再び魔法学校からの依頼
夕暮れの工房には、今日もゆるやかな魔力の流れが漂っていた。
窓の外では鳥の声が遠ざかり、あたたかな光が作業台の上の工具を鈍く照らしている。アレンは静かな空間の中で、使い古したレンチを磨きながらひと息ついた。ここ数日は修理依頼も少なく、ようやく片付けや点検に時間を割ける、そんな日だった。
ちょうど道具箱の整理を終えたころ、扉のベルがからん、と鳴った。
「ただいま戻りました!」
弾む声とともにノアが帰ってきた。いつもの制服姿のまま、少し駆け足気味に入ってくる。頬はうっすら赤く、学校帰りの勢いそのままだ。
「おかえり。今日はずいぶん早いじゃないか」
「えへへ、校長先生に呼ばれたからちょっと寄り道したんです。それで――」
ノアは胸元から一通の封筒を取り出し、ぱたぱたと手を振りながら差し出した。
「アレンさん、これ、また校長先生から預かったよ」
封筒には、王立第一魔法学校の紋章がしっかりと押された封蝋がある。
アレンは受け取りながら、眉をわずかに上げた。
「……レインフィールド校長か。前に放送器具の修理を頼まれて以来だな」
作業台に腰を下ろし、封を切る。中には厚めの羊皮紙が一枚。
きっちりと整った文字で、こう書かれていた。
『魔法石の封印術に関する特別講義をお願いしたい。
封印符、魔法陣、それぞれの違いと構成、長所短所について、
生徒たちに正確な知識を伝えてもらいたい。』
アレンは思わず小さく息をついた。
講義。どうやらまた、教壇に立つことを求められているようだ。
専門学校で開かれた公開講義――あのとき、フィンの学校で話した修理の講義が評判になったらしく、そこに居合わせた誰かが王立学校の関係者に話を伝えたらしい。
「なるほどな……そういうことか」
アレンは独り言のようにつぶやいた。
手紙の最後には、こう添えられていた。
『日程は追って調整する。謝礼についても誠意をもって対応する。』
「講義、なんですね」
ノアが覗き込みながら言う。
「うん。たぶん、専門学校で話したあの修理講義を、誰かが校長に話したんだろう」
「へぇー、すごい。アレンさん、もうすっかり先生みたい」
からかうような笑みを浮かべるノアに、アレンは少し肩をすくめた。
「教えるのは好きじゃない。ただ、伝えるべきことなら話すさ」
そう言って、羊皮紙を折りたたむと、机の上に静かに置いた。
窓の外では夕日が沈みかけ、風が工房のカーテンを柔らかく揺らしている。
その金色の光に照らされながら、アレンは少しだけ目を細めた。
「……明日、詳しい話を聞きに行こう。どうせ断りきれないだろうからな」
「うん。私も行っていい?」
「もちろん。フィンにも伝えておいてくれ」
ノアは「了解!」と明るく笑い、手紙の入っていた封筒を名残惜しそうに見つめた。
工房の中には、彼女の軽やかな笑い声と、夕暮れの静けさがやわらかく溶け合っていた。
翌朝。
風の手工房の扉を開けると、外の冷たい空気がふっと流れ込んできた。ノアが肩からかけた鞄を揺らしながら、アレンの後ろをついていく。フィンはその横で、少し緊張した様子を見せていた。
「本当に講義、受けるんですね……アレンさんが先生って、なんだか変な感じです」
「おいおい、俺は修理屋だ。先生なんて柄じゃないさ」
アレンは苦笑しながら工房の鍵をかけた。
「でも、ルヴェン校長先生からの正式な依頼ですし、断るのはもったいないですよ」
「ノアまで言うか……まあ、報酬も悪くなかったしな」
そう言いつつも、アレンの表情には複雑な色が浮かんでいた。
午前の日差しが淡く射し込む街路を抜け、三人は魔法学校へ向かう。
途中の分岐で、フィンが立ち止まった。
「俺、材料屋に寄ってから戻ります。講義で使う道具とか、足りないものあるかもしれませんし」
「助かる。じゃあ、あとで工房で合流しよう」
フィンに手を振り、アレンとノアは二人で魔法学校の高い塔を目指した。
学校に着くと、前に訪れたときとは違って、門の前には学生たちが何人も立ち止まっていた。どうやら、修理屋が再び呼ばれたという噂が広がっているようだ。
ノアは少し得意げな顔で胸を張る。
「なんだか、先生みたいに人気ですね」
「やめてくれ、そういうのは勘弁だ」
アレンは軽くため息をついたが、その表情にはどこか苦笑が混じっていた。
受付を通り、案内された校長室の扉をノアが軽く叩く。
「ルヴェン校長先生、アレンさんたち来ました!」
「おお、入っておくれ」
中から穏やかな声が響いた。
ルヴェン・レインフィールド校長。
銀灰色の髪をゆるく束ね、深い青のローブを纏った老魔導師である。前回、放送器具を修理した際も丁寧に礼を述べてくれた人物だ。
校長はアレンの顔を見るなり、目尻を細めて微笑んだ。
「これは、また来てくれて嬉しいよ。例の講義の件、話を進めてもいいかね?」
「ええ、一応そのつもりで来ました。ただ、講義なんてのは慣れてなくて……」
「心配いらんよ。専門学校での公開講義を見た者がいてね、非常にわかりやすかったと評判だったのだ」
「えっ、あの時のを誰かが?」
ノアが驚いた声を上げる。
「そう、君たちが放送器具を直した直後のあの講義だよ。魔法陣と封印術の違いを解説していたとか。あれを聞いていた教師が推薦してくれたんだ」
アレンは眉を上げた。
「ああ……なるほど。あの時は急ごしらえで話しただけなんだが……」
ルヴェン校長は軽く笑って頷く。
「だからこそ、実際の修理師が語る封印術の“生の理屈”が聞きたいのだよ。学問ではなく、現場の声としてね」
静かな言葉に、アレンはしばらく黙って考えた。
確かに、修理屋として学んできた魔法封印の理屈は、書物の知識とは少し違う。実際の修理現場では、魔法陣より符の方が向くこともあれば、その逆もある。理論だけでは割り切れない経験が、そこには詰まっていた。
「……わかりました。お引き受けします。ただし、あまり難しい話はできませんよ」
「構わんとも。学生に“使える知恵”を教えてやってほしい」
その後、校長と担当教師が加わり、講義の日取りや準備内容を詰めることになった。
日程は五日後、午後の大講堂。
内容は「魔法石封印術の実践と理論」。
実演を交えながら、封印陣と符の構造的な違いを解説する予定となった。
話がまとまり、アレンは校長室を出る。
「……やれやれ。結局、逃げられなかったな」
苦笑するアレンに、ノアが楽しそうに笑った。
「でも、きっと面白い講義になりますよ!」
「頼むから、期待しすぎるなっての」
二人の声が、静かな校舎の廊下に軽やかに響いていった。
校舎をあとにしたアレンとノアは、夕陽が差し込む石畳の道を並んで歩いていた。
金色に染まる街並みの中で、アレンの表情はどこか柔らかい。
「……ルヴェン校長、前に会ったときより元気そうだったな」
「放送器具を直した時ですよね? あの時も“また会おう”って言ってましたし」
「ああ。まさか本当に“講義で”呼ばれるとは思ってなかったけどな」
アレンは苦笑を浮かべ、肩をすくめた。
ノアは隣でくすっと笑いながら、手に下げた鞄を軽く揺らす。
「でも、先生はうれしそうでしたよ。“アレン・リードの話を聞けるなら、学生たちにとっても貴重な時間になる”って言ってました」
「……あの人らしいな」
アレンはぼそりと呟き、少しだけ顔をそむけた。
照れくささと、懐かしさが胸の中で混ざり合っていた。
風の手工房に戻ると、作業台の上にはいつものように整然と道具が並んでいた。
ノアが湯を沸かし、カップを用意している間に、アレンは依頼帳を開く。
そこにはいくつもの修理予定が書かれており、講義準備の時間をどう確保するか頭の中で組み立て始めた。
そこへ、フィンが顔を出した。
「師匠、おかえりなさい! 講義、受けることになったんですか?」
「ああ、正式に。五日後にやることになった」
「すごい……! 封印術の講義なんて、僕も聞きたいです!」
「お前も出席していいって言われたぞ。校長が“あの宅配箒を修理した若い弟子にも来てほしい”ってな」
「ほんとに!?」
フィンの顔がぱっと明るくなる。
その姿に、アレンの口元も自然とほころんだ。
「……それにしても、あの校長とは縁があるな」
「師匠の修理を見て、すぐ声をかけてくれるなんて、よっぽど信頼してるんですね」
「……いや、単に断れない性格を見抜かれてるだけだろ」
アレンがぼやくと、ノアとフィンは顔を見合わせ、笑いをこらえきれず吹き出した。
笑い声の響く工房の中。
湯気の立つカップが三つ並び、夕暮れの光がガラス越しに差し込む。
かつては工具の音だけが響いていたこの空間に、今は柔らかな声と笑いが満ちていた。
「……さて、明日から講義準備だ。封印符と魔法陣、それに見本の魔法石も揃えないと」
「僕、資料まとめ手伝います!」
「私も、板書のレイアウト考えてみますね」
「おいおい、講義の準備ってのはもっと地味なもんだぞ……」
アレンはそう言いつつも、どこか楽しげだった。
外では、日が沈み、街灯が次々と灯り始める。
その光を背に、三人は工房の中で、少しずつ次の準備を進めていった。
夕暮れの光が工房の窓を赤く染めていた。
修理の見積もりを終え、ルヴェン校長への返事の手紙を封じたころ、ノアが帰り支度をしていた。
「じゃあ、これ、明日届けておくね」
小さな封筒を両手で受け取ったノアは、満面の笑みを浮かべた。
「またお手伝いに来ていい?」
「ああ、もちろん。……ただし宿題を終わらせてからな」
アレンの言葉に、ノアは「むー」と唇を尖らせながらも頷き、箒にまたがった。
風のように軽やかに飛び立ち、夕焼けの空の中へ小さくなっていく。
アレンはその背中を見送りながら、静かに手を振った。
工房に再び静けさが戻る。
作業台の上には、講義用に書き始めた魔法理論のノートと、封印符の試作紙が散らばっていた。
ルヴェン校長の言葉が思い出される。
——「あの放送器具の修理を聞いて、ぜひもう一度と頼まれたよ。君の“伝え方”は、魔法より魔法らしい」
アレンは苦笑した。
「……人聞きがいい話ばかり伝わるもんだな」
そう言いながらも、どこか嬉しそうに、ゆっくりとペンを取る。
講義の準備といっても、彼がやることはいつもと同じだ。
壊れたものを見つけ、どうすれば“直せる”のかを考えること。
それが魔法道具であれ、人の心であれ――。
夜風が窓から入り、机の上の羊皮紙をそっと揺らした。
アレンはそれを押さえながら、ふと天井を見上げる。
「……まあ、たまには“教える修理”も悪くないか」
その言葉とともに、工房の灯が一つ、また一つと落ちていく。
静まり返った「風の手工房」に、わずかな魔力の余韻だけが、暖かく漂っていた。
【魔法の箒、修理いたします。教えることもまた“直す”こと】




