第七章:黒服の男
この時間だけは、守りたい。
迫りくる不穏な現実と、このかけがえのない日常。
花火の光の中で、健一は、自分がこの二人と共に、この時間をどれだけ大切に思っているか、改めて痛感していた。
それは、やがて彼らが直面する大きな困難と、そして来るべき別れの日を予感させる、切なくも美しい光景だった。
澱んだ空気。
剥き出しのコンクリート壁。
地下深くにあるその一室は、どこからも光が入らず、冷たい静寂に包まれていた。
机の上には、複数のモニターが並び、そこには都市の様々な場所の映像が映し出されている。
行き交う空飛ぶバイク、雑踏、そして、煌々と光る街のネオンサイン。
しかし、その映像の端には、時折、人間の目には捉えられないような、
微細な空間の歪みや、未知のエネルギー反応を示すグラフが表示されている。
部屋の中央には、一人の男が立っていた。
身長175センチを超えるだろうか。
鍛え抜かれた体は、黒いタイトなスーツに包まれても、その筋肉の隆起がはっきりと見て取れる。
そして、頭部には一切の髪がなく、光沢を放つスキンヘッドが、部屋の薄暗い照明を反射していた。
彼の顔には表情がなく、ただ真っ直ぐにモニターを見つめている。
男の名前は、岩崎剛。
三十代。
彼は、この世界の裏側で暗躍する秘密組織、『ヴェール』に所属している。
岩崎は寡黙だった。
必要最低限の言葉しか口にしない。
しかし、彼の全身からは、常人離れした訓練によって培われたであろう、張り詰めた緊張感と、任務遂行への強固な意思が滲み出ていた。
その体躯は、数々の特殊任務をこなしてきた証であり、彼のスキンヘッドは、ある任務での負傷によるものだった。
『ヴェール』には、二つの大きな派閥があった。
一つは、今や都市の基盤にまで組み込まれている魔法技術を危険視し、それを完全に排除しようとする『浄化派』。
そしてもう一つは、魔法技術を管理・利用し、現状の支配構造を維持しようとする『支配派』だ。
岩崎が身を置いているのは、『浄化派』だった。
彼ら『浄化派』は、魔法陣の「真の正体」を知っていた。
それは、単なる便利な技術などではない。
この世界とは異なる次元からエネルギーを引き出し、現実に干渉する、極めて不安定で危険なシステム。
過去には、その制御に失敗し、想像もできないような大災害を引き起こしたこともあったという。
彼らは、そんな危険なものがこの世に存在すること自体を許せなかった。
だからこそ、魔法陣、そしてそれに関わる全てのものを消滅させるために活動していた。
しかし、街を制御する根幹システム、いわゆる「コア」は、まさにその魔法陣技術の上に成り立っていた。
そして、そのコアシステムを管理し、実質的にこの世界を裏側から支配しているのが、『ヴェール』のもう一つの派閥、『支配派』だった。
彼らは、魔法陣の危険性を知りつつも、その絶大な力を手放すことができず、秘密裏に管理・運用していたのだ。
岩崎たち『浄化派』にとって、彼らは最大の敵だった。
「目標、指定エリアに進入。コード:ピーコック・フェザー」
モニターの一つに映し出された映像に、指示を出す声が響く。
声の主は、部屋の隅に置かれた通信機から聞こえてくる。
岩崎は無言で頷き、端末を操作した。
「コード:アンダーグラウンド。動きあり」
通信機から、再び声が聞こえる。モニターの一つに、見慣れた男の顔が映し出された。
田中健一。
彼が深夜、データ入力しているシステム。
それは、『支配派』が管理するコアシステムの一部であり、そして、彼が入力しているデータこそが、「アンダーグラウンドコード」と呼ばれる、魔法陣の運用に関わる極秘データだった。
岩崎は、田中の顔を見つめた。
この平凡そうな男が、知らず知らずのうちに、この世界の最も危険な秘密の一端に触れてしまっている。
そして、彼をマークしているのは、『支配派』の人間たちだ。
岩崎たち『浄化派』もまた、「アンダーグラウンドコード」の動きを監視しており、それを巡る両派閥の争いは、水面下で激しさを増していた。
「目標、現在地より離脱中。接触の兆候なし」
報告が入る。岩崎は無言で端末の画面を閉じた。
「…見つける」
岩崎は、誰にともなく、しかし確固たる決意を込めて呟いた。
「奴らが隠している、全ての『コード』を…」
彼の任務は、『支配派』が管理する「アンダーグラウンドコード」の全てを把握し、その危険性を世に知らしめ、そして最終的には、この街のコアシステムを破壊することだった。
それは、世界の安定を揺るがしかねない、極めて危険な行為だった。
しかし、彼にとっては、世界の破滅を防ぐための、唯一の方法だったのだ。