序章: 無名の男
東京の下町。昭和の面影をわずかに残す古びた商店街を抜けた先に、杉本一郎の家はあった。壁のペンキは剥がれ、雨漏りの跡が残る木造アパートの一室。彼の父、杉本茂は近所の町工場で旋盤工として働いていたが、過労と腰痛で長期休職中だった。母の春子は内職で家計を支えながら、薄いカーテン越しに微かに聞こえる隣人のテレビの音に耳を塞ぐようにミシンを踏んでいた。
一郎はその環境の中、何もない日常に埋もれて生きていた。高校を卒業してからは地元の物流会社で倉庫作業員として働き始めたが、毎日繰り返される単調な仕事は彼を蝕み、家と職場を往復するだけの日々が、彼の青春の全てだった。
「金さえあれば、こんな生活は終わるんだ」
一郎の胸の中に、この言葉が根付いたのは、幼少期の出来事がきっかけだった。小学校の遠足で、彼は同級生たちが持っていた新品のリュックを羨ましく思った。自分が使っていたのは、古着屋で買ったものだった。肩紐のところがすり切れていて、友達に笑われた。そのとき、母が言った。
「ごめんね、一郎。もう少し待ってね。お金があったら新しいの買ってあげるから」
だが、新しいリュックが買われることはなかった。家の中ではいつも「金がない」が合言葉のように飛び交っていた。そんな日々の中で、一郎は密かに誓ったのだ。いつか、自分の力でこの境遇を変えてやる、と。