保存魔法の込められたタンス
朝の光が「風の手工房」の窓をやわらかく照らしていた。
カウンターの上には、一見して古びた木製のタンスが鎮座している。
取っ手の金具は少しくすみ、木目の隙間には年輪のような魔力の筋が走っていた。
保存魔法を施されたこのタンスは、長年にわたり衣類や布類を湿気や虫食いから守ってきた――はずだった。
「……随分と古いですね」
ミラがそっと指で木の表面をなぞり、ふっと眉を下げる。
「保存魔法がまだうっすら残っています。けれど……木そのものが限界に近いかも」
アレンは頷きながら、側面の小さな穴を覗き込んだ。
「虫穴だな。こいつが魔力の流れを乱してる。
放っておくと保存層ごと崩れるかもしれん。修理して正解だ」
その隣で、フィンが袖をまくり、道具を並べていく。
若いながらも手際は良く、すでにアレンの助手として頼もしい存在だった。
「師匠――じゃなかった、アレンさん。木の詰め物はいつもの樹脂混合でいいですか?」
「そうだな。ただし、今回は保存魔力を扱う。
ミラ、魔力の偏りを感知して、安定域を見つけてくれ」
「はい、任せてください」
三人はそれぞれの位置についた。
工房に漂う木の香りが、ほのかに懐かしさを誘う。
虫食い穴は思いのほか深く、タンスの内部構造にまで及んでいた。
しかし、アレンの目には“修理のしがい”という光が宿っている。
木片の音、研磨の音、微かな符の輝き。
風の手工房の中では、いつも通りの静かな時間が流れていた。
けれど、その静けさの中には、言葉にならない集中と信頼がある。
「……ミラさん、ここの魔力、ちょっと濃くない?」
フィンが慎重に木を削りながら尋ねる。
「ええ。保存魔法の余波ですね。
物の“記憶”が濃く残っているみたい。ほら、木がまだ使われていた頃の気配……」
ミラの声は柔らかく、まるでタンスに話しかけるようだった。
彼女の指先から伝わる微かな魔力が、古い家具に眠る残響を撫でていく。
アレンはそんな二人を横目で見ながら、静かに笑った。
「物には、持ち主の手の温もりが染み込むもんだ。
保存魔法ってのは、実は“想い”を閉じ込める魔法でもある。
このタンスも、ずっと誰かを守ってきたんだろうな」
ミラが頷く。
「だからこそ、壊れてもちゃんと直してあげたいですね」
その言葉に、フィンも笑みを浮かべる。
「うん。新しいのに買い替えるより、直したほうが絶対いい」
三人の手が、同じ一点に向かって動く。
古い木材が少しずつ削られ、樹脂が練られ、魔力が馴染んでいく。
静かな工房の空気は、まるで過去と現在が重なっていくようだった。
――今日もまた、ひとつの物語が修理台の上で始まろうとしている。
作業台の上では、アレンの手元で淡い光が広がっていた。
符を一枚、また一枚と重ね、木の表面に描かれるのは保存魔法の補助陣。
古い魔力の筋をなぞるように、慎重に線を結び合わせていく。
それは、まるで過去の記憶をひと筆ずつ呼び戻すような作業だった。
「この層、まだ生きてるな」
アレンは低く呟き、符をわずかに動かした。
魔力の流れがほとんど見えないほど微弱で、わずかな狂いでも全体が崩れる。
「ミラ、ここの魔力、少し脈が速い。流れを半分に落とせるか?」
「はい、今、制御を合わせます」
ミラが指先で空中に印を結び、微かな風のような魔力を送り込む。
古い魔法陣の脈動が、次第に落ち着いていく。
タンスの内部で、長い間眠っていた“保存の心臓”が、少しずつ目を覚まし始めていた。
フィンはその様子を見つめながら、樹脂の詰め物をこねていた。
淡い香木粉を混ぜ込み、削った木片を慎重に加える。
その手の動きは、もう立派な職人のそれだった。
「アレンさん、詰め物できました」
「よし、魔力層の再生が安定したら頼む。……ミラ、どうだ?」
「もう少し……はい、今なら大丈夫です」
アレンが頷き、フィンに合図を送る。
木片の奥へ詰め物を流し込み、細いヘラで隙間を丁寧に埋めていく。
木目を合わせるように、呼吸を整えながら――。
それは単なる修理ではなく、“魔力と木を再び友にする”作業だった。
工房の空気がしんと静まる。
風の音すら遠のき、三人の息遣いだけが響く。
やがて、ミラの手元からほのかな青白い光が溢れた。
それは保存魔法の“記憶層”が再結合を始めた証。
「……すごい。こんな古い魔法がまだ息づいてるなんて」
ミラが思わず息をのむ。
アレンは穏やかに笑って頷いた。
「道具ってのは、作った人の想いを長く覚えてるもんだ。
たとえ壊れても、完全には消えない。手を貸してやれば、また動き出す」
フィンも頬を緩めた。
「なんか……生きてるみたいですね、このタンス」
「そうだな。物にも、心の居場所がある。
だから俺たちは、それを探して“直す”んだ」
その言葉に、ミラが少しだけ目を細めた。
アレンの口調には、いつも穏やかで、それでいて確かな芯がある。
彼がこの工房を“風の手”と名付けた理由――
それは、ただ壊れたものを修理するためではなく、
失われかけた想いに、再び息を吹き込むためなのだろう。
魔法陣の光が落ち着き、詰め物が木と一体化する。
表面をなぞると、もう虫穴の跡はほとんどわからない。
ただ、ほんのりと温かい気配だけが残っていた。
「……これで基礎修理は完了。
あとは保存層を再構築して、魔力の流れを安定させれば終わりだな」
アレンが手を離すと、工房の空気が少しゆるむ。
フィンが息を吐き、ミラが袖で額の汗を拭った。
しかし、静かな安堵の中で、タンスの奥からかすかな“異音”がした。
コトン――と木の鳴る音。
それは、ただの木の軋みではなかった。
魔力が、まだ何かを訴えかけているような、そんな響きだった。
――コトン。
静まり返った工房の中で、また小さな音がした。
誰も動いていない。魔法陣も安定している。だが確かに、タンスの奥から何かが“呼吸”するような気配があった。
アレンはしばらく耳を澄ませ、それから指先で木の表面を軽く叩いた。
その下で、ほんのわずかに魔力が揺れる。まるで、古い魔法がまだ自分の役目を果たそうとするかのように。
「……保存層の一部が、独立して動いてるな」
アレンのつぶやきに、ミラが不安そうに覗き込んだ。
「暴走、ですか?」
「いや、違う。多分――“守ろう”としてるんだ」
タンスの奥から再び、かすかな脈動が伝わってくる。
それは脅威ではなく、むしろ切実な訴えのようだった。
ミラが魔力視を展開し、青白い光の糸を追う。
「……見えます。保存魔法の記憶核。中心に何か……」
「多分、持ち主の“想い”が残ってる」
アレンが頷き、ゆっくりと手をかざした。
光が再び広がる。
魔法陣の紋様が淡く滲み、タンスの表面にかつて刻まれた小さな紋章が浮かび上がった。
それは、幼い文字で描かれた名前。――“エリナ”。
フィンが息をのんだ。
「……子どもの字だ」
「多分、このタンスの持ち主だろう」
アレンの声はどこか優しかった。
「保存魔法は、想いを留める魔法でもある。
物を守るだけじゃない。その人の“願い”を一緒に閉じ込めることがあるんだ」
タンスの中に眠っていたのは、失われた時間ではなく、
誰かが“忘れたくなかった気持ち”そのものだった。
ミラがそっと呟く。
「……直すだけじゃ、終わらないんですね」
「そうだ。直して、想いも少しだけ“ほぐす”んだ」
アレンは微笑み、掌の下で淡く光る木面を撫でた。
その瞬間、タンスの軋みは静かに止み、工房を包む空気がやわらかくなった。
タンスの木肌は、しっとりと落ち着いた色を取り戻していた。
修復の跡はどこにも見えず、ただ長い時間を経た木の温もりだけが残っている。
魔法陣の光がすっと収まり、空気に柔らかな静けさが戻った。
「……これで完了だ」
アレンは符を外しながら小さく息をついた。
木目をなぞると、そこにはかすかな脈動があった――まるで心臓がゆっくり鼓動しているかのように。
フィンが顔を近づけ、そっと呟く。
「なんか、前より“生きてる”感じがしますね」
アレンは口元を緩めた。
「きっと、ようやく安心したんだろう。……持ち主の想いを、守り抜けたからな」
ミラもその言葉に静かに頷いた。
「保存魔法って、すごいですね。ただ壊れないようにするだけじゃなくて……」
「“忘れない”ための魔法でもあるんだ」
アレンは工具を片づけながら言った。
「それを込めた人の、想いや祈りを残していく。
だから俺たちは、ただ直すだけじゃなく、もう一度“思い出させてやる”んだ」
タンスの木面を照らす午後の光が、どこか懐かしい。
それは、かつてここに衣をしまい、日々を重ねた誰かの温もりが、いまも息づいている証のようだった。
ミラが微笑んだ。
「また、大切に使われるといいですね」
「ああ、きっとそうなるさ」
アレンは道具を手に、静かに頷いた。
風の手工房の窓から、柔らかな風が差し込む。
木の香りとともに、古い魔法の余韻が、まだほんのりと漂っていた。
――壊れたものに手を差し伸べ、眠っていた想いをもう一度目覚めさせる。
それが、修理師の仕事なのだ。
【魔法の箒、修理いたします。想いを宿す木の記憶】




