魔法のハサミ
午後の工房は、いつになく静かだった。
アレンは作業机に肘をつき、修理に使う道具を丁寧に拭いていた。大規模な出張仕事から戻ってきたばかりで、まだ少し疲れの余韻が残っている。フィンも隣で小さな箱の整理をしていたが、やはりどこか眠そうにあくびを噛み殺していた。
そんな穏やかな空気を切り裂くように、勢いよく扉が開いた。
「やっと帰ってきたんですね!」
元気な声が工房に響きわたり、アレンもフィンも顔を上げる。そこに立っていたのは、ノア・ルーデンだった。両手を腰に当て、いかにも「怒っています」と言いたげな姿勢で仁王立ちしている。
「……ノア」
「ただいま帰りました」
アレンが苦笑まじりにそう言うと、ノアはぷいと顔をそむける。
「帰ってきたのはいいですけど、ずーっと出張でお店にいないなんてひどいです! あたし、この間も来たのに『休み』って札しかかかってなくて……」
ぷんぷんと腕を振り回すノアの声には、本気の怒りというより、寂しさが滲んでいる。
「しかもですよ!」とノアはさらに言葉を重ねた。
「出張先が劇団だって聞いて……ずるいです! レイナ・セリーヌさんに会えるなんて! あたしだって、もう一度会いたかったのに! せっかくサインもらったのに、もっとお話したかったのに!」
ノアの目がきらきらと輝き、けれど頬はふくらんだまま。まるで「羨ましい」と「悔しい」を同時に叫んでいるかのようだった。
「……ノア」
フィンが苦笑しつつ、手にしていた布を机に置く。
「学校があるだろう? 毎日ついていけるわけじゃないんだし」
「うっ……」
ノアは一瞬言葉に詰まり、むくれた顔でフィンを睨んだ。
「……わかってますよ。でも、でも……!」
その時、工房の扉がもう一度控えめに開いた。
入ってきたのは、年配の仕立屋の女性だった。落ち着いた雰囲気のその人は、アレンに深々と頭を下げる。
「ごめんください、風の手工房さん。こちらで道具の修理をお願いできると聞いて参りました」
ノアがきょとんと振り返る。
「えっ、この人……?」
「依頼主だよ」
アレンが立ち上がり、穏やかに応じる。
「今日はどのような品を?」
仕立屋は大事そうに布で包まれたものを取り出した。布を開くと、そこには銀色に輝く裁ち鋏が現れる。けれど片方の刃には小さなひびが入り、動かすたびにぎし、と不吉な音がした。
「これは……」
アレンが覗き込むと、仕立屋は神妙な顔で説明を始めた。
「ずっと使い続けてきた相棒のような鋏です。魔法仕立てのもので、生地を裁つとき、刃に沿って糸が自らほどける仕掛けがあるのですが……。最近になって急に動きが悪くなってしまって。刃がかけたら、もう二度と同じようには作れません」
仕立屋の声には、鋏への愛着と不安が入り混じっていた。
アレンは真剣な眼差しで鋏を受け取り、重さを確かめるように手のひらで何度か開閉する。
「確かに……魔力の流れが淀んでいる。刃のひびと、魔法の流れの乱れが重なっているようですね。丁寧に修理すれば、まだ十分使えますよ」
仕立屋の表情がほっと和らいだ。
ノアもそれを聞いて胸を撫で下ろす。
「じゃあ、治るんですね?」
「ええ。時間は少しかかりますが」
フィンが横から顔を覗かせ、にっと笑う。
「さすが師匠、頼もしいですね」
「ふふ、ありがとうございます」
仕立屋は深々と頭を下げ、工房をあとにした。
静けさが戻ると、ノアがふと口を尖らせる。
「……やっぱりずるい。レイナ・セリーヌさんと劇団に行けたフィンまで、なんだか嬉しそうだし」
フィンは肩をすくめる。
「羨ましがってる場合じゃないだろ? 学校の課題もあるんじゃないの」
「むーっ!」
ノアは再び頬をふくらませるが、その目は鋏の修理に取りかかるアレンの手元を、興味深そうに見つめていた。
アレンは作業机の中央に鋏を置き、じっと観察した。
ひびが入った片方の刃には、うっすらと魔力の筋が絡み合うように走っている。目には見えないほど繊細な流れだが、長年使い込まれた道具にだけ宿る独特の「温度」があった。
「まずは刃を休ませないとな」
そう呟き、アレンは透明な魔法液の小瓶を取り出し、刃のひびに沿って一滴垂らした。液は淡い光を帯びながら染み込み、じゅっ、と小さな音を立てる。
「なにそれ……」
ノアが興味津々で身を乗り出す。
「修理用の溶液。刃に残った魔力の流れを一度やわらげて、ひびを広げないようにしてるんだ」
アレンが答えると、フィンがにやりと横から言った。
「つまり休ませてるんですよ。道具にだって一息つく時間が必要なんです」
「へぇ……道具も休むんだ」
ノアは目を丸くする。
十分ほど経ち、刃の表面が安定してきたのを確認すると、アレンは青く透き通った研磨石を取り出した。触れるとじんわり温かく、ただの石ではないことが分かる。
「これで刃を整える」
アレンは鋏の刃を研磨石にそっと滑らせた。きぃん、と澄んだ音が工房に響く。何度か往復させるごとに、ひびの縁がなめらかに整えられていった。
その様子を見ていたノアは、だんだん我慢できなくなる。
「アレンさん、あたしもちょっとだけ触ってみたい!」
「だめですよ」
先に答えたのはフィンだった。
「学校の宿題だって、途中で人に代わられたら大変でしょう? 最後までやり切らないと」
「むぅ……」
ノアは頬をふくらませたが、フィンの言葉に妙な説得力があるのか、しぶしぶ椅子に腰を下ろした。
やがて研磨を終えたアレンは、刃を光にかざして確認する。
「よし、仕上げだな」
机の引き出しから取り出したのは、銀色の細い糸だった。魔法糸と呼ばれるそれは、切れ目を補強し、魔力の流れを導く働きを持つ。アレンはそれを慎重にひびに沿って縫い込むように通し、指先で魔力を送り込んだ。
すると糸が柔らかく光り、ひびを覆うように溶け込んでいく。刃全体に新しい輝きが宿り、鋏はまるで蘇ったように息を吹き返した。
「……完成だ」
アレンは鋏をそっと開閉する。ぎし、という不快な音はもうなく、滑らかに刃が動いた。そのたびに空気を裂くような澄んだ音が鳴る。
「わぁ……!」
ノアが感嘆の声をあげた。
「さっきまで壊れそうだったのに、全然違う……!」
フィンも嬉しそうに頷く。
「さすが師匠です」
アレンは二人に微笑み返し、鋏を布に包んだ。
「依頼主に届けてくるか。これでまた、仕立屋が仕事を続けられる」
その言葉に、ノアの顔も少し和らいだ。
「……いいなぁ。あたしもアレンさんやフィンみたいに、誰かの役に立てたら」
「焦らなくていいさ」
アレンは柔らかい声で言った。
「ノアにしかできないことだって、いつかきっと見つかる」
ノアは照れ隠しのように「ふん」と鼻を鳴らしたが、その瞳はどこか嬉しそうに輝いていた。
翌日の朝、風の手工房には涼しい風が吹き込んでいた。
アレンは仕上げた鋏を布で丁寧に包み、木箱に収める。依頼主の仕立屋は街の中央通りにある店だ。今日はフィンと一緒に納品に向かうことにした。
「師匠、ノアは?」
工房の外で待ちながら、フィンが首を傾げる。
「学校だろ。休ませるわけにはいかんさ」
アレンは軽く肩をすくめ、木箱を抱えて歩き出した。
石畳の道を進むと、やがて仕立屋の看板が見えてきた。色とりどりの布地が窓に飾られていて、街行く人の目を引いている。
「ここです」
フィンが先に扉を開けると、店内には落ち着いた空気が漂っていた。ゆったりとした足音と共に、依頼主の女性が現れる。
「お待ちしておりましたわ」
姿を現したのは年配の仕立屋の女性、銀色に光る髪をきちんとまとめ、柔らかな笑みを浮かべている。物腰は落ち着いていて、長年の経験が滲む佇まいだった。
「お預かりしていた鋏です。手を入れておきました」
アレンは木箱を差し出した。
女性はゆっくりと箱を開け、鋏を取り出す。刃は光を受けてきらめき、持つとその重量とバランスが手にしっくり馴染む。
「……まあ、見違えました」
女性の声は穏やかだが、驚きと喜びが混ざっていた。
「この鋏は長年、私の大切な仕事道具でした。使い込んで傷んでしまい、どうしようかと思っていたところで……。まさかここまで蘇るとは」
フィンが誇らしげに胸を張る。
「師匠の腕前ですよ」
「はいはい」
アレンは軽く肩をすくめる。
女性は鋏を布地に軽くあてて試し切りをする。すると、しゃり、と心地よい音が響き、布は滑るように切れた。
「本当にありがとうございます。これでまた、どんな注文も断らずに済みますわ」
彼女は深く頭を下げ、微笑んだ。その穏やかな表情に、アレンも自然と小さく頷く。
二人が店を出ると、外は昼時の賑わいで人々の声があふれていた。フィンが楽しそうに笑う。
「ノアに話したら、きっとまた拗ねますね」
「だろうな」
アレンは肩をすくめた。
「まぁ、どう伝えるかはお前次第だ」
フィンは口元を引き締めたが、その目は楽しげに輝いていた。
【魔法道具、修理いたします。今日もまた、誰かの暮らしのために】




