日常点検
朝の風がやわらかく流れ込む工房に、ゆったりとした時間が流れていた。
受付カウンターの奥では、ノア・ルーデンが小さくあくびをしながら帳簿をめくっている。
「ふぁ……んー……今日もいい天気ですねぇ……」
窓から差し込む陽光が、木の床に細い帯をつくっていた。
そこへ、奥からアレンがやって来る。肩には作業布、手には修理道具の入った箱を抱えている。
「おはよう、ノア。今日は受付を頼むよ」
「おはようございます、アレンさん! がんばります!」
ノアは背筋を伸ばし、少し眠たげな目をぱちりと開けた。
「今日の依頼は……えっと、午前中に箒のメンテナンスです。常用の飛行用で、点検と清掃、それから魔法石の確認をお願いしたいそうです」
「なるほど、定期点検だね。ちょうどいい、風も穏やかだし試運転もしやすい」
アレンは軽く頷くと、奥の作業場に顔を向けて声をかけた。
「ミラ、フィン、準備を頼む。今日は箒のメンテナンスだ」
「はいっ!」「了解です!」
元気な返事が二人から返る。
ノアは笑みを浮かべながら、カウンターに座り直した。
「今日もにぎやかになりそうですね」
「そうだな。風の手工房の朝は、いつもこんな感じさ」
外では小鳥がさえずり、通りにはパン屋の香ばしい匂いが流れてくる。
いつもと変わらない――けれど少しだけ特別な、風の手工房の一日が始まろうとしていた。
作業台の上に、一本の箒がそっと横たえられた。
常用とはいえ、空を飛ぶための精密な魔法道具だ。柄の部分には滑らかな魔力回路が彫り込まれ、先端には淡く輝く青色の魔法石が埋め込まれている。
「じゃあ、いつもどおり分担しよう」
アレンの言葉に、ミラとフィンが頷いた。
「はい! 私は回路の清掃をやります」
「僕は魔法石の状態確認と出力測定ですね」
「うん、いい判断だ。僕はバランス調整と全体の点検を受け持つ」
三人は慣れた手つきで工具を並べる。
ミラは柔らかい布と小型の風魔導具を手に取り、柄の魔力線を丁寧に吹き清めていった。
「埃が溜まると魔力の流れが鈍るんですってね。ほんと、細かいですね」
「そう。魔法道具は“通り道”を大事にするんだ」
アレンが笑いながら答え、回路の接合部を慎重に確認する。
フィンは机の反対側で、魔法石の輝きを観察していた。
「魔力反応は安定していますね。ただ、少し出力が右寄りです。偏りがあります」
「なるほど。使用者の癖が出てるのかもしれないな」
「乗るとき、右足で蹴り上げてるとか……?」
「それだな」
三人が同時に笑い、工房の空気がふっと和らいだ。
点検の合間、ミラは箒の柄を撫でながら小さく呟いた。
「こうして見ると、ただの箒じゃないですね……」
「そうだよ。飛行用の箒は“空を覚えている”」
アレンは接合部を締めながら言った。
「風の流れ、使用者の重心、飛び立つときの癖――全部、木が記憶しているんだ。だから調整も慎重にしないと」
ミラが手を止めて、箒の表面に浮かぶ細い紋様を見つめる。
そこにはかすかに、淡い光の筋が脈打つように流れていた。
「……回路の清掃、完了です!」
「魔法石も問題なしです!」
フィンが測定器を片付け、報告する。
アレンは軽く頷き、全体の仕上げに入った。
柄の中心に手を当て、魔力の流れを感じ取る。
呼吸を整え、ゆるやかに魔力を流すと――箒の内部を流れる光が、一本の糸のように滑らかに整っていく。
「うん、いい具合だ。これで点検は終わりだな」
アレンが手を離すと、箒の魔法石が静かに明滅した。
「じゃあ、最後に試し飛行をしましょうか」
ミラが嬉しそうに言うと、アレンが軽く笑う。
「焦らない焦らない。風がもう少し落ち着いてからだ。安全第一だからね」
工房の窓の外では、朝の風が少しずつ穏やかに変わっていった。
箒は再び空を飛ぶ準備を整え、静かにそのときを待っているようだった。
昼を少し過ぎたころ。
箒の試運転を終えたアレンたちは、工房の前の空き地に降り立った。
柔らかな風に乗って箒がすっと滑空し、軽やかに着地する。魔力の流れも安定しており、バランスも上々だった。
「よし、完璧だな。これなら持ち主も満足してくれるはずだ」
アレンが笑顔を見せると、ミラが嬉しそうに頷いた。
「うん、飛び心地も軽いし、反応もすごく素直でした!」
「さすがミラの清掃が行き届いてる。あとは納品前の記録だけだな」
アレンがそう言って工房に戻ろうとしたそのとき――
「アレンさんっ、大変です!」
受付の方からノアの慌てた声が響いた。
扉を勢いよく開けて顔を出したノアは、手に一通の書状を握っている。
「緊急依頼が入りました! 今、外に依頼主の方が……!」
「落ち着いて、何の依頼だ?」
「“魔法封印金庫の解除ができない”そうです。どうしても急ぎで見てほしいと……」
ノアが早口で説明する。
アレンはすぐに表情を引き締めた。
「封印金庫か……下手に触ると封印が暴発する。危険な類だな」
「どうしますか?」
フィンが問うと、アレンはうなずいて言った。
「対応しよう。箒の点検が終わったばかりで幸いだ。みんな、準備を」
三人はすぐに工房の作業机へ戻り、必要な道具を手に取った。
アレンは補助用の封印解除具を、フィンは解析用の魔力感知板を、ミラは魔法陣の記録帳を持つ。
ノアが案内すると、入口付近に小柄な男が立っていた。
「封印が……開かないんです。家の中に重要な書類が入っていて……どうか、お願いします!」
男の声は震えていた。
金庫の表面には、複雑な封印陣が重ねられ、中央の魔法石が鈍く光っている。
アレンは慎重に近づき、手をかざして魔力の流れを探る。
「……これはかなり古い形式だな。封印層が三重、しかも一つは“反転封陣”で組まれている」
「反転封陣って……?」とフィンが聞く。
「通常とは逆に、外側から力をかけると強化される仕組みだ。無理に開けようとすると暴走する」
アレンの声が低く響いた。
ミラは横で記録帳を開き、金庫の表面に浮かぶ紋様を写し取る。
「でも、魔法石の光が弱ってます。封印の維持力が落ちてるかも」
「その可能性は高いな。――よし、まずは封印を“なだめる”」
アレンは金庫の前にしゃがみ、淡く光る小型の魔法具を取り出した。
薄い青の光が金庫の表面をなぞり、わずかに震えが収まっていく。
「フィン、魔力波を読み取れ。ミラ、光の乱れを記録して」
「了解です!」
「はい!」
三人の呼吸が、工房の静けさの中でぴたりと揃う。
窓の外では、まだ風が吹いている。
だがその風さえ、今は封印の鼓動を見守るかのように――静かに沈んでいた。
金庫の封印は、長い沈黙ののち、ふっと息をつくように光を失った。
表面に刻まれていた魔法陣が消え、代わりに淡い蒼の光が金庫の縁を一周して――やがて静かに鎮まる。
「……解除、完了です」
ミラが安堵の笑みを浮かべると、フィンが息を吐いた。
「心臓に悪い仕事だな。反転封陣なんて久しぶりに見た」
「よくやった。三人の連携が完璧だった」
アレンが頷き、そっと金庫の蓋を開ける。中には書類の束が整然と収められていた。
「助かりました……本当に……」
依頼主の男が何度も頭を下げる。その姿を見て、ノアが嬉しそうに胸を張った。
「風の手工房に任せてよかったでしょ!」
外はすっかり夕暮れだった。
工房の窓から射し込む橙の光が、散らばった工具や巻物を優しく照らしている。
アレンは使い終えた道具をひとつずつ片づけながら、ふと小さくつぶやいた。
「……今日もよく働いたな」
「はいっ!」
ノアの明るい返事が響く。
夕風が通り抜け、看板の鎖をかすかに鳴らした。
その音が、一日の終わりを静かに告げていた。
【魔法の箒、修理いたします。日常点検も急遽の封印も。】




