古本、修理? まぁ、頑張る
朝から雨だった。
濡れた石畳をすべるように霧が流れ、小さな店の看板を濡らしていく。
アレンは工房の中で、手を止めてぼんやりと外を見ていた。
こんな日は、あまり人も来ない。道具の整備も一段落ついていた。
「たまには、のんびりと……」
そう言いかけたところで、扉がきぃ、と重たい音を立てて開いた。
「おや、開いててよかった」
入ってきたのは、町の西のはずれにある古本屋の店主――ミレイだった。
彼女は黒縁眼鏡の奥で目を細めながら、大きな布包みを両腕で抱えていた。
「ちょっと……修理できるかどうか、見てほしくて」
「本か?」
「そう。まあ、“普通”の本じゃないけどね」
アレンはカウンター越しに包みを受け取った。
布をほどくと、そこには厚みのある革装丁の古い書物が三冊。
表紙は色あせてひび割れ、背表紙には小さな“魔封印”の焼き跡が残っていた。
「……かなり古いな。見たところ、魔法記録書?」
「正解。百年くらい前の、いわゆる“生きてる本”」
「生きてる?」
「うん。持ち主の思考を反映して、内容が少しずつ書き換わる本。研究者の記録用に作られたものだけど、最近、うちの店で急に暴れだしてね」
「本が、暴れた?」
「うん、文字が飛び出して逃げたり、棚から自分で落ちてきたり。なんとか封印はしたけど……放っておくと、また暴走する」
アレンは目を細め、書物の一冊をそっと開いた。
文字は見開きの右半分に集中しており、左ページは真っ白。
ただし、時折ページの隅で文字がもぞもぞと動いていた。
「……たしかに。これは“記録意識”がまだ残ってるな。持ち主の感情か、未完の思考が引っかかっているのかも」
「修理、できる?」
「……まあ、頑張るよ」
作業机の上に並べた三冊の本。
アレンは一冊ずつ、ページの間に指を滑らせて魔力の流れを確かめた。
一冊目は、薬草学の記録。どうやら、最後に書きかけの調合法が残っていたようで、ページのあちこちで「これで合ってたっけ?」「あと何滴だ?」といった走り書きが動いていた。
二冊目は、呪文構文の草稿。細かい図解が動いており、ページの切れ端には「このルーンは逆だったか?」という問いかけのような文字が浮かんだり消えたりしていた。
三冊目は――絵本だった。
「……絵本?」
「うん。たぶん、研究者が自分の子どもか孫のために書いたんだろうね。いちばん動きが激しいのが、それ」
ページを開くと、中には手描きの動物たちが描かれていた。
ウサギ、フクロウ、小さなドラゴン――どれも柔らかい線で、あたたかみのある色合いだった。
そして、それぞれの動物たちが、ページの中をうろうろと歩き回っていた。
「うわ、フクロウがページ外に出そうになってるぞ」
「紙の結界が弱くなっててね。油断すると“脱走”するの」
アレンはため息をつきながらも、細かい修復作業に取りかかった。
まずは“ページの安定化”から。紙の繊維を強化し、魔力の漏れを抑えるための補助線を一本ずつ引いていく。
次に、魔封文字を再設定し、感情記録を沈静化させる。最後に、各ページごとの記録構造を見直し、“未完の記憶”を仮保存状態に移行。
一冊ごとに、それぞれの性格があるようで、手こずった。
「こいつ、妙にツンツンしてるな……」
「それ、たぶん研究者が“自信過剰”だった本ね」
「で、こっちはやたら人懐っこい……こっちの本、アレンって名前覚えたみたいだけど」
「それ、絵本」
「……危うく、懐かれるところだった」
数時間の作業の末、本たちはおとなしくなった。
ページの文字は落ち着きを取り戻し、絵本の中の動物たちもそれぞれの場所で眠っていた。
「これで、もう暴れたりはしないと思うよ。ただ……この絵本、なんとなく、また誰かに読んでほしいみたいな気配がする」
「……誰かに?」
「うん。たぶん、最後まで書ききれなかった“気持ち”が、まだ残ってるんだと思う。子どもに、読まれるのを待ってる感じ」
ミレイは静かに本を包み直し、少しだけ笑った。
「じゃあ、店の“読み聞かせ会”で使わせてもらおうかな」
「子どもたち、喜ぶと思うよ。絵がとてもあったかいから」
雨はまだ止んでいなかった。
けれど、ミレイが店を出たあと、工房の中に残った余韻は、どこか晴れ間を感じさせた。
アレンはぽつりと呟いた。
「……本も、道具なんだな。読み終わるまでは、生き続けてる」
看板が、静かに風に揺れた。
【魔法道具 修理いたします。読みかけの気持ちも、閉じずにすみます】




