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魔法の箒、修理いたします。  作者: 仲村千夏


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普段の日常へ

 診療所の扉を押すと、消毒薬の匂いと、どこか張りつめた静けさが鼻を突いた。工房の木の香りや、通りの市場の喧噪とはまるで別の世界のようだ。

 アレンは案内されるままに治療台へと腰を下ろす。椅子の背に預けた瞬間、張り詰めていた全身の力が少し抜けるのを感じた。


 医師は黙々と手袋をはめ、アレンの左腕に巻かれた布を解いていく。血に濡れた包帯がはがされるたびに、ぴたりと室内の空気が重くなった。露わになったのは、肩口から肘にかけて走るおよそ二十センチの裂傷。赤くぱっくりと口を開け、まだ血が滲んでいる。


「……ずいぶん深く見えるが」

 低い声で医師がつぶやき、指先で慎重に傷の周囲を確かめる。触れるたびに鈍い痛みが走るが、アレンは眉を動かすだけで声を漏らさなかった。


 数分間の診察ののち、医師は不思議そうに首を振った。

「血管も神経も、骨すらも傷ついていない……。まるで刃が皮と筋だけを正確に避けたようだ。奇跡に近い」


 アレンは小さく息を吐き、緊張で硬直していた肩をようやく下ろす。

「運が良かった、と言うべきか」

「いや、反射的に身を捻ったのが功を奏したんだろう。……さて、治療に入る」


 医師の掌がかざされ、淡い緑光が傷口を包み込んだ。光は小川のせせらぎのような柔らかな音を伴い、温もりが肌から骨にまで沁み込んでくる。裂けた皮膚は次第に寄り、赤みが引き、やがてただの滑らかな肌に戻った。痕すら残らない完全な癒し。


「これで大丈夫だ。数日は無理をしなければ、普段通りに動かせる」

 医師の言葉に、アレンは腕を軽く回してみる。痛みは跡形もなく、まるで傷など最初から存在しなかったかのようだ。


「助かった。君の技術に感謝する」

 礼を述べて立ち上がると、診療所の白壁が背後に遠ざかり、扉の外に夕暮れの光が広がった。


 街路は黄金色に染まり、行き交う人々の影が長く伸びている。まだ机の上には、依頼主に返さねばならない小包が待っている。

 アレンは背筋を伸ばし、痛みから解放された腕を軽く握りしめた。――仕事に戻ろう。そう心の中で呟きながら、彼は再び歩き出した。


 診療所を出たアレンは、軽く包帯で覆われた左腕をそっと押さえながら工房へ戻った。治癒魔法でほとんどの痛みは引いているものの、昨日の暴走した魔法石の記憶がふと甦るたびに、胸の奥にざわつく感覚が残る。それでも、包みを仕上げた小箱を両手で抱えた瞬間、心は静けさを取り戻した。依頼主の元へ無事に届ける、それが修理屋としての務めだ。


 小箱は木製の外箱に柔らかな布を敷き、その上に守護のアミュレットをそっと納めていた。石の表面は滑らかで、昨日まであったヒビは影も形もない。布の端を折り畳み、封蝋を押した封筒を添える。依頼主への言葉を短く書いたが、その一文字一文字に、アレンの職人としての誠意が込められていた。


 それを携え、彼は町の郵便局へ向かう。

 昼下がりの通りは、人々でにぎわっていた。商人が威勢よく客を呼び込み、子どもたちは焼き菓子を握りしめて走り回る。荷馬車の軋む音と、人々の話し声が混じり合い、活気に溢れている。アレンは人波に身をゆだねながら、封書を懐に抱えた。


 郵便局の窓口で小包を差し出すと、局員は丁寧に箱を点検し、受領印を押して微笑んだ。

「確かにお預かりしました。大切そうな品ですね。安心してください、必ず届けますよ」

 その言葉に、アレンは短く頷いた。言葉にこそ出さなかったが、胸の奥に安堵の灯がともった。これで一つの仕事が終わったのだ。


 用事を済ませて外へ出ると、午後の光はすでに傾き、石畳に長い影を落としていた。どこからともなくパンの焼ける香ばしい匂いが漂ってきて、アレンの足を自然と市場へと向かわせる。


 市場の通りは、夕餉を整えようとする人々であふれていた。色鮮やかな野菜が山と積まれ、魚屋の氷の上では川魚がきらきらと光を反射して跳ねている。精肉店の店先からは香辛料と脂の匂いが漂い、腹を空かせた客が次々と並んでいた。


 アレンは野菜売りの老婆から真っ赤なトマトと瑞々しいレタスを買い、魚屋では鮮度の良い小ぶりの川魚を選んだ。包丁の入れやすさや、塩焼きにしたときの香りを思い浮かべながら、慎重に目を通す。

「やっぱりフィンも帰ってくるだろうしな……」

 無意識にそう呟いた。今朝は学校へと走り出していった少年の背を思い出す。あの年頃の若者には食べ盛りの時期がある。だからこそ、自分の食事だけでなく、帰宅したときに喜ぶ顔を見られる献立を用意したい。


 パン屋で焼きたての丸パンを籠に加え、さらに香草の束をひとつ買う。スープの仕上げに散らせば香りが立つだろう。店先で差し出された紙袋から漂う小麦の甘い香りに、アレンの口元が緩んだ。


「さて、今夜は……肉を焼き、魚を煮込んで、スープも作るか」

 献立が頭の中で形を取り始める。考えをまとめながら袋を抱え直し、夕焼けに染まる空の下、彼はゆるやかに工房への道を歩いていった。


 夕焼け空の下、アレンは両腕いっぱいに抱えた袋を揺らしながら工房へと戻った。扉を開けると、昼間の静けさそのままに、そこには誰の気配もない。ノアもフィンも学校に行っている時間帯、広い工房には木の匂いと魔法具のかすかな気配だけが漂っていた。


 荷物を調理台に並べ、アレンはゆっくりとエプロンを腰に結ぶ。普段は修理のために広げる工具箱も、今は片隅に寄せられ、代わりに包丁やまな板が並んだ。


 まずは野菜から取りかかる。赤々としたトマトを手に取り、包丁を走らせると、果汁がきらりと刃に光る。レタスは水で洗い、手でちぎると清涼な香りが広がった。鍋に湯を沸かし、刻んだ香草を指先でひとつまみ落とすと、空気が一瞬で爽やかな香りに包まれた。


「……いい香りだ」

 誰に言うでもなく呟きながら、アレンは川魚を下ろしにかかる。手際よく内臓を取り除き、身を三枚におろすと、塩と少量の香草をまぶして煮込み用の鍋へ入れた。火加減を弱め、じっくりと旨味を引き出す。


 次に精肉店で買った肉を鉄板にのせる。熱せられた鉄板に油が走り、肉を置いた瞬間、じゅうっと音が響いた。肉汁が香ばしい煙となって立ち昇り、工房の奥まで香りが広がる。普段は金属や木の焦げる匂いに満たされる場所だが、今は夕食の支度で家庭的な温もりが満ちていた。


 ふと、アレンは手を止め、左腕に目を落とす。まだ包帯が巻かれているが、治癒魔法で痛みはほとんど消えている。それでも昨日の裂傷の感覚は、心の奥底で消えてはいなかった。

「……まったく、修理よりも自分の方が傷ついてどうする」

 苦笑を浮かべながら、肉をひっくり返す。


 スープの鍋に火を加え、野菜と香草を入れると、柔らかな湯気が立ち昇った。トマトの赤と緑の葉が鍋の中で踊り、彩り豊かな夕餉の準備が進んでいく。


 そんなとき、工房の扉が軋む音がした。

「ただいまー!」

 明るい声が響き、フィンが駆け込んできた。制服の袖を少し乱しながらも、目はどこか期待に輝いている。鼻をひくひくと動かし、漂う香りに気づいたのだろう。

「……お、なんかいい匂いする!」


 アレンは振り返り、鉄板の上で肉を押さえながら小さく笑った。

「ちょうど帰ってきたな。もうすぐ夕飯ができる」

「やった!」

 フィンは鞄を放り投げそうになって、慌てて机に置き直し、そのまま調理台に近づいてくる。


 工房は、修理道具ではなく料理の匂いと、少年の弾んだ声で満たされていった。


 食卓に皿が並べられた。香ばしく焼き上げた肉、彩り豊かな野菜のスープ、そして川魚の煮込み。木製の食器に盛りつけられると、工房の食卓は一気に賑やかな雰囲気を帯びた。


「いただきます!」

 フィンは元気よく両手を合わせ、真っ先に肉へと手を伸ばした。ひと口かじると、じゅわっと肉汁があふれ出し、瞳が輝く。

「うまい! 本当にうまいよ、師匠!」


 アレンは笑みを浮かべ、スープを口にした。香草の清涼な香りと野菜の甘みが口の中に広がる。こうして誰かと食卓を囲む時間は、彼にとって久しぶりの安らぎだった。


 食事が進むうちに、自然と話題は学校のことに移った。

「昨日の講義、やっぱりすごかったんだよ」

 フィンは、スプーンを握りながら夢中になって話す。

「みんな、師匠の修理を一目見ようと押しかけてきてさ。俺、前に工房で一緒にやったの思い出して、ちょっと誇らしくなったんだ」


 その言葉に、アレンは一瞬手を止め、目を伏せた。誇らしいと言われることには慣れていない。しかし、真正面から弟子のように慕ってくれるフィンの姿に、どこか照れくささと温かさが同時に胸に広がっていく。


「大げさだ。俺はただ修理しただけだよ」

「でも、それをできるのがすごいんだって!」

 フィンは頬を赤くしながら言い切った。


 その熱心な声に、アレンは返す言葉を見つけられず、ただ静かに笑った。


 やがて食卓に残ったのは、食べ終えた器と、まだ尽きない学校の話。フィンの弾む声に耳を傾けながら、アレンはふと左腕を見やり、包帯の下に隠れた昨日の傷を思い出す。だが、その痛みも、今は目の前の温かな時間の中で、遠ざかっていくようだった。


 【魔法の箒、修理いたします。――日々の食卓もまた、大切な時間】

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