過去を映す鏡
午後の遅い時間、工房の扉が静かに開いた。
現れたのは、一見して気品のある老婦人。
姿勢は真っ直ぐで、紫のショールがよく似合う。
彼女は「カーラ」と名乗り、アレンに一つの包みを差し出した。
「これは、かつて舞台で使っていた鏡ですの。……もう、映らなくなってしまって」
その包みの中にあったのは、縁に銀の細工が施された、古びた卓上鏡だった。
しかし、鏡面には深い曇りがあり、表面はわずかに震えていた。
「……これは、“過去を映す鏡”ですね。使う人の強い記憶を映し出す」
「はい。もう長くしまっていたのですが、久しぶりに取り出したら、まるで嫌がられているようで……」
アレンは鏡に手をかざし、魔力の痕跡を探った。
内部の魔法回路は部分的に凍結しており、どうやら“持ち主の心”が何かを拒んだときに、鏡自体が反応してしまったようだ。
「鏡は、“見たくないもの”を拒むこともあります。……この鏡、あなたの記憶に傷ついています」
カーラはしばらく黙っていたが、やがて小さく口を開いた。
「昔……舞台で、大切な役を降ろされたのです。若い女優が台頭してきて、“私はもう十分だ”と……そう言われました。
その時、私……この鏡に向かって、ひどいことを言ってしまったのです。“全部、嘘だったのね”って」
アレンは鏡を抱え、静かに言った。
「じゃあ、今は、どう思いますか?」
「……そうですね。あの子は、きっと頑張っていた。私は……怖かったのです。“舞台に必要とされない自分”が」
アレンは作業机の前に鏡を置き、銀の縁を外し、鏡面の魔力層を調整していった。
曇りの原因となった負の感情の痕跡を慎重に拭い、魔力の流れを呼吸のように整える。
フィンはその作業を黙って見ていた。
彼の手元には、補助用の記憶転写水晶が控えている。
アレンは最後に、カーラにこう尋ねた。
「この鏡に、何を映したいですか?」
カーラは鏡の前に立ち、目を閉じて、そっと言った。
「……舞台の、あの最後の日を。ちゃんと、見たいのです。今の私で」
すると、鏡はふわりと揺れ、淡い光を映し出した。
そこには、舞台の上で微笑む若き日のカーラの姿と、彼女の演技を見つめる後輩女優の姿があった。
観客席のざわめき、拍手、そして――若い女優が舞台裏で小さく涙を拭っていた。
「……私、気づかなかった。あの子、私の芝居に涙してたんだ……」
鏡の映像がゆっくりと消える。
カーラは深く息を吐き、小さく微笑んだ。
「ありがとう……アレンさん。あの頃の自分に、やっと“よくやった”って言えそうです」
帰り際、彼女はそっとアレンに言った。
「この鏡、あの子に譲ろうと思いますの。今度は、彼女の“今”を映す道具に」
アレンは鏡を布に包みながら、静かに頷いた。
「鏡は、持ち主の心を映すもの。きっと、きれいに映ると思いますよ」
その夜、フィンはぽつりとつぶやいた。
「過去を映すって、怖いと思ってた。でも、見直せるのも、魔法道具の優しさなんだね」
アレンは片付けながら言った。
「魔法道具は、“記憶”も、“許し”も持っている。――人の代わりにね」
【魔法道具 修理いたします。映したいものを、もう一度見つめて】




