伍 遁走
◆20:00頃投稿していきます。
遅くなりました!
雉姫を加えた一行は、ワシウの町を逃げ走った。
「エンキ殿……シロを頼む。私は雉姫を連れて行く」
ヒナは声を漏らして泣いた。無力さを嘆いた。
ウルシの血で真赤に染まった自分がひどく穢らわしい。
唇を拭っても、あの乱暴なくちづけが何度も、何度も何度も思い出される。
それでも……今は今できることを、今やらねばならないことをするのだ。
ヒナは自分に言い聞かせた。
依然豪雨は続いている。
耳元で、ヒナに背に担がれた雉姫の苦しそうな吐息がきこえる。
「山のふもと、柳の木……家……」
一行は雉姫の話を頼りに雨の夜を駆けた。
柳の下には家があった。雉姫の話していた家だろうか。
「ごめんください!あの、怪我人がいるんです!」
民家はそこらじゅう朽ち果てていて、とても人の気配などしない。
場所を確かめても、雉姫はここだと頷くばかり。
「ごめんくださーい!」
すると、部屋の奥から物音と大きな声がした。
「うるさいねえ!一体何時だと思ってるんだい!」
出てきたのは、腰の曲がった怪しいなりの老婆だった。
老婆はヒナに背負われた雉姫を見るなり、目を丸くして言った。
「なんだい、おまえかい。
コラ、いつまでもおなごにひっついてて情けない。
……もうひとりの彼はそこに寝せな、いま診てやる」
背中の後ろから、かすかにクソババアと聞こえた……気がした。
老婆は二人の治療を済ませると、着替えを用意してくれた。
「うちのバカがすまなかったね。
しばらくうちで休んでいくといい」
「ありがとうございます……。あの、二人の容態は?」
「バカは命に別状ないよ。むしろいい薬さ。
もう一人は……呪詛の類か相当衰弱しているね。
もどかしいかもしれないが、様子をみてやることしかできないよ」
「そうですか。ところで……」
「ああ、“アマハ”のことかい?」
ヒナが“雉姫”ことアマハに会ってからのことを話すと、老婆は横たわる彼を見て言った。
「あいつはまた、仇を討てなかったんだね」
三日後。しきりに降り続いた雨が、ようやく止んだ。
アマハは井戸の傍らで包帯を取り換えていた。
手に持っているのは焼酎だろうか。
顔をしかめながら、傷口を洗っている。
「大丈夫か?」
ヒナは縁側から恐る恐る声をかけてみる。
アマハはこちらを見ない。
「なわけないだろ」
雑な返事だけして、持っている焼酎を勢いよく飲み乾す。
その刹那、どこからともなく現れた老婆がアマハの頭めがけてげんこつを繰り出した。
アマハは殴打の衝撃で喉を詰まらせ、酒を噴き出し咽ていた。
「なにしやがんだクソババア!こちとら怪我人だぞ!」
「他人を巻き込んでうまくいかなかったらその態度とは呆れるね!」
「うるせえ!……どんな手を使っても、おれはミソラを助け出すんだ」
アマハは取り憑かれたように妹ミソラの名を口にしていた。
「アマハ、君にもおばあさんにも世話になった。
私たちもミソラさんのために、力を貸すから……」
ね、と部屋の中のエンキに同意を求める。
「そうだアマハ殿。奴らはただ者ではない。
お主ひとり行ったところで、返り討ちが関の山だ」
「あんたら馬鹿か?おれはあんたらを利用したんだぞ?
おれなんて見捨てて逃げればよかったのに、なのに……どうして……」
「妹さんへの思いに偽りがない限り、私は君を信じるよ。
でも無茶はしてほしくない。まずは君が元気にならないと。
それから一緒にミソラさんを助けに行こう」
アマハは頭をさすりながら、口をへの字に曲げて頷いた。
久しぶりの快晴だ。
老婆に洗濯してもらったヒナの服は元通り以上にきれいになった。
アマハは変に短くなってしまった黒髪を柊飾りの簪で纏め、
重い着物から緑青色のさっぱりとした着物に着替えた。
瑠璃色の襟巻を首に巻き、大きめの三度笠を被る。
「まさか君が男だったとは……綺麗なことに変わりはないけれど。
ええっと、なんだったか……そう、“いけめん”だ」
ヒナは照れくさそうに笑う。
アマハは「どうだか」と首をかしげた。
談笑の中ちらりとシロの方を見やるが、起きあがる様子はない。
ヒナが心配そうに名を呼ぶも、返事はおろか手を握り返すこともなかった。
「どうして鬼は、人を襲うのだろう」
ヒナが呟くと、ぶらぶらの右腕を左手で引きずり出しながらエンキが言った。
「ヒトは、赦されざる罪を犯したからだ。
そして、我が故郷こそその大罪の元凶である」
小手と手袋を、ゆっくりと外してゆく。
それを目にしたヒナとアマハは言葉を失った。
この世のものとは思えない、おぞましい物体がそこにあったのだ。
「人は鬼の強さを思うままにしようと、数多の鬼を犠牲に研究を重ねてきた。
その結果生まれた兵器こそ、この右腕のような“武鬼”である。
その後武鬼の研究をしていた我が故郷は、鬼たちの襲撃を受けた。
しかし我は力をこの身に宿し鬼と戦っている……おかしな話よ」
すると老婆が何かを差し出す。地図の描かれた紙だ。
地図を見て、エンキは思わず持っていた小手を落とした。
そこはヒトと鬼との隔たりを生んだ……罪の歴史を抱く場所。
「蔑称“楽園”。
ここにいる研究者なら、港町のわからず屋どもよりはなにかの助けになるだろう」
「しかしおばば殿、村は鬼の襲撃でとっくに壊滅している。
我はあの日、この目ではっきりと見たのだ。
あの場所にはもう、力を貸してくれるような人は残っていない……」
「確かに、“人”はね」
あばら家の老婆
アマハの素性を知っている人物。
鬼たちの過去にも詳しい。