バケツ〜溢れるものは水だけではありません〜
工房の裏口に、ひとつのバケツがぽつんと置かれていた。
木製のようでいて、触れると金属の冷たさ。表面には淡い紋様が浮かび、魔力の名残が微かに残っている。持ち手の金具が錆びつき、内部には乾いた泥の跡。長い間、誰かに使われていなかったことだけは、すぐにわかった。
「……これ、今日の依頼じゃないよな」
アレンが首をかしげると、フィンがバケツの横に添えられた紙を拾い上げた。
「ええと……“修理をお願いできますか。使えないけれど、捨てたくはありません”……署名はなし。誰かが置いていったみたいです」
誰かがこっそりと、過去の記憶を託していったのだろうか。
アレンはバケツを持ち上げ、光に透かしてみた。
「魔道具の反応はあるな……けど、用途がわからん」
「単なる水汲み用では……?」
フィンが首をかしげると、アレンはにやりと笑う。
「魔道具ってのは、見た目じゃわからんことが多い。特に“生活魔具”ってやつは、使い方や仕組みより、“誰が何に使ってたか”が重要なんだ」
工房の作業台にバケツを置き、アレンは魔力探査を始めた。残留していた魔素は薄いが、確かな“用途の痕跡”があった。
「……これは、何かを“集める”機能があったな。水、だけじゃない。もしかしたら、音とか、感情とか……」
「バケツで感情を?」
フィンの疑問ももっともだった。だが、アレンは慎重に修理を始めた。持ち手の金具を外し、内部の刻印を削り直す。腐食した木の縁を補強し、割れた底に新たな補強魔法を流し込む。
「うーん……この構造、まるで“受け皿”みたいだな。魔力を、感情のかたちに変えて、集める……?」
「つまり……これは“涙を集めるバケツ”ですか?」
修理を終えても、依頼主は現れなかった。
だが数日後、町の噂話が耳に届いた。
「昔、町外れに住んでたご婦人がね、よく井戸の横で泣いていたって話、知ってる?」
「ご主人と娘さんを事故で亡くしてね……そのあと、ずっとひとりで暮らしてたらしいよ。最後に使っていたのが、“魔法のバケツ”だったとか……」
アレンは黙っていた。
けれど、工房の棚には、修理されたバケツが静かに置かれている。
その中には、今も誰かの気持ちが残っているようで、ときおり、ほんの少しだけ水面が揺れているように見えた。
「フィン、覚えておけ。魔道具ってのは、誰かが使ったから魔道具なんだ。誰かの気持ちがそこに残ってる。壊れても、形が変わってもな」
「……はい。涙も、思い出も、ちゃんと“受け止める”道具ってことですね」
アレンは笑いながら、バケツの中を指先でそっと撫でた。
「……大丈夫。また、誰かの涙を受け止めてくれる」
その夜、バケツの中にひとしずくだけ、水が増えていた。
それが誰のものか、誰も知らない。
【魔法道具 修理いたします。涙も、想いも、受け止めます】




