水道蛇口
その日、風の手工房は珍しく静かな午後を迎えていた。
アレンは作業机で道具の点検をしており、フィンは研磨済みの工具を丁寧に棚へ戻している。工房の窓からは心地よい風が入り、どこかのんびりとした空気が漂っていた。
「師匠、今日は依頼が少ないですね」
フィンが伸びをしながら言う。
「ああ。たまにはこういう日もいいだろ。道具の整備は怠るなよ」
アレンは気の抜けたような調子で返し、布でドライバーの柄を拭いていた。
その時、工房の扉が勢いよく開かれた。
「アレンさん、大変だ! 急ぎで来てほしい!」
駆け込んできたのは町の使い走りをしている若者だった。顔は真っ赤で、息も絶え絶えだ。
「落ち着け。何があった?」
「とある家の水道の蛇口が壊れて、水が止まらなくなってるんだ! 水道屋も呼ばれたけど、どうにもならなくて……魔石が絡んでるらしいって。工房に頼めって言われたんだ!」
アレンとフィンは顔を見合わせる。
「水道の魔石か……厄介だな」
「師匠、すぐに行きましょう!」
アレンは工具箱を手早くまとめ、フィンも肩からカバンを掛ける。工房の扉を閉めると同時に、二人は町を駆け出した。
依頼先の家に着くと、玄関前からすでに異様な気配が伝わってきた。地面にはじわりと水が染み出し、門の外まで湿った匂いが広がっている。
「こりゃ……相当ひどいな」
アレンが低く呟く。
家に入ると、案の定、中は水浸しだった。床一面に水が広がり、靴が濡れるたびにバシャバシャと音を立てる。住人は慌ただしく雑巾を絞り、桶で水をかき出しているが、まるで追いつかない。
「こっちだ! 蛇口が止まらないんだ!」
呼ばれて向かった台所では、水が凄まじい勢いで噴き出していた。
既に水道屋が二人がかりで作業していたが、彼らの顔は困惑に染まっていた。
「機械部分だけじゃない。蛇口の内部に埋め込まれた魔石が割れてやがる。俺たちじゃ手に負えねぇ」
アレンは蛇口に目をやる。確かに、ひねる部分は欠けて破損し、さらに奥で淡く光るはずの魔石は、ひび割れて不安定に点滅していた。
「なるほどな。原因は二つだ。機械的な破損と、魔石の損傷。両方に手を入れなきゃ水は止まらない」
フィンは額に汗を浮かべながら師匠を見上げた。
「師匠……俺たちにできるんですか?」
アレンは工具箱を床に置き、腰を落ち着けると蛇口をじっと見据える。
「やるしかない。ここで諦めたら、この家は水浸しのままだ」
工房での落ち着いた時間はもう遠い。
ここから始まるのは、時間との勝負の修理だった。
アレンは蛇口の下に膝をつき、濡れた床に工具箱を置いた。フィンは慌てて布を敷いて師匠の膝が濡れないようにする。
「よし。まずは水の勢いをどうにかして落とさなきゃならん」
蛇口からはなおも轟音を立てて水が噴き出し、台所はあっという間に水深が増していく。水道屋たちもバケツで水を捨てつつ、アレンの動きを見守っていた。
「機械部分は俺が外す。フィン、魔石の状態を見ろ。下手に触ると暴発するから気をつけろよ」
「はい!」
アレンは手際よくレンチを取り出し、壊れた金具を外していく。水しぶきが顔にかかるが、構わずに作業を続けた。フィンは蛇口の奥に光る魔石をそっと覗き込み、小声で報告する。
「師匠、魔力の流れが暴れてます。ひび割れが広がっていて、今にも砕けそうです!」
「だろうな。こいつは水を止める役割を担ってるはずだ。魔石が壊れりゃ、ただの管が暴れだすってわけだ」
アレンは壊れた金具を脇に置き、しばし思案する。水道屋が焦りを隠せずに声を上げた。
「おい、兄ちゃん。本当にどうにかできるのか? 俺たちじゃ魔石なんざ触れもしねぇ。下手すりゃ家全体が水浸しどころか、魔力で吹き飛ぶぞ!」
アレンは短く笑って答える。
「大丈夫だ。魔法道具の暴走なら、何度も見てきた。こいつも“道具”だ。なら直せる」
その言葉に住人たちもわずかに安堵の表情を浮かべた。だが状況は待ってくれない。床の水はもう足首を越え、フィンのズボンの裾を濡らしている。
「フィン!」
「はい!」
「魔石を安定させるために仮の封印をかけろ。その間に俺がひねり部分を補修する。両方同時じゃなきゃ意味がねぇ」
フィンは深呼吸をし、道具袋から小さなチョークを取り出すと、蛇口の周りに魔法陣を素早く描き始めた。額には汗がにじみ、足元の水が波打つたびに線が揺れる。
「揺れるな……集中しろ……!」
彼の声はかすかに震えていたが、描き終えた瞬間、魔石の周囲の光が弱まり、わずかに安定を取り戻す。
「よし、やったな!」
「フィン、上出来だ!」
アレンはすぐさま壊れた金具の部品を取り出し、応急処置を施しながら組み直す。
だが、ひび割れた魔石を見て彼は小さく眉をひそめた。
「こいつは長くはもたねぇ。今は水を止めるだけで精一杯だ……」
時間との戦いの中、アレンとフィンは息を合わせ、暴れる水流と魔石の不安定な光に立ち向かっていった。
アレンが金具を組み直し、フィンの封印が蛇口の魔石を押さえ込んでいた。水の勢いは徐々に弱まり、室内に一瞬だけ安堵の空気が流れる。
だが、その安堵はすぐに打ち砕かれた。
「師匠……! 魔石が……!」
フィンの声が震える。蛇口に埋め込まれた魔石が、まるで心臓の鼓動のように脈打ちはじめたのだ。表面のひび割れから青白い光が漏れ、ひときわ強い衝撃波が水面を震わせる。
「くそっ、亀裂が広がったか!」
アレンは舌打ちをして、咄嗟にフィンを後ろへ押しやった。次の瞬間、魔石のひとつの欠片が破裂し、細かな破片と水しぶきが四方に飛び散る。
住人たちが悲鳴を上げ、水道屋は慌てて背を丸めて逃げようとした。
「落ち着け!」
アレンの声が鋭く響く。「逃げてりゃ余計に暴れる! ここは抑え込むしかねぇ!」
アレンは作業台から取り出した補助具──古い鉄製のリングを魔石にかざす。魔力の流れを一時的に縛る道具だが、力業に近い方法でしか使えない。
「フィン! 封印を強めろ! お前の線、まだ消えるなよ!」
「わかってます!」
フィンはびしょ濡れの足元に必死で踏ん張り、魔法陣に両手をついて魔力を送り込む。陣が淡く光り、魔石の揺らぎがわずかに落ち着く。だが、再び大きなひびが走り、今度は内部から水の奔流のような魔力が噴き出した。
アレンは反射的にリングを魔石にはめ込み、強引に固定した。金属がきしむ音とともに、暴れる魔力がリングに吸い込まれるように収束する。
「……まだだ! 止まれ!」
蛇口のひねり部分を押さえるアレンの手は震えていた。水は確かに勢いを失ってきている。しかし、魔石そのものはすでに限界を迎えており、あと一度大きな脈動があれば砕け散るだろう。
その緊迫した状況に、フィンの額から汗が滴り落ちた。
「師匠……! 魔石が、もう保ちません!」
「だからこそ、今止めるんだ! お前の封印を最後まで信じろ!」
アレンの声に押され、フィンは必死に力を込める。
光が一瞬、部屋中を満たした。まるで巨大な波が押し寄せたかのように、床の水がざわめき、壁にまで波紋が走る。
アレンは最後の力を振り絞り、リングと金具を同時に締め上げた。
「今だ――!」
その叫びと同時に、魔石の光が一気に収束する。暴れる水音が嘘のように静まり、噴き出していた蛇口から水滴が数滴、ぽたりと落ちるだけになった。
室内に、張り詰めた沈黙が訪れた。
静けさが戻ると同時に、張り詰めていた空気が一気にほどけた。
膝をついたフィンは肩で大きく息をしながら、額の汗を乱暴にぬぐった。アレンも蛇口から手を離し、ぐったりと腰を落とす。リングで固定された魔石はもう光を放ってはいなかった。
「……ふぅ。なんとか抑え込めたな」
アレンは深いため息をつき、髪から落ちる水滴を手で払い落とした。
年配の住人の夫婦が駆け寄り、何度も頭を下げる。
「助かりました……! 本当に、ありがとうございます。家がどうなることかと……」
「あなた方がいなければ、きっと床も壁も駄目になっていたわ」
水道屋もおずおずと近づいてきて、帽子を脱いで頭をかいた。
「いやぁ……こっちの修理じゃ手がつけられませんでした。魔石がらみになると、どうにも。お二人がいなかったら完全にお手上げでしたよ」
アレンは軽く肩をすくめて答える。
「まぁ、うちの仕事はこういう“魔石絡み”だからな。水道屋に責任はねぇよ」
その横で、フィンがまだ荒い息をしながらも胸を張った。
「ぼ、僕の封印、ちゃんと役に立ちましたよね!?」
「おう。よく持ちこたえたな。お前が押さえてなきゃ、今ごろ床板どころか天井まで吹っ飛んでたさ」
アレンの言葉にフィンは少し照れたように笑い、胸を撫で下ろした。
住人たちの安堵の笑顔を見て、アレンは再び立ち上がった。
「ひとまず、この蛇口は応急処置だ。魔石は完全に磨耗してるから、取り替えが必要だな。水道屋と相談して、新しい石を埋め込むといい」
水道屋は真剣にうなずき、メモを取り始める。
「了解しました。すぐに段取りをつけます」
工房に戻る道すがら、夕焼けの光が二人の濡れた服を赤く照らしていた。フィンは歩きながら大きく伸びをする。
「師匠……正直、今日が一番、心臓に悪かったです」
「はは、まだまだだな。こういう現場は不意打ちだらけだ。けどな、慣れちまうと逆に退屈に感じる時が来るかもしれねぇぞ」
「……そんな日、来るんでしょうか」
二人の会話は、夕暮れの街に溶けていった。
風の手工房の一日は、今日もまた慌ただしく、そして確かな仕事で幕を閉じたのだった。
【魔法道具、修理いたします。予想外の現場でも、全力で】




