うちわであおぐものは?
その日、街はひどく暑かった。朝から強い日差しが照りつけ、路地の石畳もすっかり熱を持っている。
魔法道具修理屋〈風紡ぎの工房〉の中も、涼しいとは言いがたかった。
「うーん、今日はさすがに暑いな……冷却魔法の石でも仕入れておけばよかったか……」
アレンがシャツの襟元をぱたぱたと扇ぎながらぼやくと、店の扉がカラン、と音を立てて開いた。
「こんにちは~……あつっ」
入ってきたのは、町外れの小劇団〈スズカケ座〉で働いている若い女性、ルナだった。以前、舞台用の音響装置の修理を依頼したことがある常連である。
「どうも、アレンさん。暑いですね、ほんとに」
「そっちも大変だろ。劇団の小屋なんて、冷房とかないんだろ?」
「ええ、だからこれをなんとかしてもらおうかと」
そう言ってルナが差し出したのは、派手な絵柄が描かれた大きなうちわだった。持ち手には細い銀の飾り、そして表面にはかすかに魔法陣の模様が浮かんでいる。
「……魔法うちわ? 風を出す系統か?」
「たぶん。劇中で“風の精霊”が使う小道具で、客席まで風が届くって演出だったんですけど……最近、風が出なくなって」
アレンはうちわを手に取り、慎重に見つめた。
「……素材は木と紙。細工は細かいな。魔法陣は……うーん、風属性の召喚式か。これ、うちわというより、“一時的に風精霊を呼ぶ道具”だな」
「えっ、そんなすごいものだったんですか!?」
「風を起こすって、ただ空気を動かすだけじゃない。自然界の“風そのもの”と接続して動かしてる。こいつは一種の“扉”だ」
アレンは工房の奥に持ち込み、修理台にうちわを置いた。
「破れた箇所や、剥がれかけた魔法陣の補修……それと、精霊とのつながりを再調整してやれば、たぶん元に戻る」
「お願いします。次の公演が“風の歌姫”ってタイトルなんです。うちわが動かないと、主役の見せ場が完全に台無しで……」
ルナの目は真剣だった。彼女の劇団は小規模だが、舞台作りにかける情熱は本物だ。アレンは笑ってうなずいた。
「じゃあ、精一杯風を吹かせてやるさ。観客が驚くくらいにな」
修理作業は数時間に及んだ。
うちわの紙面は繊細で、魔法陣の線もわずかなズレで機能不全になる。アレンは細筆を使って魔素の導線を書き直し、破れた部分には古い精霊紙を貼り重ねる。
「フィン、ちょっと風精霊石を棚から取ってくれ。青い瓶のやつだ」
「はい、これですね」
手伝っていたフィンが、少し興味深そうにうちわを覗き込んだ。
「これ、どうして精霊とうまく繋がらなくなったんですか?」
「簡単に言えば“信頼”が薄れた。精霊との契約ってのは、道具の状態だけじゃなく、使う人間の“意志”にも反応するんだよ」
「じゃあ、劇団の人たちが、使う時に……?」
「たぶん、誰かが“もう風なんかいらない”って思っちまったんじゃないか。あるいは“演出は形だけでいい”とか」
道具に込められた魔法は、ただの仕掛けではない。そこには“意味”があり、“想い”がある。使う側がそれを忘れれば、魔法もまた力を失う。
仕上げの儀式を終えると、うちわの表面に淡い風紋が浮かんだ。アレンが一振りすると、爽やかな風が工房内に吹き抜けた。
「……あ、涼しい!」
フィンが驚いて声を上げる。
ただ涼しいだけではない。そこには、どこか“舞台の空気”のような軽やかさと、優しさがあった。
「精霊が戻ってきたな。これで本番も大丈夫だろ」
数日後、アレンとフィンは〈スズカケ座〉の公演に招待された。
“風の歌姫”が舞台でうちわを振るたび、客席の隅々まで風が届いた。観客は驚き、笑い、目を潤ませる。
あのうちわが、風だけではない“感動”を運んでいたのは、間違いなかった。
帰り道、フィンがぽつりと言った。
「……風って、目に見えないけど、誰かの気持ちも運ぶんですね」
「そうだ。だから道具ってのは面白い。“ただの風”じゃなくなるんだよ。使う人が、そう思えばな」
夏の夜風が、二人の背をそっと押していた。
【風が届かない場所にも、想いは届く】




