皇帝と、わたし
「オーボエ!」
うわ、来た……。
彼の怒声にわたしはぴたりと手を止める。っていうか竦んだ。ウィルソンがおやおやという表情でタクトを下ろし、つづいてオケのメンバー全員が演奏をストップ。
もちろん、みんなの視線はただ一点、わたしの方に。
ほんと泣きたい。
はずかしい。
「弱い。聴こえない。毎回言ってるのになんで進歩がないんだ?」
「……すいません」
ステージの最前部、ウィルソンの脇から私のほうをにらみつけてくる彼に、ほとんど聞こえないくらいの声で返した。だけどちゃんとその謝罪は届いてしまっていたようで、彼はますます苛立った様子を露にする。
「謝ったってしょうがない。行動で返せよ。演奏っていうのはそういうもんだ。」
「…………」
「目立つパート受け持ってんだから、自覚持ったほうがいいぞ」
彼とはこういう人なのだ。
同い年だろうが年上だろうが年下だろうが、目上だろうが目下だろうが、とにかく率直、ストレート、で遠慮がない。自分の思ったことを場所はばからず口にするから、その人気の高さと同じくらい良く思われていないふしもあると聞く。
だけど、それでも皆が彼に反論しないのは、それはひとえに彼がほんとにすごい人だから。勤勉で、努力家で、誰に何を言っても納得させてしまう力を持っているから、これに尽きる。
「じゃ、再開。もう一度Hのところから」
オーボエを持つ手に汗がにじむ。よくない傾向だった。楽器が傷んでしまう。けれど、緊張すればするほど汗は増え、手がすべり、ミスが増える。
何回も何回も止められて、怒鳴られた。
「オーボエ!」
「耳あんのかよ!?」
「言わせてもらえばクラリネットもフルートもファゴットも!木管弱いぞ!」
「あああサードヴァイオリンうなりが足りない!コンミスちゃんと指示飛ばせよ!」
次第に注文が増え、私だけではなく他のパートも叱咤しはじめる彼。なんとも言えない目つきをメンバー達に送られて、わたしはひたすら縮こまるばかり。
これじゃまるで、わたしのせいで皆が怒られてるみたいだ……。
鼻の奥がつんとしたけど、唇を噛んで涙はこらえた。泣いたらダメ。負け。
そう思って、必死で一時間をやりすごした。
***
「おつかれー」
「おつかれさまでした、瀬川先輩今日もきびしかったねー」
「なんか、あんなに言われてもむかつかないのって、やっぱあのひとだからだよね……あのテクニックみた?すげー、なんであんな正確に音程とれんだろ」
「うん、ほんと、そこいらのプロなんかより全然うまいよねー……」
授業終了。
それが意味するものは地獄からの解放、同時に果てのない自己嫌悪タイムのスタート。
次の時間はこのホール空いてるはずだから練習していこうと思ってオーボエのリードをはずす。
「あれ、まゆ帰らないの?」
「……うん。もうちょっと練習してく。」
「ソロいっぱいあるもんねえ、でもまゆはただでさえ練習家だから、もうあんまやりすぎないほうがいいと思うよ?」
「そういうわけにもいかないでしょ。あんなに、言われちゃったらさ」
みじめな気分で笑顔を作った。友達の歌苗もまあね、とうなづいて、フルートをしまったバッグを肩にかけた。
「じゃあね。また明日」
「うん。バイバイ、かなえ」
「ばいばーい」
ぞろぞろとメンバーが撤退していって、やがて私は一人になる。やっと一心地ついた。
はー、とためいきをついて、取りあえず今日の反省をすべく楽譜をめくった。
とたん。
ことりことりことり、と、明らかに誰かが舞台袖から歩いてくる気配。
──やばっ。まだ誰か残ってるの?
一人で練習してるところなんて絶対に見られたくない!わたしは天才でも才能があるわけでもなんでもないから、そういうはずかしいところだけは絶対誰にも見られたくない、うわあやばいピンチ!!
あわあわあわ、と狼狽していたわたしに、やがて聞こえてきた、声は。
『……それにしても管楽器はひどいもんですよ。おわかりになるでしょう、ウィルソン?彼らは俺たち弦生徒が嫌いなあまり、わざとへたに演奏してる。やりにくくてしょうがありませんよ』
『やはりそうか。薄々気づいてはいたのだが、まさか面と向かって聞けなくてね。残念なことだ。個々の能力としては、この学校は実にすばらしいレベルの高さを誇るのに』
わけのわからないドイツ語のイントネーション。
ひゃああああ、と尻尾をまいて逃げ出したくなる。
ウィルソン先生と──瀬川君だ。
『今日はこの上まだレッスンをするかね?』
『いいえ、俺はあまりレッスンをしすぎるのは好みません。……って、あ?」
ひざのうえのオーボエをにぎりしめ、うつむいていた私の方に、瀬川君が目を向けた。気がした。
気がしたっていうか、事実そうだ。流暢なドイツ語が最後のあたりいきなり日本語になった。
気詰まりな沈黙。
わたしにとっては死の沈黙。
「まだ残ってたのか?オーボエ」
残ってちゃ悪いですか。
オーボエって名前じゃありません。
っていうかその怖い眼に怖い声やめてください。顔があげられません。
「……練習しようと」
「何?聞こえない」
「練習しようと、思って。残ってました。だけど邪魔なようなら帰ります」
聞き返されて、少し声を大きくする。ほとんど意地だった。瀬川君とわたしは同学年だけど、なぜか言葉は敬語になった。
目の前の譜面台に置かれていた楽譜をつかんで、立ち上がる。楽器ケースは管棟に置いてきてるから、これだけでいい。
「お邪魔しました」
「おい、オーボエ」
「オーボエじゃないですってば!」
『カイ、もう少し女性の扱い方を上手にしなさい。全く君は、これと決めたもの以外に対する情が薄すぎるね』
半泣きで出口へと駆け出した私を、引きとめた手があった。小熊のウィルソン先生。なにやら早口で瀬川君に言葉をかけ、その顔を真っ赤にさせた。
……真っ赤に。
え。
え?
ええ!
「…………からかって楽しいですか、俺を」
「何もそうは言っていない。ええと──オーボエの、名前はなんといったかな?」
「まゆです。マユ・タカサキ」
「かわいい名前だ。ではマユ、きみは帰る必要はない」
「──え?」
眼をむく私、やさしい眼をした世界の巨匠、その後ろに仏頂面で控える長身の青年。
なんだか妙な構図、だった。
「マユは先ほどの時間にカイに止められたことを気にして、練習しようとしていたのだろう?わたしたちがそれを止める権利はないよ。」
「でも、うぃ、ウィルソン先生と、瀬川君は」
「ちょっと打ち合わせしたかっただけ。別に練習しようと思ってたわけじゃない」
「──」
低い声。
瀬川君が声を挟んできてびっくりした。
恐る恐る視線を彼に移してみる。
すると、あろうことか眼があってしまった。
こ、怖っ!
「…………」
「……何?」
「え、ええと、あの」
「お前って、いつもそうなのな。オケの時もさ。いいたいことあるなら言えばいいだろ。オーボエ吹くのに関しても、言いたい事を表現しなきゃ意味ないだろ」
「え?」
肩から力が抜けた。何の話をしてるんだろう?
「だからつまり俺がオケの時間におまえばかり怒鳴るのはだな」
うなづいた。
ウィルソンが満足そうに微笑んでいる。
ふと、思ったことは、瀬川君の眼は、ずっと思い込んでいたより全然優しくてきれいだということ。こわくなんてなかった。
ただ、まっすぐなだけで。
「おまえ、もったいないよ」
ほんとうは、きっと誰よりも優しく何かを見つめることができる目なんじゃ、ないだろうか。
「もったいない……?」
「いい音してるし、テクニックもあるのにな。控えめすぎるんだよ。臆病で、縮こまってて。誰に対して遠慮してんだか。俺は、自分で言うのはなんだけど、かなり音が目立つんだよ。おまえみたいなタイプだと消されちゃうわけ。わかるだろう?」
「う、うん。自分でもそう、思う」
「もっと出していいから。遠慮する必要なんてどこにもないから。やりすぎてもやりすぎにならないよ。なんてったってウィルソン先生の指揮するオケなんだから。──そうですよね?先生」
「カイの言うとおりだよ」
にこにこと、世界的巨匠はほほえんだ。
ほんとかわいくて困る。抱きしめたくなってしまう、テディベアのようだ。
「まゆ。わたしはね、クラシック音楽とは自由に、好き勝手にやっていいものだとは決して思わないよ。作曲家に対する誠実さを忘れてはいけない。演奏させていただくという気持ちを常に持ちつづけなければならない。わたしたちはただ演奏するだけなのだから。けれど、きちんと勉強してその気持ちを忘れなければ、後はわたしたちの世界だ。持てる技術と表現力の全てを使って、自由に演奏する。まゆはもう十二分に誠実で、勉強している。もっと自由にやってよいのだよ」
眼から鱗だった。
世界が崩れたみたい。
背中が、手が、軽くなったのがわかる。
そうなの?
わたし……自由に弾いていいの?
「頑張れ、高崎。」
瀬川君が言った。
思わず見上げた。
「こんなチャンス滅多にないよ。世界的巨匠と共演できるなんて。だから、頑張って、楽しもう。」
笑っては、いない。
瀬川君の口元は笑ってはいなかった。
だけど、とてもやわらかい空気。
瞳にやどる、まるで子供のようなきらめき。
「じゃあ私達は帰るから。まゆ、がんばりなさい」
「え、あの、はい」
「また明日。」
「うん……また、明日。」
楽器をしまい、瀬川君はウィルソンと共に去っていった。
胸に残る余韻がふんわりと温かい。
あれ、と思った。
わたし、瀬川君のこと、さっきまであんなに怖がってたのに。
今は……そうでもないな。
むしろ。
(──意外といいひとなんだ)
ちょっと、嬉しかった、かも。




