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森の守護者  作者: 紫桜
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第35話 かえってくる場所


第35話 かえってくる場所



森へ戻る道は、静かだった。


街の喧騒が遠ざかり、代わりに木々のざわめきが戻ってくる。


「……」


セレンは、まだ手に残っているパンのぬくもりを感じていた。


もうほとんど食べ終えている。


それでも、少しずつ。


大事に、確かめるように。


「そんなに美味しかった?」


隣で、シルヴァスが何気なく聞く。


「……うん」


短い返事。


でも、その声は少しだけやわらいでいた。


「そっか、じゃあまた買いに行こう」


シルヴァスは、満足そうに頷いた。


しばらく歩く。


森の空気が、深くなる。


そのとき――


「……あ」


セレンが、小さく声を漏らした。


視線の先。


草むらの奥で、何かが動いた。


「どうしたの?」


シルヴァスが足を止める。


セレンは、そっと指を向ける。


「あそこ……」


声を潜める。


そこにいたのは一頭の鹿だった。


地面に横たわっている。


足が、不自然な角度に曲がっている。


「……けが」


セレンの声が、わずかに揺れる。


その近くに、小さな影がいた。


子どもの鹿だ。


不安そうに、小さな鳴き声を漏らしながら子鹿は何度も、傷ついた親鹿の顔を覗き込んでいた。


鼻先を寄せる。


返事を確かめるように。


離れない。


逃げようともしない。


ただ、必死にその場へ留まっている。


大丈夫だと信じたいのか。


細い脚を震わせながら、それでも親のそばから動かなかった。


その姿には、言葉よりずっと強い“何か”があった。


「……」


セレンは、動けなかった。


その光景に、目を奪われていた。


シルヴァスは、ゆっくりと近づく。


音を立てないように。


鹿が驚かないように。


「大丈夫、大丈夫」


やわらかな声で、そう言いながら。


まるで、言葉が通じるかのように。


親の鹿は警戒していた。


けれど――逃げない。


子どもがいるから。


「少し触るね」


シルヴァスは、静かに膝をつく。


そして手をかざすとそこに淡い光が集まる。


「……」


セレンは、その様子をじっと見ていた。


見たことのある光。


それは、セレンの知る光に似ていた。


けれど、まるで違う。


教団で教え込まれた光は、傷つけるためのものだった。


壊すための力。


命令に従うための力。


でも、目の前の光には鋭さがない。


あたたかく、やわらかい。


まるで夜の灯火のように、静かに傷を包み込んでいた。


シルヴァスは、怪我をした鹿の足へそっと触れる。


「大丈夫」


落ち着かせるような声。


淡い光が、染み込むように広がっていく。


ゆっくりと。


ゆっくりと。


傷ついた部分を撫でるように。


怯える心まで静めるように。


「……」


セレンは、息をするのも忘れたようにその光景を見つめる。


同じ“力”なのに、こんな使い方があるなんて知らなかった。


やがて――


鹿の足の震えが、ぴたりと止まる。


荒かった呼吸も、少しずつ落ち着いていく。


シルヴァスは、その様子を確かめてから静かに手を離した。


「これで大丈夫」


小さく言う。


親の鹿が、ゆっくりと慎重に体を起こす。


完全ではない、しかしもう立てるようになっている。


子どもの鹿が、すぐに寄り添う。


「……」


セレンの胸が、わずかに揺れる。


親の鹿は、シルヴァスを一度だけ見た。


それから子どもと一緒に、森の奥へと歩いていく。


振り返らない。


でも、迷いもない。


ふたりで、帰っていく。


「……」


セレンは、その後ろ姿を見ていた。


見えなくなるまで、ずっと。


「よかったね」


シルヴァスが言う。


穏やかな声。


セレンは、すぐには答えなかった。


「……かえった」


ぽつり、と呟く。


「うん」


「……親子?」


言葉を、確かめるように。


シルヴァスは、静かに頷く。


「そうだろうね」


「……一緒に」


セレンは、まだその方向を見ている。


もう姿は見えない。


それでも。


「……」


胸の奥に、何かが残っている。


あたたかいような。


でも、少しだけ痛いような。


「……いいな」


無意識に、こぼれた小さな声。


シルヴァスは、その言葉を聞いた。


でも、すぐには何も言わない。


セレンは、自分でも気づいていなかった。


その言葉の意味を。


ただ――


“そう思った”。


それだけ。


「……」


しばらくして、セレンはゆっくりと視線を落とす。


自分の手を見る。


何もない手。


さっきまでパンを持っていた手。


今は、空っぽ。


「……」


何も言わない。


でも。


その沈黙は、少しだけ違っていた。


シルヴァスは、そっと立ち上がる。


そして、何も言わずに歩き出す。


急かさない。


引き戻さない。


ただ、いつも通りに。


セレンは、一瞬だけ立ち止まって――


それから、後を追った。




森の中。


風が、やわらかく吹く。


さっき見た光景は、もうどこにもない。


でも。


確かに、そこにあった。


「……」


セレンは、胸に手を当てる。


よく分からない感覚。


でも、消えない。


それはきっと――


“持っていなかったもの”に触れた証だった。




帰る場所があるということ。


寄り添って心配してくれる存在がいるということ。


それを知ったとき。


人は初めて――


“ひとりだったこと”に気づく。




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