雨の日だけではない傘
しとしとと、静かに降り続く雨。
《風の手工房》の窓の外は、濡れた石畳が街路樹の緑を淡く映し出していた。
こんな天気の日は、訪れる客も少ない。
アレンはコーヒーを淹れて、古い帳簿を見返していた。
魔法道具の修理屋などという商売が、この町で成り立っているのは、半ば奇跡のようなものだった。
扉の鈴が、かすかに鳴る。
足音は小さく、まるで迷子の猫のようだった。
「こんにちは……」
そう言って入ってきたのは、小柄な少女だった。
年の頃は、十歳か十一歳くらいか。
水色のワンピースが雨で少し濡れていて、髪も肩に張りついていた。
両手で抱えていたのは、古びた折りたたみ傘。
「これ……修理できますか?」
アレンは椅子から立ち上がり、少女に近づいた。
傘は、骨がいくつか折れており、布地の端もほつれている。
金属部分は錆びかけていたが、大切に扱われてきた形跡があった。
「見せてくれるかい?」
少女はこくりと頷き、差し出した。
傘を開いた瞬間、工房の空気がふわっと変わった。
春のような、懐かしいような、やわらかな香りが漂った。
「……なるほど。これは“魔法傘”だな」
アレンは軽く笑みを浮かべた。
「けっこう古い構造だけど、良い品だよ。“気象共鳴式”かと思ったが……どうも違う。ちょっと珍しい」
少女は少しうつむき、ぽつりと言った。
「おばあちゃんのなんです。晴れてても、雨でも、いつもこの傘をさしてて……」
「晴れてるのに?」
「はい。理由は教えてくれなかったけど、でもずっと……どこに行くときも、一緒で」
「ふむ……それで、どうして修理に?」
少女は視線を落としたまま、唇をかすかに噛んだ。
「……おばあちゃん、亡くなって。ずっと片づけられなくて。でも、今日雨が降って……気づいたら、この傘を持ってて」
「……そっか」
アレンは静かに傘を回し、魔力の残響を感じ取った。
布地に染み込んだ魔法の波長は、とてもやわらかく、まるで誰かの“ぬくもり”のようだった。
「これは“天気を感じ取る傘”じゃない。“心の天気”に反応する傘だよ」
「心……?」
アレンはうなずいた。
「持ち主の気持ちに寄り添って、天候のように空気を変える。元気なときは雨を、落ち込んでいるときは晴れを――逆に、傘が周囲の空気を和らげてくれることもある。……おばあちゃん、すごい魔法使いだったんじゃないか?」
「……おばあちゃんは、“傘の人”って呼ばれてました。あちこち行って、話を聞いて、傘をさして、帰ってくるの」
「なるほど。“誰かの雨”を引き受けてたのかもしれないな」
アレンは修理台に傘を置き、一本ずつ丁寧に骨を整えはじめた。
布地は古かったが、特殊な撥水加工と、微弱な癒しの魔法が編み込まれていた。
「……この傘、おばあちゃんが君に渡すつもりだったんだと思う。少しずつ、君の魔力にも反応するようになってる」
「え……」
「だから今日、雨の日に自然と手に取った。それは、傘が“出番”だって伝えてきた証拠だよ」
少女の瞳が、ほんの少し潤んだ。
アレンはそれに気づかないふりをしながら、作業を続けた。
折れた骨は魔法樹脂で補強し、全体の構造を再調整。
内蔵された魔法回路も一本ずつ辿って、不安定な部分を修復していく。
「よし。あとは“最後の調整”だな」
「最後……?」
「持ち主の“願い”を一つだけ、傘に教えるんだ。それがあれば、この傘はきっと、これからの君の空を守ってくれる」
少女はしばらく考えてから、小さな声で言った。
「……“だれかの心が、やわらかくなりますように”。そんな傘になってほしいです」
アレンは満足げにうなずき、その願いを傘の核にやさしく染み込ませた。
修理が終わった傘を、少女は両手で受け取った。
もう一度そっと開くと、布地がふわりと広がり――静かな雨の音が、少し遠のいたように感じられた。
「……あったかいです」
「それは、きっと君の“今の気持ち”が、空に伝わったんだろう」
少女は小さく笑い、静かに傘を閉じた。
そして、深くお辞儀をしてから、外の雨のなかへと出ていった。
その背中は、小さな傘に包まれていたけれど――とても頼もしく見えた。
静かになった工房で、アレンはふぅ、と一息ついた。
「……傘ってのは、雨を防ぐだけのものじゃないんだな。“誰かの空を守る”ためのものでもある」
窓の外では、相変わらず静かに雨が降っていた。
けれど、ほんの一瞬、空の端が、少しだけ明るくなったような気がした。
風がそっと、看板を揺らす。
【魔法道具 修理いたします。雨の日も、晴れの日も、心に寄り添います】




