23 光2
アリサがエドモンド侯爵を説得したおかげで、リリーは絶縁されずにこの家に留まれることになった。しかし、エドモンド侯爵から自由に外に出ることを禁じられたため、リリーはいつもじっと息を潜めるように部屋に閉じこもっていた。
リリーのやり直し人生が終わり、これからは体験したことのない未来がやってくる。そう思っていたリリーに訪れた未来は、生きているのか死んでいるのかも分からないような毎日だった。
ほとんど話すこともしなくなったリリーに、甲斐甲斐しく世話をしてくれたのは、エドモンド侯爵家にきてからずっとリリーの身の回りの世話をしてくれた初老の女性の使用人、アンナただ一人だった。それ以外の使用人はリリーのことを不気味がって近づかなかった。
アンナはいつも、物抜けの殻になってしまったリリーの身なりを整えたり、食事を摂るように促したり、リリーが最低限人の形でいられるようにしてくれていた。
アンナはひどくリリーのことを心配していた。これまで以上にリリーは食べ物が喉を通らなくなり、日に日に痩せ細っていった。このままでは本当にいけないと思ったアンナは、自分の田舎にリリーを休養に連れて行くと提案した。ここにいるより元気になるかもしれないと、そうリリーに言った。この家を出られる、と思うとリリーは少しだけ気持ちが軽くなった。しかし、リリーが家を出て田舎へ行くことをエドモンド侯爵は許さなかった。エドモンド侯爵家の人間である以上、これ以上変なことをしでかさないように、自身の監視下にリリーを置きたいようだった。リリーは、ほんの少しだけ明るくなった心が一瞬にして黒に塗りつぶされると、明るくなる前よりも更に絶望した。アリサがリリーを家に置くように庇ったのは、こんな風にリリーを家に縛り付けて苦しめるつもりだったのかもしれないと薄々リリーは気が付き出していた。
エドモンド侯爵はリリーのことをいないように扱った。母は心配してリリーの部屋へ頻繁に訪れた。母は話すらしない娘に懸命に話しかけた。反応がなくても、母は必ずリリーに会いに来た。しかしそのことをエドモンド侯爵に知られると、ひどくエドモンド侯爵は怒り、それによって2人は口論を始めた。
リリーは、アリサの幸せの代償として、社会的に死ぬことになった。それが対価として等しいか、どうなのか、リリーには考えることすら億劫だった。
懸命に選択してきたはずだった。その頑張った過去の自分を貶めたくない。そうは思うけれど、たどり着いた今が正しいのかどうなのか、それは考えてもわからずに、とうとうリリーは考えることすら放棄してしまった。
オクトー公爵家での出来事からどれだけ時が経っただろうか、とある日、珍しくエドモンド侯爵がリリーの部屋にやってきた。リリーはソファーに座って、ただぼんやりとしていた。突然の訪問客に、アンナはリリーのためのお茶を準備している手を止めて、深々とお辞儀をした。
無表情のエドモンド侯爵は、一通の手紙をリリーに投げつけた。手紙は床に落ちた。リリーはその手紙をちらりと見た。リリーがその手紙が誰からのものか気がつく前に、エドモンド侯爵が不機嫌そうに、ワグナー男爵家の嫡男がお前を嫁にもらいたいらしい、と言った。それを聞いたアンナが、慌てて手紙を拾った。アンナは名前を確認すると手で口元を覆った。そして、お嬢様…!と喜びを隠せない顔でリリーの肩を撫でた。彼女はかつて、リリーがシリウスへ宛てた手紙をエドモンド侯爵に言われて処分してきたのである。まさか巡り巡ってこんなことが、と思っているようで、涙ながらにアンナはリリーを撫で続けた。
リリーは無表情でエドモンド侯爵を見上げた。
「そんな底辺貴族でも、嫁に行かないよりマシだ。来週には婚約の手続きをしにむこうからこっちに来る」
エドモンド侯爵は、やっとお前がこの家から出ていく、と吐き捨てると、早々に部屋から出ていった。
「お嬢様…!よろしかったですね…!」
アンナは、泣きながらリリーにそう話した。リリーは、ぼんやりと窓の外を見ていた。
「お嬢様、シリウス様にお会いするために、少しずつでも元気になりましょう。午後からは一緒に中庭をお散歩しましょう」
アンナはそう言うと、嬉しさの余り少し跳ねながらリリーの部屋から出ていった。リリーは黙ってただ座っているだけだった。
シリウスと会う日のために、リリーが着るドレスをアンナは探しはじめた。しかしエドモンド侯爵はリリーのドレスをすべて処分してしまっており、こういう場に着るものがリリーには残っていなかった。母が、自分のドレスを着たらいいと申し出たため、アンナはそこからリリーに似合うものを探した。18歳の少女にしては大人っぽすぎるものばかりだったけれど、ないよりは良いと、アンナは必死にリリーに似合うものを探した。
アンナがリリーの部屋を掃除しているとき、クローゼットの奥にしまいこんであった箱を発見した。アンナが箱を開けると、青緑色のドレスが入っていた。リリーはそれを見て、マークから送られたドレスを箱に入れたまましまいこんでいたことを思い出した。アンナは、入っていたドレスを広げると、あら!と嬉しそうに声を上げた。
「こんな素敵なものが残ってたんですね!これにしましょう!」
ああよかったと、アンナはドレスをハンガーに掛けて当日のために綺麗に整え始めた。リリーは、そんなアンナの後ろ姿を見つめる。これを自分が着るのだと、そしてシリウスの前に立つのだと、そう思うと心臓が少しだけ揺れるのをリリーは感じた。
シリウスとの婚約の話が出てから、アンナは張り切って、リリーに少しでも健康になってもらおうと食事をとらせた。体力をつけるために少しの時間だけでも散歩をさせた。リリーは言われるがまましていた。しかし、今までとれなかった食事が普段よりとれるようになり、動かせなかった体が少しずつ動くなるようになったことに、リリーは、自分がシリウスに会うのを楽しみにしているのだと気がついた。
「(…結婚できる、そうか、シリウスと、…ずっと願っていたけれど叶わなかったシリウスと…)」
アンナに支えられて中庭を歩きながら、リリーは立ち止まり、空を見上げた。青い空が広がっている。まだまだ寒いけれど、もう季節はすっかり春になっていた。長い冬を越えて、蕾から花が咲き、鳥は歌う。命が芽生えて、動き出す季節になっていたことを、リリーは随分長いこと気がつくことができないでいた。
「暖かいですね、お嬢様」
アンナが、立ち止まったリリーの背中を撫でながら、優しくそう話しかける。リリーはそんなアンナの言葉を聞きながら周りを見渡す。春が来た。長い冬を終えて、ようやく暖かい春が、私にも。
「この野菜どうしたの?」
リリーたちのいる場所から少し遠いところを、若い女性の使用人2人が、大きな箱を持って話しながら歩いていた。その中には、大量の野菜が入っていた。
「ほら、ワグナー男爵家、リリーお嬢様と結婚するっていうあの家から届いたのよ」
「ああ、あの」
2人が、重そうに持ちながら話を続ける。リリーは、その野菜を見つめる。
ちゃんと食え。
そうシリウスが言っているのが、リリーには聞こえた気がした。リリーの喉の奥がぎゅっと締まる。胸が苦しくて、張り裂けそうで、それでもなぜか嬉しい。止まっていた心臓が動き出すのを感じた。自分は生きていたのだと、そう気がつけた。久しぶりに感情があふれたことで、リリーは更に胸が痛むのを感じる。
2人は顔を見合わせると、同時に失笑した。
「どうかしてるわよね、ワグナー男爵家って」
「昔お嬢様とお付き合いしてた方らしいよ」
「だからって、あの気狂いのお嬢様を嫁がせようだなんて」
「社交界でも白い目で見られてるんだってさ」
やだ、と、2人の使用人はくすくす笑う。呆然と立ち尽くすリリーの耳をアンナが慌てて塞いだ。
すると、向こう側にいた使用人たちがようやくリリーの姿に気が付き、顔を真っ青にして、逃げるように去っていった。
「お嬢様、冷えますから、お部屋に戻りましょう」
ね、とアンナは落ち着いた声で、しかし内心非常に焦りながらリリーに告げる。リリーはアンナに言われるがまま、部屋に戻った。
ワグナー男爵家が、エドモンド侯爵家へ婚約の手続きをしにやってくる日が来た。
リリーは、マークが贈った青緑色のドレスを着て、鏡の前に立った。アンナが特別に気合を入れてリリーの身なりを整えたけれど、かつての美しかった少女の面影はなかった。リリーの体はすっかりやせ細ってしまい、あんなに透明だった白い肌は、土のような色になっていた。顔にも生気がなく、誰もが振り返る美貌の少女と同一人物だとは到底思えなかった。
リリーは窓から外を見た。外には、父が乗る馬車が準備されていた。父は、ワグナー家のような格下の家と話す気はないらしく、婚約の諸々の手続きは母と執事に任せて、自分は仕事に出かけてしまうらしい。
リリーはじっと鏡を見つめた。そして、鏡の中の自分と見つめ合う。
「(…シリウスと結婚できる)」
リリーはぽつりとそう思う。シリウスがどういうつもりなのか、リリーには見当が付かない。こんなことになった自分のことをまだ好きだとでも言うのだろうか。
何にしろ、シリウスの優しさが、ここまで堕ちてしまったリリーを見捨てられないのは、リリーにも分かっていた。
「(でも、シリウスが悪く言われてしまう。私のせいで)」
鏡に映る自分にリリーは尋ねる。それでもいいの?と。鏡に映る自分は答える。それでいいじゃないと。向こうが良いというのならそれでいい。あなただってシリウスが好きなんでしょう?と。
「(…ええそうよ、好きよ、こんなことになってもまだ好き。自分でも呆れてしまうけれど)」
「(それなら良いじゃない。もういい加減幸せになりましょうよ。あなたはよく頑張った。なにもかも失ったけれど、最後にシリウスと一緒になれたなら万々歳じゃない、違うの?)」
鏡の中の自分が微笑む。リリーはそんな彼女に微笑み返す。
「ええそうよ、そのとおりよ」
リリーが本当に久しぶりに声を出したことに、少し離れたところで髪飾りを選んでいたアンナが、驚いてリリーを二度見した。そして、目を丸くしたあと、お嬢様…!と嬉しそうに声を上げた。
「でも私は、シリウスと一緒にはなれない。私の滅茶苦茶な人生に、彼を道連れになんてできない」
アンナが、お元気になられたようで、といいながらリリーに近づこうとする。リリーはそれには気が付かないまま、鏡と見つめ合う。
「(あなたはだから幸せになれないのよ。なんにも変われないんだもの)」
鏡の中のリリーが呆れる。リリーは、そのとおりよ、と彼女に返すと、傍にあった椅子を両手で持ち上げた。そして、自分をうつしていた姿見を椅子で思い切り殴りつけた。
リリーに近づこうとしたアンナが、目を見開いて動きを止める。姿見は無残に割れて、鏡の破片が飛び散る。窓から差し込む光を反射して、空中を舞うガラスが光る。リリーは、その破片の中で特に大きいものを拾うと、部屋から飛び出した。
リリーが走る姿に、使用人達は騒然とした。リリーはそんな彼らには目もくれず、父のために用意された馬車に向かった。
馬車に乗り込むと、髭を蓄えた小柄な運転手が驚いたようにリリーの方を見た。
「おっ、お、お、嬢様…?」
「私の言うところへ行って」
「い、いけません。これは旦那様が今から使われる馬車です…」
「いいから」
「だ、だめです!」
拒否する運転手の喉元に、リリーは手に握ったガラス片を当てた。リリーはガラス片を握った拍子に手のひらを切っており、リリーの手のひらから流れ落ちた血が、ガラス片を伝って運転手の喉元に数滴滴り落ちた。
「ひぅ!ひっ!ひっ!」
「お嬢様!どうなさったんですか!」
大慌てで追いかけてきたアンナが馬車に乗り込んだ。騒ぎに気がついた他の使用人がどんどん集まってきた。リリーは運転手に凄み、行って!!と声を荒げた。運転手は、は、はいっ、と情けなく返事をすると、馬車を動かした。




