21 悪役令嬢のつくりかた1
演劇祭が終わり、卒業まであと半年足らずとなった。
リリーは、以前よりもさらに校内で注目される生徒となった。理由は他になく、演劇祭での活躍だった。劇の内容が素晴らしかったことはもちろんのこと、姫役のリリーの美しさの評判は校内を駆け巡り、リリーはこれまで以上に、生徒たちの憧れの的となった。
周りの生徒たちから声をかけられる頻度はさらに増え、もうすぐ卒業ということもあり、同級生から下級生まで、リリーに思いを告げる生徒は少なくなかった。リリーはしかしそのどれもを断った。
カトレアたちの脚本もたくさん讃えられた。入学前から演劇祭の脚本を書きたかったのだというカトレアは、自分が書いた脚本のあまりの周囲からの評判の良さに、感動によって目に涙をためていた。
リリーが、図書館へ行かなくなってもうすぐ1月が経とうとしていた。放課後に用事がなければ、学校生活はさらに速く過ぎ去っていった。時折、遠くから図書館へ向かうシリウスの姿が見えたけれど、リリーは決して声をかけなかったし、その姿を目で追うことすらしなかった。
シリウスへの思いのけじめはつけられた。しかし、彼への思いが思いのほかリリーの心の大部分を占めていたようで、リリーはすっかり喪失感に苛まれていた。カトレアと本の話をしていても、サーシャの本当か疑わしい噂に笑っていても、アリサとルークの恋の手助けに懸命に取り組んでも、それでもいつも、どこか上の空になってしまった。
「(あんなに綺麗に失恋できたのだから、もう爽やかに過ごせるのかと思っていた…)」
午前の授業が終わり、周りの生徒達がランチへ向かう姿を横目に、リリーは頬杖をついて先程の授業の教科書をぱらぱらとめくっていた。
「(…失恋はした。けれど、最後の人生は素晴らしい。素敵な友達がいて、勉強も優秀な成績をおさめて、周りからの評判もいい。きっと、これからも良いことがある。きっと、きっとそう)」
リリーは、教科書を捲る手を止めて、ふう、と息を吐く。そして、すっかり人がいなくなった教室を見渡したあと、自分も昼食を取りに行こうかと立ち上がる。
演劇祭が終わってから、無茶なダイエットをリリーは止めた。もちろん体は以前よりは太った。けれど、血の気が引いたような表情から栄養を取ることで元気が出て、生き生きした表情に変わったし、髪の質感も良くなった。それでもエドモンド侯爵は、太ったとリリーを咎めるだろうか。リリーを可愛がらなくなるだろうか。
「(そんな父娘の愛情に、しがみつく必要はあるのだろうか)」
廊下を歩きながらリリーは、そんなことを考える。前世に無理をして許容以上のことをしたことで自分を壊してしまった記憶から、こんなことは良くないのでは、という予感が脳裏をよぎる。
「(…家族と仲良くすることも諦めてしまうの、私は)」
情けない自分に呆れるかと思ったけれど、リリーの心は晴れやかになっていった。一度何かを諦めてしまえば、他のものも一緒に諦めてしまうことはリリーにとって容易だった。諦めると決めてしまえば、じわじわと心が軽やかになっていくのを感じた。リリーは窓の外を見つめて、すっかり春めいた中庭を眺める。
「(…それなら私は、何のためにやり直したのか…)」
リリーはそんな疑問が湧き上がり、また心がざわついた。嫌な気持ちを払いたくて、リリーは頭を振る。はあ、と詰まった息を吐いたとき、目の前に誰かが立っていることに気がついた。視線を上げると、そこにはいつもの親しげな笑みを浮かべたルークが立っていた。
「ルーク。どうしたの?」
「今から昼食を取りに行くんだ。君もどう?」
「他のみんなは?」
「先に行ってる。俺だけ先生に呼ばれていたから」
リリーは、そう言って微笑むルークを見つめる。
そうだ、私に残された唯一にして一番の理由がそこにあった。大切な妹アリサの恋を、自分のやり直しのせいで一度は結ばれたのに、それ以降結ばれていない彼女の恋を、今世では必ず成就させるということ。
リリーはルークを見つめながら、いつもの計算を脳内で始めた。今日はアリサが体調不良のため学校を休んでいる。だから、アリサ不在のランチにリリーが行く意味は薄い。だから行かなくても良い。
その上、ルークは演劇祭の本番まではリリーへの興味を失いかけていたはずだったけれど、演劇祭でのリリーを見てからまたリリーへの気持ちを再燃させたようで、また以前のようにリリーに関わるようになってしまったのだ。だからここは、ルークとの距離を取りたい。自分はルークを好きではないのだと、そうわからせたい。リリーは微笑んで、ごめんなさい、と謝った。
「今日は先約があるの」
「それは誰かな?その人とも一緒に食べよう。挨拶がしたいし」
「…いきなり他の人も一緒だなんて言ったら気を悪くするわ」
「それなら、俺から頼んでみるよ。その人から断られたら諦めるよ」
ルークは、さあ行こう、とリリーを呼ぶ。これは断るのに骨を折りそうだと察したリリーは諦めて、ごめんなさい、と苦笑いを漏らす。
「…先約は嘘なの。最近一人になれるタイミングがなくって、たまには一人になりたかったの」
ダメ押しの台詞も、ルークはにっこりと微笑んで、どうせ一人でいたら誰かに声をかけられるよ、さあ行こう、と言うだけであったので、リリーは観念してルークと一緒にカフェテリアに向かった。
食事の乗ったトレーを持って、騒がしいカフェテリアの中を歩き、リリーはルークと一緒にいつものアリサ以外のメンバーに座るテーブルへと向かった。モモの隣にエリック、エリックの向かいにマークが座っていた。ルークはマークの隣に座ったので、リリーはその隣に腰掛けた。リリーがいつものメンバーに軽く挨拶をしていると、リリーのトレーの食事を見たエリックが、あれ、と声を漏らした。
「今日は普通に食べるんだな」
エリックの言葉に、他のメンバーもリリーのトレーに視線を移す。リリーのトレーには、いつものサラダと少しのパン、それとコーヒーだけではなく、ランチセットがのっていた。リリーは、ええ、と小さく微笑む。
「食べるようにしたの。健康な体は食事からだから」
リリーの言葉に、何かを察したらしいマークが、そうだよね〜と相槌を打つ。そんなリリーに、ルークは苦笑いを漏らす。
「でも、食べ過ぎたら太るよ。リリーは体型が変わりやすいんだから気をつけないと」
ルークの言葉に、ピキッと青筋が立つリリーであったけれど、笑顔でそうね、とだけ返した。するとモモが、え、と首を傾げる。
「リリーって太りやすいの?そんなふうには見えないけれど」
「昔はすっごく太ってたんだよ。今の面影なんて全然ないよ」
ルークがそう言って笑う。エリックが、ええっ!!と驚きの声を上げる。
「太ってたって、そうなのか?」
エリックの言葉に、リリーは、ええ、と素直に返す。そして、リリーはパンをちぎって口に入れる。そんなリリーを見ながら、ルークはまた苦笑いを浮かべる。
「ほんっとに酷かったよね。鏡を見て反省して痩せたんでしょ?もう二度と、アレには戻らないように気をつけなよ」
ルークの言葉に、エリックとモモが笑う。どんなに酷かったんだよ、ちょっと見てみたいわ、そんな2人の声を聞きながら、リリーはあくまでも平常心を保って、パスタをフォークに巻き付ける。怒りで心臓がどくどくと脈打つけれど、それによって手が震えるけれど、決して表に出してはいけない。一時の感情に身を任せてはいけない。私は、アリサとこの男の恋を応援しなくてはいけないのだから。
「ほら、ほどほどにしなって。またアレになるよ」
ルークは、フォークに巻きつけたパスタを口に運ぼうとするリリーの手を握って止めた。リリーはルークを見つめる。見つめるルークの瞳に、一度は恋をしたその瞳に、もはや殺意に似た気持ちが湧き上がる。
痩せてたって、太ってたって、綺麗だって、醜くたって、あなたには一切関係のないこと。私は太ってる自分だって好きだった。その気持ちに土足で入っていい人なんか存在しない。
「…そうよね、気をつけるわ」
それでもアリサのことがあるリリーには、ルークに一喝する選択肢なんかなかった。リリーはフォークをパスタの皿に下ろして、コーヒーを飲んだ。そんなリリーに、うん、と満足そうに微笑むルーク。
リリーは、まだ鼓動が速い心臓を落ち着かせようと、ゆっくりと温かいコーヒーを飲む。落ち着かないといけない。ここでルークに言い返したら、一番の目標を見失う。リリーにはもう、アリサの恋を実らせることしか、やり直した意味を見出せなくなっているのだ。
「…ねえ」
リリーの背後から、そんな声が聞こえた。振り向くとそこには、なんとモニカが立っていた。
彼女の表情には、まえまでの自信に満ちあふれた様子はすっかりなくなっていた。ルークの反感を買ったことで、周りの生徒達からも嫌悪感を持たれて、彼女とあんなに親しくしていた友人たちはあっという間にいなくなり、彼女の学校での居場所はなくなっていった。
モニカはただ立ち尽くし、怒りか悲しみか、何かわからない瞳でリリーたちの方を見据えていた。
「…モニカ……」
リリーはモニカの方を振り向き、彼女を見上げた。モニカは、リリーの方を見た。そして、リリーの両肩をつかんだ。
「…どうして私は、あなたたちから遠ざけられてしまったの?ねえ、どうして、なぜ、どうして…」
モニカがリリーの肩を揺する。モニカのただならぬ様子に、周りの生徒達も気が付き、ざわざわと騒ぎ出す。リリーはモニカに揺らされながら呆然と、目の奥から光が消えた彼女の瞳を見ていた。
ルークは、リリーの肩をつかむモニカの手を払ったあと、はあ、とわかりやすく気だるそうなため息をついた。そして、軽蔑するような瞳をモニカに向けた。そんな瞳にモニカは肩をビクリと揺らす。
「身から出た錆だよ。君のこれまでの行いを省みて、胸に手を当ててみなよ。そうしたらこんな、わざわざ俺たちに理由を聞きに来るなんて厚かましい真似できないだろうから」
そう冷たくルークに言い放たれると、モニカは震える足を、一歩一歩と後ずさらせた。そんなモニカを見ながら、周りの生徒達はひそひそと噂を始める。
気の弱い生徒を虐めてたらしいよ
確かに、底意地の悪そうなお顔をしていらっしゃるもの
ルークの輪にいたからって、いい気になってたんじゃない?
それが学校中の嫌われ者になるなんて、目も当てられませんね
モニカは、自分を嘲笑する声の方をぐるぐると見回す。モニカは体を震わせて、両手で頭をかきむしる。そんな様子に、周りは更に彼女の噂話をヒートアップさせる。
周りに非道い行いを働いた彼女がこうやって懲らしめられたことに満足そうなルークは、モニカを一瞥するとまた彼女に背を向けて椅子に座った。
リリーはただ呆然とその様子を見ていた。モニカが周りの生徒達から嘲笑され、モニカは目に涙をためる。
「(…あれは私だ)」
リリーは、そう心の中で呟く。最初の人生で、オクトー公爵家にて行われたリリーの悪事を晒されて、罰せられたあの日と同じだ。あのルークの軽蔑の視線。周りの、こんな惨めな最期が相応しいのだというような嘲笑の声。リリーは耐えきれずについ耳を塞ぐ。
モニカは罰せられて当然だ。
リリーはそう心の中で思う。自分も前世で随分彼女からひどい目に遭った。リリーの大切な友だちもつらい目に遭わされてきた。当然だと思ったから、そして、罰して当然だというルークを反対したら空気を乱すから、だからリリーはずっと輪からどんどん外されていく彼女を傍観するしかなかった。そして今も、大勢の生徒達から嘲笑われる彼女をただ見つめるしかない。
「(だとしたら私は、あの日の私は一生許されないのかな)」
リリーはそんなことをふと思う。リリーは確かに、アリサに許されないことをした。どんなに謝っても足りないようなことを。リリーは確かに、アリサに償い続けなくてはいけない。それでも、あの日公開処刑されたリリーはいつまでも世界から許されないままなのだろうか。
「君にはこんなの、聞くのすらつらいよね」
ルークが、そっとリリーの肩を抱く。耳をふさいでいたリリーははっと目を見開く。そして、ゆっくりと耳から手をどけて、ルークの方を見る。ルークは目を細めて、リリーの背中を優しく撫でる。そんな体温に、リリーは寒気がする。あなたの言動は私にとって、全くの見当違いだ。あなたの物差しでだけで測っていたって、それにいくら周りが賛同したって、私には合わない。
気がついたらリリーは、ルークの手を振り払って椅子から立ち上がっていた。そして、もう上手く立てないのか、地面に膝を折って泣いていたモニカの側に向かっていた。リリーの行動に、生徒たちの言葉がやむ。しんと辺りは静かになる。モニカは、呆然とした表情でリリーの方を見た。リリーは、モニカと向かい合う。かつて苛められた相手と真正面から向かい合うことに、リリーは少し怯える。しかし、周囲から十分に罰せられてきたモニカは、そんなリリー以上に震えている。リリーは一瞬だけ目を閉じたあと、ゆっくりモニカに手を差し出した。
「…立てるかしら」
リリーの声かけに、モニカは瞬きをした。
「…なぜ?」
モニカは、信じられないという様子でリリーをみあげる。リリーはそんなモニカの手をつなぎ、立ち上がらせた。モニカの涙が頬を伝う。リリーはそんな彼女にまた自分を見る。
「泣かなくて良い。もうこれ以上、自分を責めなくて良い。あなたは十分に周りから咎められたでしょうし、自分でも自分を罰したでしょう」
リリーは、モニカを見つめながら、真紅のドレスを着て、綺麗なドレスとは相反して髪を乱したリリーのことも見つめる。化物かと見紛う彼女を、救ってあげたい、愛してあげたい。罪は許されないとしても、それでも。
「あなたが虐めた相手は、あなたを許さないかもしれない。周りの人たちも、あなたを許さないかもしれない。そうだとしても私は、あなたをもう責めたりしない。…私も昔、許されないことをした。だからあなたの気持ちがよく分かる」
リリーは、そうモニカに告げる。世界中全員が敵だと思ったとしても、ここに一人、あなたを許した人がいると、それだけは覚えていてほしい、そんなことをリリーは思う。そうすることで、かつての自分も救われるような、そんな気がしたのだ。
モニカは、そんなリリーを見つめて、安心したように顔をゆがめる。リリーは、モニカの手を引いて、周りの視線から逃れるようにカフェテリアから去っていった。
人けのない中庭に、リリーはモニカを連れてきた。リリーはモニカから手を離して、彼女の全身を見た。
「ケガはない…わよね。倒れていたから、その拍子にどこかぶつけていないかしら」
「…大丈夫よ、ありがとう」
「ベンチに座ったら?落ち着くわよ」
リリーが勧めると、モニカはベンチに腰掛けた。リリーはその隣に座る。モニカは、深呼吸をすると、ありがとう、と弱々しい声で言った。リリーは、たいしたことじゃないわ、と頭を振る。
「…よかったの?あんなことして」
モニカがぽつりと尋ねた。リリーは、ええ…と苦笑いを漏らした。ルークの手を振り払い、周りを扇動するようにモニカを責めていたルークに歯向かうようなことをリリーはしてしまったのだ。ルークはリリーをよくは決して思わないだろう。これからリリーはおそらくルークの輪に入れてもらえなくなるだろう。これまでのようにアリサのアシストのためにリリーが立ち回ることはこれでできなくなったのである。
「(…アリサの恋だけは実らせるなんて心に決めた矢先なのに私ってほんっとうに…!!)」
「…私、あなたのことが気に食わなかったの」
「えっ?」
モニカの言葉に、リリーは目を丸くする。モニカは、リリーの方は見ず、地面の方を見ているばかりだ。
「アリサの気持ちは知っているはずなのに、自分はルークから気に入られて、それでいてひらりとルークをかわしてしまう」
「(…私ってそんなふうにモニカから見えてたんだ…)」
「私もルークが好きだったから、なんであなたばっかりルークから好かれるんだろうって、嫉妬してた。…そんなの逆恨みよね。だってあなたはとっても綺麗だし、頭も良くて、…こんなに優しい」
「…そんなことないわ」
「やめてよ、謙遜なんて余計に腹立たしく見られるわよ」
「本当に違うの。私なんて、…ほんとうに、なんにも上手くいかないの」
リリーがそう言うと、モニカは目を丸くしたあと、まあ、悩みなんて人それぞれか、そっか、と呟いた。
「…そういえば、なんでルークが私のこと好きだなんて思うの?」
「やめてよ嘘くさい。わかってるでしょ?」
「周りの人から噂になってるの?」
「そういうわけでもないけど、…見てたらわかるわよ。私はルークが好きだったから余計にね」
モニカは頬杖をついて、重いため息をつく。リリーはそんなモニカの横顔を見つめる。さばさばしていると、彼女のことを思っていた。それは大きな勘違いだった。きっと、何度人生を繰り返しても、分からなかったことが現れるだろうし、もっとこうすればと後悔するだろう。リリーは少し目を伏せたあと、小さく笑った。
「ねえ、もうルークに執着するのやめたら?」
「…言われなくたってもう諦めてるわよ。不可能だなんてわかりきってるもの」
「そうじゃなくて、ルークなんてそんな、あなたが執着するような男じゃなかったって、そう思ったらどう?」
「…さすが、リリー・エドモンドが言うことは違うわ」
「もう、そういうことじゃなくって…」
リリーがもどかしい思いで言葉を探していたら、そんなリリーを横目で見たモニカが小さく吹き出した。リリーは、そんなモニカに首を傾げる。
「でも、そうね、そう思えたら気が楽かもしれないわね」
そう言って笑うモニカに、リリーはゆっくり微笑む。
「そうでしょう?そうよ、あなたには不似合いな男なんだって、そういうことよ!」
「…でもそれ、酸っぱい葡萄みたいで格好悪くない?」
「そんなことないわよ!あなたに似合う人なんて、もっともっと他にいるわ。その人と出会って、その世界で生きていけばいいの」
リリーはそう、自分にも言い聞かせながら言葉をつむぐ。モニカは、うん、と背伸びをしたあと、そうだといいわ、と呟く。リリーはそんなモニカを見つめて、ゆっくり目を細めた。




