ふんだりけったり
歌苗に一方的にマジギレされてから一週間。
四重奏は……結局やることになった。学校側からのたっての希望で、というか、ウィルソンからの希望だったそうで、楽譜を見ながら演奏していいからという条件がついたので、私は最後の最後でうなづいた。
知り合いの子がメンバーの内のひとりにいたのも心強かったし、もうほとんどやけくそだった。やるよ。やればいいんでしょ。
意味わかんないけど!
「うん、高崎さん、もちょっと出てもいいよ。いくらモーツァルトでも、規則に縛られる必要全然ないし。楽しもう」
「あ、はい。じゃ、あの……チェロももうちょっと前面に出ていただいていいですか?この二人だけのところ」
「J?オーケイ、どんな感じがいい、楽しげな感じ、はずむ感じ、やさしい感じ、ちょっと下品に笑う感じ?アマデウスの映画みたいに」
「あはは、ジョージそれうまいねー」
メンバーの人たちとは、顔を合わせてみたら意外とうまく行きそうだということに気がついた。知り合いの女の子はヴァイオリン。四年のきれいな先輩(男)がチェロ。ひとつ下の学年の男の子がヴィオラ。
ヴィオラの子だけは大層無口で読めない感じの子だったけど、それでも音楽はけっこう乗ってくれる感じで、わたしは合うな、って感じをつかんでいた。
「沙絵、このワンフレーズもっとこう、微妙なイントネーションつけられない?」
「どんなよ。イントネーションってだけだと、わかんない。ドイツ語的な?」
「あ、そうそう。さすが。ドイツ語、ってうか、オーストリア語のイントネーション。ドイツ語よりはややpolitelyな感じだろ、高級で育ちのよさそうな。もうちょっと、このBをさ、甘く伸ばして」
「お嬢」と私は呼んでいる、ヴァイオリンの沙絵ちゃんと、チェロ科の美青年伊勢先輩がなにやら意味のわからない会話をやりとりしている。わたしは静かにつぶやいた。
「……ポライトリー?」
「あ、ごめんね。丁寧って意味。堅苦しい感じの。丁重とも言うかな」
にこ、と微笑まれると胸がとろけそうになる。あー、ほんとに綺麗な先輩だあ。まつげ長くて、髪の毛つるっとしてて、鼻高くて、だけど嫌味な感じ全然ない。日英ハーフだから英語べらべらだっていうし。素敵。
瀬川君とは大違いなのに、だけどこの二人って超仲いいんだよねえ。学年を超えた友情。もっとも、瀬川君が学年の差なんて意識する人だとは思えないけどさ。オケの最中のことを考えても。
「よーし、もう一回やろう。タカ、準備いい?」
「はい。いつでもどうぞ」
「いいね、そのノリ。じゃ、いくよ高崎さん」
「はい!」
伊勢先輩がヴィオラの男の子に了解を取って、四人でいっせいに楽器を構える。お互いの顔をうかがって息を吸い込み、音の海に飛び込んだ。
***
室内楽はうまくいきそうなので少し気分が落ち着いてきて、するとなんだか甘いものが欲しくなってきた。やっぱり女の子にはお菓子とお茶だよ。というわけで、お財布を取りに、楽器をしまいがてら管棟に戻ってみる。
オーボエ専攻専用の部屋の戸を開けて、ロッカーに直行。そしてはじめて異変に気がついた。
「……何コレ?」
ごみが。
入ってる。
くずかごの中身をぶちまけたみたいに、ほこりまみれの紙切れや、油のしみたお菓子の袋、ジュースのペットボトル。遠慮なく私のバッグや、それから、それから……
「──リード!!」
叫んで楽器ケースに飛びついた。
ごみの海のなかから救助するように引っ張り出して、慌てて中身を確認する。オーボエ本体と同じくらい大事な、音を出すために必要な吹き口、それがリード。特にオーボエっていうのは構造そのものが未完成な楽器だから、自分で削って、水分を含ませて、慎重にリードを育てなきゃならないのだ。
なのに、なのに。
「……ぐしゃぐしゃだ……」
心臓が握りつぶされたみたいなショックだった。昨日調整したばかりのリード。削り具合がすごくうまくいって、使うのを楽しみにしてた。しかも、いつもよりいいものを選んだから、値段もすごく高いやつだった。
バイトして、頑張って買ったのに。
「……なんでえ……?」
涙が出た。
ごみってなに。
リードが壊れるってどういうこと。
わたし本人ならともかく、わたしの大事なオーボエにまで被害が及んでるなんて。
一体、なにがどうなってるのよ。
「失礼しまーす」
後方でドアが開いた音がした。でも振り向けない。ただショックで、体の奥底からコールタールみたいなどろどろが出てきてるみたいで、眼も口も開いたまま呆然としていた。
「あの、すいません。3年生の高崎さんという方を知りませんか……って、高崎さん?」
「……はい」
肩のすぐ脇に、人の温度を感じた。わずかに首を傾けてみると、さっきまで室内楽を一緒にやってた先輩。
チェロの、伊勢……
「どうしたの、泣いて、なにが?うわ、リード!どうしたのそれ!?」
先輩は私の顔と手元とぐちゃぐちゃのロッカーとそこからはみ出てる色々なものをすべて交互に見比べて喋った。いつもは穏やかに笑ってるきれいな顔がみるみる青ざめていく。
やさしいひとなんだな。さっきも思ったけど、ほんとにやさしいひとなんだ。
他人のことでこんな顔してくれなくていいのに。
「リード……」
「落としたの?」
「……室内楽から戻ってきてみたら、壊れてて……ロッカーの中ごみだらけで……なんでなんだろう、どうして、わけわかんない、なんなのよ?わたしのリード、オーボエ、バッグだって、色々入ってたのに全部ジュースとかでベタベタ……」
「なんてことを」
苦しげに息を吐いて、先輩は私の横にしゃがんでくれた。頭を、肩を、背中を軽くなでてくれて、ごくごく自然に落ち着けてもらえる。うわ、もてそうな仕草だ。
「……誰かの嫌がらせだね。子供っぽすぎる。信じられないよ、大学生にもなって」
「……だけど、なんで」
「考えてもしょうがないから。今はとりあえずここを片付けよう。立ち会ったのも何かの縁だろ、僕も手伝うよ。盗まれたものとかない?確認して、あったら学校に届け出よう」
「……はい……。」
てきぱきとした指示にほっとして、ようやく固まっていた手を動かすことができた。花のように開いてつぶれたリードを見るとほんとに心が引き裂かれそうだったけど、もう使えないことは事実だから、片付ける。
結局その後調べてみたら、お財布と授業のノートが二冊、なくなっていた。
伊勢先輩は自分の予定もそっちのけで助けてくれて、結局なんだかその日は帰りまで一緒になってしまった。駅まで送るよ、と紳士的に言われて断るなんてできなかったのだ。
これもなにかの縁だしさ、ほんと。
それに高崎さんは僕の悪友のお気に入りみたいだから。
帰り道、隣を歩きながら先輩の言った言葉に私は弱々しく微笑んで見せた。
「先輩、お人よしなんですねえ。苦労してそう」
「あは、仰るとおりだ。自分でもやなんだけどさ、この性格。だけどどうも性分みたいで。治せないよ今更」
「ところで悪友って、どちら様ですか」
「え、カイだよ。瀬川君。ほら、今度ドヴォルザークのチェロコンチェルト弾く」
…………。
がん、と頭に衝撃が走った。
わかったのだ。
「──それだ」
「?え?」
「それだ。ロッカーの犯人……歌苗が言ってた……っ」
後から後から、思い当たるふしが出てくる。
私はうわ、と頭の両脇に手を押し付けた。
ひどい。ひどすぎる。
そういう意味だったんだ。歌苗の言ってた、「ヤな目にあうよ」っていうことは。
「……サイテー」
「ちょ、たかさきさん」
ぼろぼろ涙がこぼれてきて、伊勢先輩を心配させた。だけど止まらない。
悔しい。どうしようもなく悔しかった。
(瀬川君にしごかれてるから)
(高崎さんは僕の悪友のお気に入りだから)
つまり、あたしが瀬川君によく名指しにされてるから。
歌苗のような、彼のファンに、嫌がらせをされたのだ。
「あたしの──あたしの、オーボエ」
「高……っ」
「あたしの大事なオーボエ」
私は伊勢先輩が横にいるのも忘れて、その場に膝を折って号泣した。