやさしくて、痛切に最高だった。
「タカがまだ来てないね。──ところで高崎さん、どうしたの?」
笑顔で先輩はわたしの心臓を開いた。
……うあ。いた。
もー、ほんっと、お人よしの率直の、やさしいやさしい先輩なんだから。
「また何か『あった』?」
「はい」
適当にうなづいてみせる。こういうときなにか『された』?と聞かないのがひじょうに先輩らしい。
「ええとですね」
「うん」
「そのー、わたしの友達にフルート科の歌苗って子がいるんですけど」
「うん?」
「そのこサックス科の男の子と付き合ってて、だけど別れたらしんです。昨日。歌苗は瀬川君のファンで、どうも本気になっちゃったらしくて」
「…………」
伊勢先輩と沙絵ちゃんが顔を見合わせる。
なんともいえない、微妙な表情をしていた。
「で、ですね。だけど表向きにはその歌苗と彼氏さんが別れた理由が、あたしが横恋慕したからってことになっちゃってるみたいなんですよ。そういう噂が木管の中で流れててー、わたしもうすごい煙たがられてるの。っていうか憎悪の念を送られてまして。わけわかんないですよ」
「こっちも意味わかんないぞお」
沙絵ちゃんが首をかしげる。髪の毛が右肩の上にさらさらとやわらかそうにこぼれて積もった。ん、教室の後のドアが開いた、と思ったら後輩ヴィオラくんの登場だ。軽く手をふってみる。会釈で返された。
「界くんを好きだとか嫌いだとかいう問題はどうでもいいとして、なんでまゆちゃんがその、歌苗ちゃんたちにとって都合悪い存在になってるの?友達なんでしょ?」
「……うー、少なくとも学園祭オケ組むまでは、そうだったかな」
「なんだその曖昧な言い方はー」
「今はどうも嫌われちゃったみたいなの」
「まあ、まあ、沙絵。あんまり突っ込む話題でもないでしょ」
伊勢先輩が穏やかに割り込んで、沙絵ちゃんは消化不良の顔をしつつも黙った。
わたしはオーボエを両手で握り、なんでこんなことになってるんだと考えを整理しようとする。でもムリだった。わけがわからず。
この後レッスンだしさあ……行きたくないな。
「ま、とりあえず、やろっか」
「ん。」
「まゆちゃん、大丈夫?」
「ん。べつにケガとかさせられたわけじゃないし。やろう。」
「そうしよう。タカ、準備オッケー?」
「はいはい。待ってくださいよ、いいですよ」
ヴィオラの男の子は松くんというらしい。名前は知らないけど、伊勢先輩はタカと呼んでいる。細身の体が椅子をひっぱりだしてきて一同向かい合う体型をとると、とりあえず音を合わせて、演奏をはじめた。
(歌苗)
かなえ。好き、だったんだけどな。
今でも好きなんだけどな。ちょっとワガママなところはあったけど。
(歌苗。あたしは別に瀬川君と仲良くもないし瀬川君に好かれてるわけでもないよ。好きでもない)
ずき、と胸が痛むのは、きっと息を深く吸い込みすぎたせい。
(……だからもう一度わたしと喋ってよ……)
目を閉じて、わたしは更に音に耳を傾けた。
音楽祭まであと5日だ。
***
そう。
何を隠そううちのガッコはただ今、年に一度の学園祭直前という修羅場だったりしたのだ。残すは五日。祭は二日間。主な出し物はやっぱ音大らしくコンサートで、瀬川君のチェロコンチェルトはそのなかでも特に目玉だったりした。
よってというかなんというか、校内を飾り付けて各専攻がそれぞれの模擬店を準備する以外の時間は、ほとんど全てそういうコンサート系の練習にあてられている。
かくいうわたしも毎日オケ→室内楽Ⅰ→室内楽Ⅱ→レッスン→またもオケ、というなかなか忙しいスケジュールを組んでたりする。だってうちのガッコオーボエ専攻少ないんだよ。下手でもひっぱりだされるんだな。
「お疲れ様でした、お先に失礼します!」
「おーう、お疲れ高崎」
「おつかれまゆちゃーん♪」
「体壊すなよ!」
室内楽を終え、レッスン室に向けて楽器と楽譜とバッグ片手に疾走する。基本的にうちの学校の人たちは皆やさしい。音楽をやって生きているせいなのかなんなのか、楽しくて明るく気のいいひとたちばかりなのだ。……まあ、だからこそ、歌苗たちの行動にショックが大きかったりするんだけど。考えるとヘコみ出してとまらないから、考えないことにしておく。
「失礼します」
レッスン室到着。ふいー間に合った。
息切れも整えられそうな程度。深呼吸深呼吸。ん。先生がこっち向いたぞ。
……あれ、なんか……機嫌わるそう?
「高崎」
「──はい。」
「ミスター・ウィルソンがオケでのお前のことを大層誉めていたが。一体どんな演奏をしたんだ?」
「え……」
目をしばたたいた。
教授の視線が、わたしのことを上から下までじろじろと舐めている。え、何。
何、その……イヤな、視線。
「何度も言っているけどな」
怒っている声だった。明らかに。聞きなれてる声だけど、だけど今日はまだ楽器を取り出してさえいないのだ。一体なにがあったんだろう。
「高崎。お前はまだ『自分の演奏』なんてもんを求められるほどの位置には来てないんだぞ。むしろ程遠い。ヘッタクソなくせに最近どうも反抗的な態度を取ると思っていたが、そういうことか。おまえは担当教授である私よりもたまたま今うちの学校に来ているウィルソンの言う言葉を信じるのか。」
「…………」
唇を、開いたけど、しゃべることなんてとてもできそうになかった。喉が腫れてた。ずきずきして、ひりひりした。
信じるも、なにも。
わたしはただ──楽しく吹いただけです。
「何か言わんか!何だ、その目は?」
その目?
「私のやり方に何か不満があるなら言え。お前はいつもそうやって……自分の勝手にやって……私を裏切る。育ててやった恩も忘れて!」
「裏切る?」
かすれた呟きが腫れた喉にひっかかった。
目を見開いていた。
教授の言葉が、信じられなかった。
ただすこし、いつもより遠くまで飛んでみただけ。ただすこし、いつもより楽しんでみただけ。ただすこし、自分に自信を持ってみただけ……。
ただ、それだけのことが、裏切り?
教授への、裏切りになるの?
「お前は落ちこぼれなんだぞ、高崎。それなのに私は忙しい時間の合間を縫っていろいろ面倒みてやっているんだ。成績もふるわず、コンクールで入賞したこともなくて、それでいて自由にやりたいなどと、口だけは一丁前に!そういうのは我侭というんだよ!身の程を知りなさい、お前はまだ学生なんだ!」
ばりばりばりって、体が下から上に引き裂かれていくみたいだった。
私のコンプレックス、気にしてること、ちょっとだけ憧れていた未来、そういう場所をすべて刺されて、そこから裂かれる。
いたい。痛い痛い痛い痛い。
胸が痛い。喉が痛い。
涙を──流したかった。
だけど悔しすぎてできなくて、わたしは。
いきなりドアの方へ勢いよく振り返った。
そして叫んだ。
「っ、失礼、しますッ」
「──高崎!!」
逃げ出した。
飛び出して、ドアを閉めることすらせずに、ひたすら。
ひたすら、あまりにも苦しいこの学校から。




