23 光4
びしょ濡れの3人を、アンナとハナが慌てて別荘に連れ帰った。3人とも順番にアンナが用意した風呂に入り、ハナが用意した着替えに着替えた。
ハナの夫が用意した暖炉の前で、リリーとシリウスは体を温めた。ハナが温かい紅茶を2人に渡した。2人は礼を言うとそれを飲んだ。体がじんわり温かくなり、心が安堵していくのをリリーは感じた。
アンナは全員の着替えが落ち着くと、リリーのそばで声を上げて泣き出した。
「なんてこと…湖に飛び込むなんて……シリウス様が来ていなかったら今頃どうなってたか…」
「…アンナ、ごめんなさい…。私…あなたにこれまであんなにお世話になったのに、裏切るようなこと…」
「違うんです、お嬢様がこれほどまでに追い詰めてられていたんだって、そんなお気持ちに気がつけなかったんだって思ったら、私…」
ううう、と泣き崩れるアンナ。リリーはアンナに近づき、彼女の背中を撫でた。そして涙ながらに、ごめんなさい、と謝った。
ハナは小さく微笑むと、リリーとアンナの側に近づいた。
「お嬢様、こうしてお嬢様のことを思って泣く人間がここにいるんです。私もですし、夫もです。それをどうか忘れないでください」
ハナは優しくリリーにそういった。リリーはそんな彼女の言葉に目を丸くする。社会的に殺されてしまった今、自分のことをそんなふうに思ってくれる人なんていないと思い込んでいたからである。リリーはまた目を伏せて、ありがとう、と声を絞り出した。
すると、ハナの夫が勢いよく両手を叩いた。
「さっ、無事だったんだから何も言うことはねえ!さあさあ、今日は大漁だったんだ!飯にしましょう!」
「そうねえ。でも、思ったより大人数になってしまったから、人を泊めるベッドの準備がないわ」
ハナが困ったように腕を組んだ。ハナの夫が、そうか?と首を傾げた。
「これくらいなら足りてるだろ?」
「もう1名いるのよ。ずっと部屋で寝てるけれど。馬車の運転手さんらしいわ」
「それと、俺の家の馬車の運転手もいます」
シリウスの言葉に、なら足りねえか、とハナの夫がつぶやく。しかしすぐに、なら、とハナの夫が声を出した。
「なら、テラー子爵家に行けばいいんじゃねえか?ここからなら、夜にはつける。馬車もあるんだろ?」
「あら、そうしましょうか」
「えっ、でも、いきなり押しかけたら迷惑なんじゃ…」
「迷惑なんて、旦那様は思わないわ」
「そうそう。…それにずっと、お嬢様のことで胸を痛めていらしたから、婚約者がいるのなら、1秒でも早くお伝えしたい。きっとおよろこびになる!」
そうと決まれば、運転手を起こしてくる!と言って、ハナの夫が走って行ってしまった。
「(ど、どうしよう、叔父様と叔母様にどんな顔をして会えば…)」
リリーが不安そうに眉を下げると、そんなリリーの手にシリウスの手が重なった。リリーが顔を上げると、隣にいたシリウスが、大丈夫だ、と言った。
「テラー子爵ならきっと、君に会いたいはずだ」
「…シリウス…」
「ほらほら起きろ!馬車を出してくれ!」
ハナの夫に押されながら、眠そうに目をこする運転手がやってきた。状況を飲み込めない運転手だったが、今からテラー子爵の家まで連れて行かなくてはいけないことを知り、あからさまに嫌そうな顔をした。しかし、ハナの夫の覇気には逆らえず、運転手はすごすごと馬車の準備をしに向かった。
「…そういえば、シリウスのお父様はどうされているの?エドモンド家に向かってたんじゃ…」
リリーは、自分が逃亡したせいで無駄足を踏ませてしまったワグナー男爵のことを思い、顔が青くなった。するとシリウスが、それなら大丈夫だ、と言った。
「エドモンド家についたとき、君が行方不明だって話を聞いて、今日のところはとりあえず帰ってくれ、って話になったから」
「そ、そうなのね、…本当に、無駄足を踏ませて、ワグナー男爵に謝らないと…」
「多分、そこについては何も思ってないと思う。君が元気な顔を見せれば、それで安心するよ。そういう人なんだ、父さんは」
リリーは、幼い頃に見たワグナー男爵の優しい笑顔を思い出す。そして、目を伏せて、ちゃんと謝らないと、ともう一度つぶやいた。
運転手の、準備ができました、という声で、リリーたちはテラー子爵の家へと向かうことになった。
テラー子爵家の別荘を出て、テラー子爵家にリリーたちが到着したのは、もう夕ご飯の時間はすっかり過ぎた頃だった。
久しぶりのテラー子爵家に、リリーはひどく緊張をした。ハナは別荘での留守番があり、彼女のかわりにハナの夫が一緒についてきたので、彼が先導を切ってテラー子爵家を案内してくれた。ハナの夫が使用人に理由を説明すると、使用人たちはリリーの姿を見て大変驚き、それから大慌てでテラー子爵を呼びに行った。リリーたちは応接室に通された。椅子に座って待っていると、
しばらく待っていると、慌ただしい足音が廊下から聞こえてきて、そのあと扉が開いた。そこから顔をのぞかせたのは、叔父とその夫人である叔母だった。2人はリリーの元へ近づいた。リリーは椅子から立ち上がり、2人の方を見た。
「り、リリー…」
「…叔父様、叔母様、私、…」
何か言いかけたリリーのことを、叔母が抱きしめた。その上からさらに、叔父が抱きしめた。叔父は何度もリリーの頭をなでると、ゆっくり口を開いた。
「もう何にも言わなくていい。よく私たちのところに来てくれた。ありがとう、ありがとうリリー」
「叔父様…」
「さあ、今日はもう遅いから、部屋でお休みなさい。みなさんもさあ」
叔母が、周りの人間にもそう促す。叔父も、リリー以外の人間に目を向ける。すると、その中からシリウスを見つけると、あれっ、と声を漏らした。
「も、もしかして君、シリウスかな?ワグナー男爵家の…昔リリーと仲良くしていた…」
「はい、お久しぶりです」
「ええと、どうして君がここに?」
「どうして、…」
シリウスは、どこからどうやって説明したらいいものかと困惑する。リリーも説明に困り少し固まる。するとハナの夫が、明るい笑い声を上げながら、いや旦那様聞いてください、と話し始めた。
「2人、ご結婚されるそうです!」
「えっ?」
「け、結婚?」
叔父夫妻の目が驚きで丸くなる。2人は驚きと喜びが隠せない顔で、リリーとシリウスを交互に見つめる。
「聞きたいことがたくさんありすぎて、今から君たちを部屋で休ませてあげられなくなってしまったよ」
叔父が、喜びに震えながらそう笑う。そんな叔父に、目に涙を浮かべながら笑う叔母が、だめですよ、休ませてあげないと、と叔父に告げる。リリーとシリウスはそんな2人に、お互い目を合わせたあと、ゆっくり笑った。
別荘から移動してきた一行は、それぞれ用意された部屋へ向かった。リリーは、昔の自分の部屋へ通された。アンナに泊まる用意をしてもらっている間、部屋に夕食が運ばれてきた。それをアンナと食べたあと、寝る準備を始めた。
寝る準備が整うと、ベッドに入ったリリーを置いて、アンナが部屋から去ろうとした。リリーはそんなアンナを呼び止める。
「どうかされましたか?」
「…ごめんなさい、それと、ありがとう…」
そう伝えるリリーに、アンナは微笑み、今日はお疲れになったでしょうから、早くおやすみくださいませ、と言って部屋から出ていった。リリーは暗くなった部屋を見渡した。リリーが出ていった直後のまま、部屋は変わっていなかった。懐かしい気持ちと、切ない気持ちが沸き上がる。
「(…お父様は、エドモンド侯爵は今頃怒髪天かしら)」
リリーは、自分を常に疎ましそうにしている彼のことを思い出す。やっと嫁に行くと思っていた娘が、当日自分の使うはずの馬車に乗って逃亡してしまうなんて。あんなに見下していたワグナー男爵家にも借りを作ってしまって、彼のプライドはズタズタだろう。
「(…何を言われても、受け入れるしかない。すべては私の招いたこと)」
リリーは、そう思いながら、ゆっくりと目を閉じた。もう寝てしまおうと思っても、なかなか寝付けなかった。
翌朝、リリーは叔父の家の使用人に案内されて、食堂へ向かった。そこには、叔父夫婦とシリウスが席についていた。アンナは、この家の使用人たちといっしょに朝食の準備をしている。
「おはようございます」
「おはようリリー。よく眠れたかな」
シリウスの隣の席に着きながら、リリーは、はい、と嘘をついた。すると叔母が笑って、クマができているわ、とリリーに言ったので、リリーは苦笑いをするしかなかった。
すると、使用人が慌てて叔父の元へやってきた。叔父は使用人からの報告を聞くと、えっ、と声を漏らした。
「エドモンド侯爵がもうお見えなのか?」
叔父の言葉に、リリーはびくりと肩を震わせる。
「昨日、夜中使いの者をエドモンド侯爵家に送ったんだ。リリーのことは心配しなくていいって。…知らせを聞いてすぐに出発したんだな」
「ずいぶん急ね…」
叔母は頬に手を当てる。叔父は、お通ししなさい、と使用人に伝える。
リリーは緊張しながら固まっていた。するとすぐに、慌てた足音が聞こえてきて、エドモンド侯爵と母がやってきた。エドモンド侯爵はリリーを見つけると鬼のような形相で睨みつけた。そのあと、エドモンド侯爵は叔父にむかって、極めて穏やかな声で話しかけた。
「私の娘が大変失礼致しました。テラー子爵に多大なご迷惑をおかけいたしましたことを謝罪致します」
「いえ、そんなことは構いませんよ。エドモンド侯爵もよろしければ朝食をお召し上がりください。ほら、サリナも」
叔父はそう言って、母の方を見る。エドモンド侯爵は、そういうわけにはいきません、と言うと、リリーの方に近づいた。
「…ほら、とっとと帰るぞ」
エドモンド侯爵はそういうと、乱暴にリリー肩を掴み立ち上がらせた。エドモンド侯爵のすぐ後ろにいた母は慌ててエドモンド侯爵の手をリリーから払い、自分でリリーの両肩を抱いてリリーを支えた。エドモンド侯爵はリリーに近づくと、ゆっくりと小さな声で囁いた。
「もう二度と、二度とあの部屋から出るな。これ以上家を貶めるな」
エドモンド侯爵はそういうと、シリウスの方を見た。そして、不自然な笑顔を無理やり作った。
「…これはワグナー男爵のご子息。この度は私の娘が大変な失礼をいたしました。もう二度と、このおかしな娘は外に出しません。どうかご容赦ください」
「…お父様、私、シリウスと結婚するのでは…」
リリーの言葉に、とうとうエドモンド侯爵は他の人間がいる前でリリーに声を荒げた。
「何を寝ぼけたことを言っているんだ!こんなことをしておいて、そんなこと通るわけがないだろう!お前のようなゴミみたいな女を引き取ってもらえるはずだったのに、これで台無しだ!」
とっとと帰るぞ!とリリーの肩を乱暴にエドモンド侯爵は引っ張った。その時、シリウスが立ち上がり、エドモンド侯爵の手をリリーから離した。エドモンド侯爵が、シリウスの方を見た。エドモンド侯爵は、自分がひどく乱暴な姿を他人に見せてしまったことに気が付き、作りたてた笑顔を見せた。
「…皆様の前で失礼をいたしました。最後の最後までお見苦しいところを、」
「俺は今も、彼女と結婚するつもりです」
シリウスはまっすぐにエドモンド侯爵に、そう告げる。エドモンド侯爵は、はあ?と声を裏返させる。
「…本当に君はおかしなことを…。この女の今回の頭のおかしな行動をみただろう?社交界での言われようは知らないわけではないだろう?こんな女引き取ってどうする?唯一の取り柄の見た目ですら、今はこんなに醜くなってしまっているんだぞ?…ああいや、引き取っていただけるのなら、こちらが言うことなんて何もないけれど」
「彼女を引き取るのではありません。俺は、彼女のことを愛していて、一緒に生きていきたいから結婚を申し込んだのです」
シリウスがエドモンド侯爵の目を見つめながら、真剣にそう告げた。そんなシリウスを、エドモンド侯爵は鼻で笑う。そして、くくくと嘲笑しながらも、失礼、と言った。
「あんまりにも馬鹿馬鹿しくて、ああいえ、もう何もいいません。娘を頼みましたよ、ワグナー男爵家のご子息様」
「…お父様には、一生理解のできないことです」
リリーは、エドモンド侯爵に向けてそういった。エドモンド侯爵は眉をひそめて、なに?とリリーを睨みつけた。リリーは怖気づかずにエドモンド侯爵を見つめる。
「お父様のような人には、きっと推し量れないことです。理解していただかなくて結構です」
リリーはまっすぐに見つめながらそう彼に伝える。エドモンド侯爵はリリーの言葉に、なんだその馬鹿にした態度は、とリリーを睨みつけた。
「…お前、…アリサが言うから我慢してきたが、もう許さん。お前なんかもう娘ではない。勘当だ!もう二度と!家の敷居をまたぐな!!」
激昂したエドモンド侯爵は、荒い歩調で出口の方へ向かった。そして、母に、おい!と呼びつけた。
「とっとと帰るぞ!」
「…いいえ、帰りません」
母は、エドモンド侯爵に毅然とした態度で告げる。エドモンド侯爵は、はあ?とまた声を裏返させる。
「何をわけの分からんことを言っているんだ!」
「アリサもお嫁に行ってしまった今、リリーのいないあの家に、帰る理由がありませんから。あなたとはもう一緒に生きられません。私と今ここで、離縁してください」
妻の言葉に、エドモンド侯爵は数度口を開いては止めたあと、もう勝手にしろ!と怒鳴りつけると、この部屋から出ていってしまった。騒ぎに気がついた、別室で朝食をとっていた運転手がこちらに来ると、慌ててエドモンド侯爵の後を追いかけていった。
母は、はあ、とため息をつくとその場に座り込んだ。リリーはそんな母の体を支えた。
「…お母様…」
「ああ、言えた…すっきりしたわ、少しだけ」
母はそう言うと、リリーに微笑んだ。リリーはそんな母を見て、私もよ、とゆっくりと微笑む。
「ジェームズ、ごめんなさい、こんなに騒がせてしまって…」
母は叔父にそう謝る。叔父は母に近づくと、そんなのいいから、椅子に座りなさい、と彼女を促した。母は言われるがままにリリーの隣の椅子に座った。
「…でも、まさか勘当までされてしまうなんて…」
リリーは、顔を青くしてはあ、とため息をついた。このままでは、貴族としての立場はなくなり、シリウスと結婚することがまた叶わなくなってしまう。やはりなにも上手くいかない人生なんだとリリーが絶望していたら、そんなに落ち込むな、とシリウスがリリーの手に手を重ねてきた。
「…ああいう人なら、親だとしても君には合わない。もう関わらなくて済むのならよかったじゃないか」
「でも、」
「それに、君はもう俺の家に来るんだから、勘当されたとしても一人じゃない。リリーの母上も一緒に来たら良い」
「えっ」
リリーと母が一緒にシリウスの方を見た。シリウスは、ん、と不思議そうな顔をした。
「どうした?」
「いえ、…身分が合わないから。家のない私と、貴族のあなたでは…」
「俺の曾祖母は平民の出だから、家族みんな理解がある。大丈夫だ」
「でも、あんなに身分の差を気にしていたのに…」
「…俺の家が低すぎるから卑屈にはなっていたかもな。まあ、そっちが低い分には俺の家は気にしない」
そう言うシリウスに、リリーは少しだけ固まったあと、小さく微笑む。そして、ありがとう、と笑う。
「そうはいっても、実家がないのは心許ないだろう?」
叔父がリリーの方を見てそういう。なぜか目をキラキラさせている叔父に、リリーは、ええと?と首を傾げる。
「なら、テラー家の養子に入ったらどうかな?」
「え、え?」
「そうよそうしましょう!…でもあなた、リリーはすぐワグナー男爵家へ嫁いでいきますよ?」
「うっ…そ、それでもいいさ。お嫁へは行くけれど、リリーはこの家の娘に戻れば良い。サリナも、この家に居たければいたら良いんだから」
「ジェームズ…」
母は、瞳に涙を滲ませて叔父の方を見る。リリーも、じっと叔父の方を見る。
「…叔父様、叔母様、私、この家の人間になってもいいの?」
「もちろん。なんならずっと、エドモンド侯爵家へ行ってしまった後もずっと、リリーのことは娘だと思っていたんだよ」
「そうよ。この家にサリナと一緒に帰っていらっしゃいな」
すぐお嫁に行くけれど、と叔母が呟くと、叔父と叔母は二人して寂しそうに固まった。
リリーは椅子から立ち上がると、叔父と叔母のそばへ行った。そして、しゃがみこみ、椅子に座る2人と視線を合わせた。優しい2人の瞳がリリーを見つめる。
「…ありがとうございます、でも、」
リリーが目に涙をためて2人に口を開く。すると叔母は、優しくリリーを抱きしめた。
「ずっと辛い思いをしていたわね。これからはきっと、あなたにたくさんの幸せが訪れるわ。私たちはずっとそばにいる。大丈夫よ」
叔母がそう優しくリリーに語りかける。際限なく優しい言葉は、悪者の自分の胸を余計に締め付けて、息ができないほど苦しくなる。
「でも、私は悪人なのに、それなのに…」
「…リリー、周りから聞く君の話は本当なのかな?」
叔父は真っ直ぐにリリーを見つめながら尋ねた。叔母はリリーから体を少し離し、リリーの目を見た。リリーは、はい、と震える声で頷いた。叔父は眉を少ししかめて目を伏せたあと、悲しそうな、しかし優しい瞳でリリーを見た。
「…それなら、君のしたことは責められるべきことだ。…けれど、私たちにとってしたら、君のその憔悴具合の方が重いんだ。君はこれまでにきっと充分に責められただろうし、これからも責め続けられる。だから、私たちだけは、君の味方になりたい。周りからしたら許されざることなのかもしれない。けれど私は、これまで見てきた君のことを信じていて、そして愛しているから」
叔父はそういうと、叔母ごとリリーを抱きしめた。リリーは2人に頬ずりをする。一人じゃない。リリーはそんなことを思う。全部なくしてしまったと、そう思い込んでいた。何も見えなくなっていた。目を開いてよくみてみれば、こんなにも自分には、大切にしてくれる人たちがいる、大切にすべき人たちがいる。
「リリー!!」
バタバタと慌ただしい足音とともに扉が開いた。そこには、慌てた様子のワグナー男爵と、夫人がいた。シリウスは立ち上がり、父さん、母さん、と声を漏らした。リリーも、慌てて立ち上がった。
ワグナー男爵夫妻は、リリーのそばへ行くと、リリーの無事を確認するように彼女のことをまじまじと見た。夫人は、リリーの頬や肩を優しく触った。そして、涙ながらに、こんなに痩せてしまって…と声を漏らした。
「これからはシリウスもいる、私たちもいる。大丈夫よ、何にも心配しないでうちにいらっしゃい」
「そういえば、エドモンド侯爵家の方々はまだいらっしゃらんのかな?」
「ああ、ええと、…詳しくは後で話しますが、リリーとその母はついさっきからテラー子爵家の人間になったのです。エドモンド侯爵家は無関係ですので、もう来ません」
叔父の言葉に、ワグナー男爵夫妻は、えっ、と目を丸くする。シリウスは頭を掻きながら、どこから説明したらいいのか、と考え込む。ワグナー男爵夫妻はお互い顔を見合わせたあと、小さく笑った。
「詳しいことはわからないけれど、シリウスとリリーが結婚する、ということに間違いはないんだね?」
ワグナー男爵の問に、リリーとシリウスは、はい、と答える。ワグナー男爵夫人は、それなら何も問題はないわ、と笑った。
すると、テラー子爵が、さあさあ、と声を出した。
「とりあえず、朝食にしましょう。ワグナー男爵も夫人も、どうぞおかけになってください」
「やあやあ、朝食べる時間がなかったからお腹が空いてしまって…」
「そうね、食べないと何にもできないものね」
ワグナー男爵と夫人は、そういうと席に座った。そして、叔父は、それではお召し上がりください、と声をかけた。使用人たちが温かいスープやパンなどを準備して、テーブルに並べ始めた。
朝食を終えて、結婚についての話し合いが両家で始まり、それが終わるとシリウスとワグナー男爵夫妻は家に帰ることになった。
和気あいあいとした話し合いは続き、来月にも結婚式を挙げることになった。
夜になり、リリーはアンナに寝る準備を手伝ってもらったあと、お休みの挨拶をして部屋に一人になった。ふとリリーは部屋から出て、母の部屋へ向かった。
母の部屋の扉をノックして、返事のあとリリーは部屋に入った。母はベッドの上で本を読んでいた。リリーの顔を見ると、母は微笑んだ。リリーは母のベットのそばの椅子に座った。
「お母様、…私のせいで、エドモンド侯爵と離婚することになってしまって…」
「あなたのせいではないわ。…あの人があなたを勘当したのは、シリウスと結婚させないためよ。エドモンド侯爵家という家がなくなればこの縁談はなくなると思って、最後にあなたに嫌がらせをしたのよ。まさかそれでも結婚できるなんて、あの人は思いもしてないでしょうね。…もうずいぶん前から、あの人のああいうところにうんざりしていたの。…もっと前から、そういう男だってわかっていたら」
「…お母様」
「昔はね、あの人のことを仕事ができて、家も大きくて、頼りがいのある人だって思ってた。アリサの母にあの人をとられてしまったときはとっても落ち込んだ。だから、あの人と再婚できることになった時は舞い上がってた。いつまでもジェームズのお世話になるわけにはいかないし、はやくこの家を出ないとって焦ってたのもあったかもしれないけれど。…本当に馬鹿ね、私は。…ケインを置いて、再婚しようとしてしまったからいけなかったのね」
亡き夫の名前を呼んで目に涙をためる母の背中を、リリーは優しくさする。
「お父様は、お母様の幸せを願っているはずです。お母様を責めたりしません」
「リリー…」
「お父様に顔向けできないのは私の方です。…私は昨日、湖に…」
「ジェームズに聞いたわ、昨日あったこと全部」
母は、娘の頬を撫でた。そして、包帯で巻かれたリリーの手の甲の部分を優しく撫でた。リリーは、母の瞳をじっと見つめる。
「…ジェームズからあなたの話を聞いた時、…あなたが生まれた日のことを思い出したの。…とっても可愛かった。…あなたの顔を見たとき、私はこれまでたくさんのことがあって、打ちひしがれたこともたくさんあったけれど、この子に会うために私はこれまで生きてきたんだって、そう思ったの。あなたがこれから人生に打ちひしがれたとき、生きる意味を見失ったとき、あなたは生まれてきた瞬間から、もう生きて良い理由を持っているのよと、そう思った。…思っているだけで、きちんと言葉にして伝えてこなかった。だからあなたをあなたの世界の中で一人にしてしまった」
リリーは、母の言葉に息を呑む。母は、リリーを優しい瞳で見つめる。
「もし許されるのならこれからも、あなたのことを娘として愛していきたい。あなたの幸せを、隣で見ていきたい」
「…もちろん、もちろんよお母様。それにお母様、私が周りを見ていなかっただけ。狭い視界でしか世界を見てこなかった、それだけよ」
「…もう何も責めないで。あなたはこれから、シリウスとたくさん幸せになりなさい」
母はリリーを抱きしめた。リリーは母を抱きしめ返す。
「私は、この家にお世話になるわ。ここでケインとの思い出と一緒に生きていくことにする。あなたはワグナー男爵家で、幸せに生きていきなさい。きっと大丈夫よ、あなたなら」
リリーは母の肩に顔を埋めながら、はい、と頷いた。母は、優しい顔で娘の背中を撫でた。




