門出とランプ修理
翌朝の工房前には、まだ朝露の残るひんやりした空気が漂っていた。通りに差し込む柔らかな光の中、フィンは布の鞄を背負い、緊張と期待を胸に立っていた。今日から専門学校への初登校だ。
鞄には着替えや筆記具に加え、アレンから渡された小さな修理用工具の一式が入っている。使う場面があるかどうかはわからない。だが、フィンにとっては「師匠に送り出してもらった証」であり、心の支えになる大切な品だった。
工房の前で腕を組みながら立つアレンは、その姿をじっと見つめていた。幼さを残しながらも、しっかりと前を見据えるその背中に、頼もしさと同時に、胸の奥に小さな寂しさがわき上がってくる。
「随分と早起きだな。眠れなかったんじゃないのか」
フィンは目を丸くし、耳を赤くして答えた。
「ちょっとだけ……。楽しみで、それにやっぱり緊張もしてます」
「緊張は悪いことじゃない。けどな、わからないことをそのままにするな。素直に先生や仲間に聞け。お前は覚えるのも早いんだ。胸張って行ってこい」
「……はい、師匠」
真剣にうなずくフィン。その瞳には学びたいという強い意志が宿っていた。
そこへ、明るい声が響いた。
「おはよう!」
通学鞄を提げたノアが駆けてきた。今日は彼女も学校がある。少し息を切らせながらも、目は生き生きとしている。
「フィン、一緒に途中まで行こう。私の学校と専門学校、通りが同じ道だし」
胸を張るノアに、フィンは照れくさそうに笑った。
「ありがとう。心強いよ」
アレンは二人のやりとりを見て、ふっと口元を緩める。
「……まったく。賑やかな登校だな」
「師匠、いってきます!」
「アレンさん、またあとで!」
二人は声をそろえて挨拶し、並んで歩き出した。
街の角を曲がり、背中が見えなくなるまでアレンは黙って見送っていた。頼もしさと少しの寂しさが、胸の奥で入り混じる。
静けさが戻った工房に入り、アレンは深く息をついた。今日は久しぶりに一人で工房を切り盛りする日だ。張り合いが少し減る気もするが、仕事は待ってくれない。
開店準備を終えると、ほどなくして扉が開き、年配の男性が卓上ランプを抱えて入ってきた。
「すまんが、ちょっと見てもらえんか。夜中に“パチン”と音がしてな、それっきり明かりがつかなくなったんだ」
アレンは手渡されたランプを受け取り、重さや表面を指で確かめる。
「ふむ……魔石か回路か、そのあたりだな。預かって調べてみるよ」
そう言って作業机の上にランプを置く。静かな工房に、工具を並べる音が響き始めた。久しぶりに一人で向き合う修理が、静かに幕を開けようとしていた。
扉の鈴が小さく揺れて、客が去る。工房の中には、再び静寂が戻った。
アレンは卓上ランプを机の中央に置き、工具を丁寧に並べると、深く息をついた。
――今日は本当に、一人だ。
そう思った瞬間、胸の奥がふっと軽く空いたような感覚に襲われた。ノアの明るい声も、フィンの真面目な質問も、今日は響かない。
工房の空気は同じはずなのに、どこかしんと冷えているように感じられる。
アレンは首を振り、作業に意識を戻した。
「さて、まずは魔石の確認からだな」
ランプの底蓋を外すと、中には小さな魔石が収められていた。表面はうっすらと曇り、ひび割れが走っている。
「……なるほど。魔力の循環が滞っているな」
つぶやきながら、アレンは細いピンセットで魔石を慎重に取り出した。光の加減で、石の奥にわずかな明滅が見える。完全に力を失ったわけではない。
卓上の小瓶から専用の薬液を垂らすと、石はじんわりと淡い光を放ち始めた。
「まだいける……よかったな」
独り言が自然と漏れる。普段なら、フィンが「どうしてですか?」と横から尋ねてくるはずだ。
けれど今は、自分の声だけが返ってくる。
ひとつ作業を進めるたびに、静寂の中に小さな違和感が広がった。
道具を置く音、紙に書きつける音、液体が滴る音――それらすべてがやけに耳につく。
アレンは苦笑しながら手を止めた。
「……全く、贅沢なもんだ。昔はこんな静けさが当たり前だったのにな」
独り身の修理屋として働き始めた頃、工房はいつも今日のように静かだった。だが、今では二人の声が当たり前になってしまった。
その存在が自分の生活にどれほど溶け込んでいたのか、今さらながらに思い知らされる。
机に肘をつき、少しだけ目を閉じる。頭に浮かぶのは、フィンの緊張した顔と、ノアの元気な笑顔。
「……しっかりやれよ」
ぽつりとつぶやいて、また工具を取り上げた。
魔石のひびを埋め、魔力の回路を繋ぎ直す。静けさの中で、修理の音だけが淡々と続いていく。
やがてランプの内部に光が戻り、温かな橙色が机の上を照らした。
工房の空気が、少しだけ柔らかくなった気がした。
午後の陽が傾きはじめ、工房の窓から差し込む光も柔らかくなる頃。アレンは黙々とランプの組み立てを進めていた。
金属の枠を磨き、魔法石を定位置に戻し、細かな符を描き直す。その一つひとつの作業は、何百回も繰り返してきた馴染みの手順だ。けれど今日は、不思議と静けさが身に染みていく。
フィンなら、隣で作業の進み具合を小声で報告してきただろう。
ノアなら、興味津々で「それ、どうなってるの?」と身を乗り出してきただろう。
当たり前のようにあった声や気配が消えた工房は、こんなにも広く、こんなにも音のない空間だったのかと、アレンは初めて気づいた。
「……やれやれ。俺もずいぶん、人に慣れちまったな」
独り言がやけに大きく響き、アレンは苦笑する。
組み立てを終えたランプに魔力を通すと、ぽうっと温かな光が浮かんだ。橙色の光は、ひとりきりの工房を優しく照らす。
本来なら完成した喜びが湧くはずなのに、胸に広がるのはどこか物足りなさだ。
この光を「すごい」と笑顔で受け止めてくれる相手が、今はいない。
そのとき、扉の鈴がちりんと鳴った。
「すみません、このランプ……もう直ったでしょうか?」
昼前に依頼を置いていった客が戻ってきたのだ。アレンは立ち上がり、完成したランプを手に取る。
「はい。試してみてください」
客が恐る恐る魔力を込めると、ランプはぱっと明るく灯り、室内を照らした。
「おお……! 夜中に急に暗くなって困っていたんです。本当に助かりました!」
顔をほころばせるその姿を見て、アレンの胸にもじんわりと温かさが広がる。
「魔石に余計な力をかけなければ、まだ長く持ちます。大事に使ってください」
「はい、ありがとうございます!」
客が頭を下げて去っていく。再び工房に静けさが戻ったが、先ほどまでの寂しさは薄れていた。
淡く灯り続けるランプの光が、空っぽに思えた空間を埋めている。
「……あいつらも、元気にやってるだろう」
アレンはぽつりと呟き、椅子に腰を下ろす。
その声は、静けさに飲まれることなく、柔らかな光に包まれて消えていった。
ーー
夕方、扉ががちゃりと開いた。
「ただいま戻りました!」
元気いっぱいの声とともに、フィンが先に飛び込んでくる。その後ろからは、ノアも「お疲れさまです、アレンさん」と手を振りながら入ってきた。
アレンは思わず笑みを浮かべ、二人を迎え入れる。
「おう、おかえり。学校はどうだった?」
「ぼく、専門学校の初日で緊張したけど、先生も先輩も優しかったです!」
胸を張るフィンの声に、ノアも「私も授業で少し大変だったけど、無事終わりましたよ」と続ける。
昼間は静かだった工房に、再び明るい声が満ちていく。ひとりきりの時間も悪くないが、やはりこのにぎやかさが工房の本当の姿なのだと、アレンはしみじみ思った。
「じゃあ、晩飯前に少し片づけでも手伝ってもらうか」
「はい!」
二人の元気な返事に、アレンは小さくうなずいた。今日一日の疲れがすっと消えていくようだった。
【魔法の箒、修理いたします。仲間と共に】




