魔法瓶と雇用
秋が深まり、〈風の手工房〉の窓からは淡い陽射しが斜めに差し込んでいた。
外の街路樹はすでに半分ほどが色づき、落ち葉が通りをカサカサと転がっていく。
アレンは作業台に向かいながら、包帯を巻いた右手をそっと撫でた。
数日前の魔法ランタンの暴発で負った火傷は、ようやく痛みが引き始めたところだ。
けれど、道具を握るたびに鈍い痛みが残る。
今朝もノアとフィンは元気に登校していった。
二人がいない工房は、静かすぎるほど静かだ。
時折、壁の時計が「コチ、コチ」と音を立てるだけ。
そんな静寂の中、ドアが小さく開いた。
現れたのは、街のパン屋の奥さんだった。
手には、古びた銀色の魔法瓶。側面には小さな亀裂が走っている。
「アレンさん、この子、最近あんまり温かくないの。昔は一晩中ぽかぽかだったのにねぇ」
奥さんは苦笑いしながら、瓶をそっと差し出した。
アレンは受け取った魔法瓶を光にかざす。
銀の表面に魔法陣の痕跡がうっすらと浮かんでいた。
どうやら、熱保持の陣式が弱まり、魔力循環が乱れているようだ。
「……修理はできます。ただ、少し時間をください」
そう言って微笑んだものの、右手の包帯を見て、奥さんは心配そうに眉を寄せた。
「無理しないでくださいね。アレンさん、いつも一人なんだから」
その言葉に、アレンは小さく息をついた。
──確かに、一人では限界がある。
ノアやフィンがいる日中はいい。けれど、彼らには学業がある。
常に誰かが工房を支えられるわけではない。
パン屋の奥さんを見送った後、アレンは作業台に魔法瓶を置き、深く椅子に腰を下ろした。
包帯越しに疼く手を見つめながら、ふと呟く。
「……やっぱり、誰か雇うべきかもしれんな」
窓の外では、秋風が金色の葉をさらっていった。
魔法瓶の修理は、思っていたよりも繊細だった。
アレンは左手でピンセットを操り、右手の包帯を庇いながら魔力の糸を一本ずつ結び直していく。
瓶の内部に刻まれた陣式は古い型で、しかも幾度も上書き修理された痕があった。
修復には集中力と緻密な魔力制御が求められる。
──普段なら朝のうちに終わらせられる程度の仕事だ。
だが、今のアレンにはそうはいかなかった。
火傷の痕はまだ赤く、力を込めるたびにじんわりと熱が走る。
指先から魔力を流すにも、一定のリズムを保つのが難しい。
「……ったく、歳をとると治りも遅くなるな」
苦笑しながら、アレンは小さく息を吐く。
瓶の底を覗き込むと、中央の魔法陣が淡く光を放っていた。
温度調整の符が歪み、魔力が一方向に偏っている。
このままでは熱が逃げ、保温が持続しない。
アレンは左手で符の欠けた部分をなぞり、呪文を唱える。
微弱な青光が走り、欠けた紋様が再び繋がった。
その光景を見届けながらも、彼の脳裏には別のことが浮かんでいた。
──人を雇うなら、どんな者がいいだろうか。
魔法道具の扱いには繊細な感覚が要る。
けれど、最近は修理職を志す若者も少ない。
派手な魔法や冒険に憧れる者が多く、地味な修理の道を選ぶ者など、ほとんどいない。
「昔は修理師志望が沢山いたんだがな……」
ぽつりと呟く声が、工房に虚しく響く。
ノアとフィンの姿がふと脳裏をよぎった。
二人とも、まだ若い。学校で魔法理論を学び、未来がある。
アレンはその成長を誰よりも嬉しく思っている。
だが同時に、工房を守るための手が、自分ひとりしかいないという現実を思い知らされるのだった。
窓の外では、木の葉が風に乗って舞い上がり、光の粒のようにきらめいていた。
アレンは少しだけ笑い、魔法瓶の表面を撫でた。
「お前も長く働いてきたな。もう少し、頑張ろうか」
瓶がかすかに「コトリ」と鳴いて応える。
それはまるで、古い友人と交わす小さな約束のようだった。
昼を過ぎ、工房の中はしんと静まり返っていた。
外からは風が木の葉を揺らす音と、遠くの鐘の音が聞こえるだけ。
アレンは窓際の作業台に向かい、慎重に魔法瓶の魔力回路を再構築していた。
中央の魔法陣はすでに再描画を終え、今は封印符による安定化作業に入っている。
問題は、古い符と新しい符の干渉だった。
時代の異なる魔法体系が入り混じると、わずかなずれでも暴走を起こすことがある。
「……少しだけ、出力を抑えて……」
アレンは左手で制御環を調整し、右手の包帯を庇いながら魔力を流し込む。
青白い光が瓶の内側を巡り、じわりと熱を帯び始めた。
成功の兆しに見えた──その瞬間だった。
「……っ!」
瓶の紋様が一瞬、逆流するように輝き、内部から火花が散った。
魔力の流れが反転したのだ。
アレンは即座に反応した。
「封印式、三重展開――!」
机の上に貼り付けていた封印符を数枚、立て続けに放つ。
白紙が宙に舞い、空中で魔法陣を描くように輝いた。
その周囲にさらに制御陣を重ねがけし、瓶から溢れ出す熱を封じ込める。
だが、一本の火花が弾け、アレンの袖口を焦がした。
焦げた布の下の肌がじんと痛む。
彼はそれを気にも留めず、最後の符を掌で押さえた。
「……静まれ」
低く呟くと同時に、工房全体が青い光に包まれた。
魔法瓶の振動が収まり、光が徐々に沈んでいく。
しばらくして、瓶の底から柔らかな温もりが伝わってきた。
──修理、完了。
アレンは深く息を吐き、背もたれに身を預けた。
額には薄く汗がにじみ、包帯の隙間からは赤く腫れた指がのぞく。
それでも、魔法瓶は静かに温かさを保っていた。
「やれやれ……危ないところだった」
独りごちながら、アレンは小さく笑った。
けれど、その笑みの奥にはほんの少しの不安があった。
──もし誰かがそばにいれば、もう少し安全に終えられたかもしれない。
ふと、窓の外でノアとフィンの笑い声が風に乗って聞こえた。
アレンは手を止め、その声の方向をぼんやりと見つめる。
静かな午後の光の中で、彼の胸に小さな決意が芽生え始めていた。
夕暮れが街を染め始めるころ、アレンは診療所の扉を押した。
小さな鈴の音が鳴り、白衣の医師が顔を上げる。
「またですか、アレンさん。今度はどんな魔法でした?」
「魔法瓶の保温符がちょっと暴れましてね。すぐ封じたんですが、まあ、少し火花が……」
苦笑しながら、アレンは包帯の交換を受ける。
手の甲には軽いやけどの痕が残り、ところどころ小さな切創も見える。
医師は呆れたように眉をひそめながらも、手際よく治療を進めた。
「あなた、いくら修理屋とはいえ、最近無茶が多すぎますよ」
「分かってます。ただ、どうしても一人だと、手が足りなくて」
「フィンくんとノアちゃんは?」
「学校です。……だから、そろそろ考えないといけないかもしれませんね」
アレンは包帯を巻かれた手を見下ろした。
もう何年も、この工房を一人で回してきた。
けれど、道具は増え、依頼も多くなり、年を重ねるごとに反応が鈍くなっているのを実感している。
「弟子を取るか、雇うか。どちらにしても、そろそろ誰かを頼る時期だ」
呟く声は小さく、それでいて静かな決意が滲んでいた。
治療を終えて診療所を出ると、街路のランタンが灯り始めていた。
薄紫の空に、初秋の風がやさしく吹く。
アレンは包帯を巻いた手をコートのポケットにしまい、ゆっくりと歩き出した。
風の手工房の窓からは、修理を終えた魔法瓶がほのかに光を放っている。
まるで「おかえり」と言うように、柔らかな温もりが漏れていた。
アレンは小さく微笑み、工房のドアに手をかけた。
「さて……次に来るのは、どんな依頼者かな」
秋の風がカランとドアベルを鳴らす。
その音に混じって、どこか遠くで、ノアとフィンの笑い声が聞こえた気がした。
【魔法の箒、修理いたします。秋の手のぬくもりを忘れずに】




