赤ちゃんが落ち着かない乳母車
夏の終わり、風が涼しくなりはじめた午後のこと。
《風の手工房》の前に、小さな車輪の音がコロコロと転がってきた。
「す、すみません……修理って、こういうのも……?」
あわてて声をかけてきたのは、若い母親だった。
腕にはぐずる赤ちゃん、背には大きな荷物。
そして彼女が押していたのは、アンティークな魔法乳母車だった。
「どうぞ中へ。赤ちゃんも、ここで少し休ませてあげて」
「……ありがとうございます。実は、この子がどうしても、乳母車に乗せると泣きだしてしまって」
アレンは乳母車に目をやった。
木と金属が組み合わされた、少し古いデザイン。
側面に“マナゆりかご式安眠結界”の刻印がある。
「これはかなり古い型ですね。でも、良い作りだ。お母さんの物ですか?」
「はい……私が赤ちゃんの頃、母が使っていたそうです。形見みたいなものなんです」
「なるほど。じゃあ、直すだけじゃなく、“話も聞いて”みないといけませんね」
アレンは乳母車を工房の奥へ運び、
魔力反応を測る儀式陣の上に慎重に置いた。
「通常なら、赤ちゃんの眠気に合わせて“ゆらぎ”を制御するはずだが……」
魔力の波長が乱れている。
赤ちゃんの気持ちと、乳母車の揺れが噛み合っていないのだ。
「もしかして、赤ちゃんの魔力波に“共鳴してない”?」
乳母車に手をかざすと、内部に埋め込まれた“ゆりかご核”が微かに震えた。
――でも、その震えは、どこか“おびえている”ようだった。
「君、何をそんなに怖がってる?」
アレンは魔力を流し、乳母車の中に記録された“記憶”を探った。
そこには、おぼろげな記憶の断片があった。
寒い倉庫の中。
埃にまみれた時間。
誰にも触れられず、音もなく、ただ時を過ごす年月。
「……忘れられてたんだな。長い間、ひとりで」
魔法道具は、時に感情を持つ。
それが古く、思い出が強いほどに――“捨てられた”という傷もまた深くなる。
アレンはゆりかご核を一度取り出し、芯の再調整を行った。
内部の魔力を優しい波長に揃え、赤ちゃんの現在の心拍に合わせて“ゆれ”のリズムを修正していく。
「眠らせるんじゃない。“安心”させてやるんだ」
さらに、核の奥に残っていた過去の記録をひとつだけ、丁寧に再生した。
それは、若き母親――今の持ち主の“母”が、赤ちゃんだった彼女を乳母車に寝かせていた記憶。
あやす歌声、やさしい手のひら、そして何よりも、家族の笑顔。
「……お前にも、居場所はあったんだよ」
アレンはその記憶を、“安心の記憶”として魔力に固定し、乳母車の核に戻した。
「これで、お前はまた、“だれかを包む存在”になれる」
修理を終えた夕方。
再び工房に戻ってきた母親と赤ちゃんを、アレンは笑顔で迎えた。
「乗せてみましょうか?」
「はい……」
そっと赤ちゃんを乳母車に寝かせる。
……泣かなかった。
むしろ、微かにまぶたが落ちていく。
ゆっくりと、乳母車は心地よく揺れ始めた。
「……あ……寝た」
「うん。“思い出した”んです。この乳母車は“抱いていたこと”を」
母親の目が潤んでいた。
「……ありがとう。これで、私も母に“ちゃんとつないだ”気がします」
「きっと赤ちゃんにも、その想いは伝わりますよ」
母親が去ったあとの工房。
アレンは乳母車が置かれていた場所を見つめて、ふっと微笑んだ。
「赤ちゃんと、古い魔法道具。どちらも、ちゃんと“安心できる場所”がいるんだな」
風がそっと、木の看板を揺らした。
【魔法道具 修理いたします。やさしさも、記憶も、包みなおします。】