いつもの忙しさ
翌朝。
フィンはまだ柔らかな布団の中に身を沈めたまま、ゆっくりと目を開けた。
昨日まで熱に浮かされていた体は軽くなり、額に触れてみても火照りはない。外の窓から差し込む朝日が、心地よい温もりを伝えてくる。
「……あ、もう下がってる」
ほっとした声が小さくこぼれた。
その様子を見届けていたアレンは、椅子から腰を上げる。夜の間も心配で何度も様子を確かめていたのだ。
「顔色も戻ったな。だが――専門学校は今日は休め」
「でも……授業を抜けると遅れが出ます」
布団の上から身を起こしたフィンは、少し申し訳なさそうに言った。
「遅れるのが嫌ならなおさらだ。倒れて数日抜けるより、一日大事を取る方がましだろう?」
アレンの言葉は、冷たさよりも温かさが勝っていた。昨日、不安げに眠る弟子の姿を見たせいだろう。
言い返せず、フィンは小さくうなずく。
「……わかりました」
アレンは満足げに頷き、立ち上がった。
「じゃあ俺は工房に行ってくる。今日は店を開けるぞ。フィンはゆっくり休んでろ」
そう言って外套を羽織り、扉を開けて出ていく。
工房に入ると、まだ朝だというのに珍しく立て続けに客がやって来た。
一人目は、魔法の箒を抱えた若い女性。
「最近、空を飛ぶと揺れるんです。仕事で毎日使うので、すぐに直していただきたくて……」
続いてやって来たのは、肩掛け鞄を持った商人風の男。
「定期の点検をお願いします。魔法のランプは、取引先との信用にも関わりますので」
最後に扉を開けたのは、学院の制服を着た学生。
「すみません、僕の羽ペンが突然止まってしまって……卒論を書いている最中なんです」
三件の依頼が立て続けに重なり、工房の空気は急に活気づいた。
アレンは苦笑を漏らしつつ、受け取った品を作業台に並べていく。
「昨日の静けさが嘘みたいだな……さて、順番を決めるか」
そこへ――再び工房の扉が開く音がした。
「師匠、僕も……見学させてください!」
入り口に立っていたのは、まだ完全には体調が戻っていないはずのフィンだった。
外套を羽織り、少し不安定な足取りで、それでも目だけはきらきらと輝いている。
「おい……休めって言ったばかりだろう」
アレンは眉をひそめた。
だがフィンは真剣な顔つきで首を振る。
「作業はしません。ただ、学びたいんです。昨日休んでしまった分、少しでも取り戻したいから」
その熱意に、アレンはため息をつき、肩をすくめる。
「……見てるだけなら許す。ただし、無理したら即刻寝室に戻れ」
「はい!」
嬉しそうに返事をするフィンの声に、工房の空気がふっと明るくなる。
こうして、アレンと弟子の一日が再び動き出すのだった。
最初にアレンが作業台に載せたのは、若い女性が持ち込んだ一本の箒だった。
柄の先端には掌ほどの大きさの魔法石が埋め込まれており、淡い光をくゆらせている。だがその輝きはどこか揺らいでいて、不安定だった。
「なるほど……魔法石そのものは健在だな。問題は内部の回路か」
アレンは箒を横に倒し、柄の部分に小さな刻印をいくつも浮かび上がらせる。魔力を流すと、箒全体に蜘蛛の巣のような光の線が浮かび、その一部が歪んで波打っていた。
隣で覗き込んでいたフィンが思わず声を漏らす。
「師匠……あそこ、魔力が逆流してます!」
「そうだ。長年使っているうちに回路が傾き、魔力の流れが滞っていたんだ。これでは浮力の制御が効かなくなる」
アレンは慎重に道具箱から細い修正用の刻印針を取り出し、歪んだ部分に触れては微調整を始めた。
針先をなぞるたびに光の回路がわずかに震え、少しずつ正常な形に戻っていく。
「魔法石は心臓だが、回路は血管のようなものだ。どこかが詰まれば、全身がうまく機能しない」
アレンの説明に、フィンは目を輝かせて頷いた。
「なるほど……じゃあ、今回の修理は“血管の歪みを矯正する”みたいなものなんですね!」
「その通りだ」
やがて光の流れが滑らかに整い、箒は低く震えると、ふわりと宙に浮き上がった。
「よし、安定した」
アレンが手を放すと、箒は床から数センチの高さで静止し、ゆるやかに浮遊を保ち続けていた。
依頼主の女性は両手を胸の前で組み、ほっとしたように微笑んだ。
「これでまた通勤に使えます……ありがとうございます」
フィンは作業の一部始終を食い入るように見つめ、師匠の横顔に小さく呟いた。
「やっぱり……修理って、すごい」
次にアレンが手を伸ばしたのは、商人が持ち込んだ魔法のランプだった。
台座の中の魔石は輝いているのに、光は落ち着かず揺らめいている。アレンは底を外し、埃が詰まった吸気口を見つけると小さく笑った。
「これもまた典型例だな。道具は手入れを怠ると、ちょっとしたことで調子を崩す」
筆で埃を払うと、ランプの光はすぐに安定し、工房の机を柔らかく照らした。
フィンは「整備でここまで変わるんだ……」と小声でメモを走らせる。
そして最後は、学生が差し出した羽ペン。焦げついた符の痕を目にしたアレンは眉を寄せ、原因を見抜くと丁寧に修復を始める。
「魔力の流しすぎで焼けたな。焦っていると、こういう事故はよくある」
線を一本一本補強し直すと、羽ペンは再びインクを吸い上げ、先端に魔力の光が走った。
学生が深く頭を下げ、去っていくのを見送りながら、フィンは心の奥から湧き上がる言葉を飲み込めなかった。
「……同じ“修理”でも、全部やることが違うんですね。けど、どれも持ち主にとって大切な道具だから……師匠は一つひとつ、丁寧に直すんだ」
アレンは軽く頷き、作業台を片づけ始めた。
「そういうことだ。修理は魔法だけじゃなく、人の気持ちを繋ぎ直す作業でもある」
修理が一段落し、工房の中に一時の静けさが戻った。
フィンは作業台に並んだ道具を見つめながら、まだ興奮冷めやらぬ面持ちで口を開いた。
「師匠、やっぱり僕……修理って、すごく好きです。魔法を使うだけじゃなくて、壊れたものに手を伸ばして、また動き出す瞬間を見届けられるのって……胸が熱くなるんです」
アレンは工具を片づけながら、わずかに目を細めてフィンを見た。
「好きだと思えるのなら、それが一番の力になる。だが――修理は簡単じゃない。魔法理論も構造も、そして人の気持ちも理解しなければならない」
「人の気持ち、ですか?」
「道具は、持ち主の生き方と一緒に傷んでいく。だから修理をする時は、ただ元に戻すんじゃなく、その人の想いを受け止める必要がある。箒も、ランプも、羽ペンも――全部だ」
フィンは真剣な眼差しで師の言葉を聞き、拳をぎゅっと握った。
「僕も、そういう修理師になりたいです。師匠みたいに……」
その時、受付に座っていたノアが顔を上げ、二人の会話に小さく笑った。
「ふふ、なんだか学校の授業よりも熱心ね。フィン、目が本気だわ」
からかうような調子に、フィンは顔を赤らめて口を閉じたが、それでも視線は工具の並ぶ作業台から外れなかった。
アレンはそんな弟子の横顔を見て、少しだけ安心したように微笑んだ。
「いい目をしている。焦らずとも、経験は積めば必ず身になる。大切なのは、諦めないことだ」
その言葉に、フィンは大きく頷いた。工房の空気は穏やかで、しかしどこか凛とした緊張感が漂っていた。
夕暮れが街を包み込むころ、最後の修理品を棚に戻し、アレンは深く息を吐いた。
「ふう……今日はよく働いたな」
作業台の道具を丁寧に片づけながら呟くと、そばで見守っていたフィンが椅子から立ち上がった。
「師匠、お疲れさまでした」
フィンは少し顔色にまだ疲れの色を残しながらも、声は明るい。
「ぼくも……明日には学校に行けそうです」
その言葉にアレンは手を止め、振り返った。
「そうか。無理はするなよ。元気に学べるのが一番だからな」
「はい!」
フィンの返事は力強く、ほんの少し照れくさそうでもあった。
そこへ、工房の扉が小さく開く音がした。
「……あ、やっぱりいた」
顔をのぞかせたのはノアだった。学校帰りなのだろう、肩に鞄をかけたまま、真っすぐフィンを見つめる。
「フィン、大丈夫? 昨日、倒れたって聞いたから心配で」
駆け寄るノアに、フィンは少し照れながら笑った。
「うん、大丈夫。もう熱もないし、明日は学校に行けるよ」
ノアは胸をなでおろし、安心したように笑った。
アレンはその光景を横目に見て、小さく頷いた。
「……よし、そろそろ店じまいにするか」
窓の外には暮れゆく夕陽。工房に流れる空気は穏やかで、温かかった。
【魔法の箒、修理いたします。何事も順番に】




