20 最高の失恋 5
演劇祭に向けた練習は続いた。カトレアたち脚本役の生徒たちは、自分たちの考えた脚本のイメージに合った生徒たちに決まったからか、リリーの知る限り一番熱が入っており、何度も会議をしては修正がされる気合の入りようだった。
リリーは、もうすっかり台詞は頭に入り、動きや言葉の言い方、表情などの修正に入っていた。他の生徒たちも同じような感じだった。
そしてシリウスも、練習を重ねるごとに成長しているのが見えた。周りの生徒たちも、最初はシリウスが主役で大丈夫だろうかという空気感を漂わせていたけれど、その雰囲気に心折れず、ひたむきに努力をしてくるシリウスに、だんだん温かい瞳を向けるようになり、次第に信頼の目すら向けるようになった。
とうとう舞台上での練習が始まった。大道具や小道具などを実際に使っての練習は、また違う雰囲気がして、役者の生徒たちは緊張した。
リリーは、シリウスとの掛け合いの場面に入った。リリーはシリウスと向かい合って、姫と王子として台詞を交わした。
練習がはじまってから、リリーはシリウスと見つめ合うことができるようになった。ずっと目を伏せて、視線を合わさないようにしていた2人だったけれど、これは演技だと、脚本にあることだと思えば目を合わせられたし、微笑み合うことだってできた。一度口角を上げてしまえば、どうして今までこんなことができなくなっていたのだろう、とすら思えた。演技であれば手をつなぐこともできた。久しぶりに触れた手は記憶にあるよりもゴツゴツと大きくなっていた。
リリーは台詞を言いながら、まっすぐにシリウスだけを見つめた。その眼差しと、その顔。初めて出会ったのは8歳で、今よりもずっと幼くて、それでも、今と同じ優しい瞳をしていた。
リリーは、台本の中ではお互いは姫と王子だと、そういう前提を持ってやっと、シリウスのことを落ち着いた気持ちで見つめることができた。そしてそれは、シリウスも同じようだった。
私はこの人が好きだった。
リリーは心の奥底でそんなことを噛みしめる。その声も、ぶっきらぼうな言動も、その奥底に宿る優しさも、全てが愛おしかった。シリウスのことを考えると幸せで、胸がどきどきとあたたかくなった。シリウスと別れて家に帰り一人になったとき、シリウスと交わした言葉、笑い合ったシーンを思い出しては、口角が上がった。あのシーンをまた繰り返したいと思っていた。幸せな瞬間を何度も繰り返したいと願ったし、繰り返されるものだと信じていた。
「(あなたを好きだったとき、私は確かに幸せだった)」
リリーは心の中でそう呟く。そんなことすら、最近は忘れていた。思い出せなくなっていた。ただただつなぎとめることばかりを考えて苦しくなっていた。しがみついた手を離してしまえば距離が離れるのはあっという間のことで、どんどん離れていく彼のことを、悲しくはあるけれど、しかし、心はなぜかほっと安心していた。
これでよかったんだ。リリーはそう思えた。これでよかった。そう気がつけば、リリーの視界にぱっとシリウス以外の世界が広がった。世界にはシリウス以外にも人がいて、幸せがあって、笑いがあって、もちろん悲しみもある。それらときっと自分は出会えるし、受け止められる、そうリリーは信じられた。
他の生徒たちの演技が続き、リリーはその人たちの言葉にも耳を傾ける。どんどん進む舞台に、リリーは、シリウス以外の世界にも目線を移す。リリーは、自分が台詞を言う番になったので、自分の台詞を発する。それに続いて演技をするシリウスは、自分の台詞のあと舞台からはけていく。その背中を見つめながら、もう随分遠くなってしまった人だとリリーは再確認する。その背中にはもうすがったりしないと、リリーはそう思った。
本番まであと2週間と迫った頃、衣装係から完成した衣装の試着をしてほしいという話が入ってきた。
役者の生徒たちは講堂に集められて、それぞれ衣装係の生徒がついて、本番に着る衣装を試着していった。
ルークの周りの生徒たちは、騎士の衣装を着たルークに黄色い声を上げていた。ルークは衣装の着心地を確認しながら、ぴったりだよ、と衣装係の生徒に微笑みながら伝えていた。そんなルークに周りにいた女子生徒たちは釘付けになっていた。
ルークの周りは、格好いい、素敵、といった声が上がっていたけれど、エリックには、可愛い可愛い、という声が上がっていた。その声に、本人も満更ではないようであった。
そして、ルークに負けず劣らずの注目を浴びていたのは、マークであった。学校でのほんわかした空気とは真逆の、漆黒のいかにもヴィランといった衣装に身を包んだマークに、周囲の生徒たちは黄色い悲鳴を上げていた。
そして、そんな彼らの注目も、着替え終わったリリーが生徒たちの前に登場すれば、彼女がすべて持っていってしまった。白のシンプルなデザインのドレスが、余計にリリーの美しさを際立てていた。リリーが担当の衣装係であるジェーンとケイに連れられて鏡の前に立ち、自分で体を動かしながら衣装の確認をしている姿に、その場にいた生徒たちの全員が目を奪われていた。
「うん、よく似合っているわリリー」
「本当に綺麗…」
「ありがとう。2人の衣装のおかげだわ」
そう言ってリリーが微笑めば、それをみた生徒たちは息を呑んだ。リリーは鏡でまた自分の姿を確認する。その鏡越しに、不服そうな顔のルークが見えた。ルークは、役決めのときに言葉を交わしてから、リリーのことを好きな気持ちが少し冷めたようにリリーは感じていた。リリーが自分のことを好きにならないということが、そしてそんなリリーが輝くように美しいことが、ルークは気に食わないのであろう。
「姫役は完璧だけど…」
そんな男子生徒の声が聞こえた。まだ着替えている主役であるシリウスへの不安感だろう。生徒たちのイメージするシリウスでは、主役として舞台に立つにはあまりにも華がなかったからである。しかも、相手役はリリーである。2人が並んだときにどうなるのか、生徒たちには想像がつかなかった。
少し不安な空気が生徒たちに漂い出したとき、着替えを終えたシリウスが衣装係の生徒と一緒に講堂に入ってきた。
シリウスは、王道の王子様の衣装を着ていた。普段は華のないシリウスだったけれど、衣装を着たシリウスは、生徒たちが想像したよりはずっと、よく似合っていた。シリウスに似合うように衣装係が衣装を準備したのだから当然ではあったけれど、予想外に舞台映えしそうなシリウスに、生徒たちは安心したような空気を出した。
リリーは自然とシリウスの側に向かった。シリウスはそんなリリーの方を見た。リリーは頭から爪先までシリウスを見たあと、シリウスの顔を見て微笑んだ。
「…何か言いたいことでも」
「よく似合ってるって、言いに来たのよ」
「…お世辞なら要らない」
「お世辞なんかわざわざあなたに言わないわ」
リリーの言葉に、シリウスは少し目を丸くする。そして、少しだけ口元を緩める。そんなシリウスに、リリーは笑みを深める。自然とシリウスと接することができる自分に、リリーは内心感動してしまった。
そんな2人のやり取りを見ていた生徒たちは、2人の様子に少しの間見とれてしまった。
「…なんか、シリウスって…背も高いし…」
「意外と、…ちょっとだけ、かっこいい、かも」
そう、女子生徒たちがぽつりぽつりと話し出す。リリーはそんな声を聞くと、くすくすと笑い、そしてシリウスを見あげた。
「ね?お世辞なんかじゃないでしょう?」
リリーが笑いながらシリウスに言えば、シリウスは、はいはい、と柔らかく返す。リリーはそんなシリウスに目を細める。シリウスはそんなリリーに少しだけ口元を緩める。
「君も、よく似合っている」
シリウスの言葉に、リリーは、まあ、と瞳を大きく見開く。
「それは完全にお世辞じゃないわね」
「想像に任せる」
シリウスはそう返すと、衣装係の生徒に呼ばれてそちらへ向かった。リリーはその背中を見送った。
とうとう演劇祭本番の日がやってきた。
学校内にある大きなホールに下級生たちが観客として集められた。観客たちはざわざわとしながら、劇が始まるのを待っている。
リリーは、幕の下りた舞台の上で、最後の確認をする。舞台の上や裏では、舞台の飾りの最終確認に慌てる生徒や、衣装のほつれを直そうと走り回る生徒など、非常に慌ただしかった。
「(…最後の劇…)」
幕の外から聞こえる観客の声に、リリーは緊張が高まる。そそくさとリリーは舞台裏に戻り、人けのない場所で深呼吸をしていたら、隣に誰かが立った。横を見れば、衣装に着替えたシリウスがいた。
「シリウス…」
「緊張してるか?」
「…してないと思う?」
「そうだよな。…俺たち2人とも、こんなの柄じゃないんだから」
そう言うシリウスの瞳をリリーは見つめた。そして、おそるおそる、ねえ、と話しかけた。
「あなたを主役にしたこと、怒ってる?」
「怒ってないと思うか?」
「…そうよね」
「…この数ヶ月、練習の中で君と向かい合って会話をして、手に触れて、俺はやっぱり君を好きだと思った」
シリウスの言葉に、リリーは目を丸くする。シリウスは、リリーの瞳をまっすぐに見つめる。
「こんな気持ちは、しまい込んでおくべきだと思っていた。…でも、無理やり掘り起こされて、…今本当に、どうしようもなく苦しい」
シリウスは、手に力を込めて拳を作った。ぎゅっとつよく握りしめながら、シリウスは視線をリリーから地面に下げた。
「…多分、これから先、俺はこの日を、君と恋人役として劇に出たことを思い出すたびに苦しむと思う」
劇の準備に慌てる生徒たちのざわめきと、幕の外からの声が、2人からとても遠くで響いた。リリーはただただ、シリウスだけを見つめていた。シリウスは、まっすぐにリリーの瞳を見つめた。
「でも俺は、もし人生をやり直せたとしても俺は、君とまた劇に出ることを選ぶと思う」
リリーは、喉の奥がぎゅっと締まるのがわかった。震える唇をかみしめて、リリーは一瞬だけ視線を落とす。ゆっくりとリリーは深呼吸をして、そして、シリウスを見つめた。
「…あなたのことが本当に、本当に大好きでした」
リリーはシリウスと向かい合ってたち、シリウスの両手を、自分の両手で包んだ。温かくて大きな手。汗をかきながら、でもそれに気が付かないほど夢中になって、あなたは釣りや野菜の世話をしていた。その横顔をずっと眺めていたかった。
リリーは、記憶に残る、無邪気にシリウスをみつめる幼い自分に、ごめんなさい、と謝る。幼い少女は、今のリリーを見つめると、一瞬だけ顔を歪めて、しかしすぐに微笑んだ。それでいいのよ、と。
「この劇が終われば、もうあなたとは関わらない」
リリーは、シリウスの手を包む自分の手に少しだけ力を込めた。シリウスは、ああ、と頷く。
「きっといつか、劇が終わったあとでも、あなたに笑顔で会える日が来るって、私信じてるから」
リリーはシリウスにそう伝える。シリウスはまた、ああ、とだけ言って頷く。リリーはそんなシリウスに微笑む。
「だから、ちゃんと食え。健康でいろ」
いつも通りのシリウスに、リリーは声を出して笑った。
「わかった。そうする」
「本当に分かってるのか?前と変わらずに痩せすぎているぞ」
「最後に、あなたに綺麗な私を見てほしかったから」
そう言ったリリーに、シリウスは目を丸くしたあと、ばかっ、とリリーを叱った。リリーはそんなシリウスに目を細めて、シリウスからゆっくりと手を離した。シリウスは、そんなリリーを優しい顔で見つめる。
裏方の生徒からもう始まりますよと声をかけられた2人は、舞台の方へ向かっていった。
舞台は、大きな拍手の中始まった。舞台に現れた姫役のリリーの姿に、生徒たちは時を忘れたかのようになっていた。リリーの姫の姿に、生徒たちはそれだけで大きな拍手を送っていた。
劇は順調に進んでいった。ルークやエリックといった人気の高い生徒がでると、黄色い歓声が上がった。舞台の裏でアリサが、私があの方の相手役だなんて…!と余計に緊張していた。
舞台の中で最も歓声が大きかったのは、なんとマークのシーンであった。姫役であるリリーを、無理やり妃に迎えてしまうシーンである。敵国の王子であるマークはリリーの肩を乱暴に抱き寄せると、顎に手を添えて自分の方を向かせて顔を近づけた。マークの瞳に光は宿っていなかった。
「お前はただの道具だ。この国を栄えさせるためのな。何も言わずに俺のものになれ」
「い、いやです…。私には心に決めた人がいるのです」
「笑わせるな。道具は道具らしく、俺の言うことを聞いていればいい」
マークのあまりのヴィランっぷりに、練習で何度も見てきたはずのリリーに鳥肌が立つ。そして、普段の温厚な彼とは真逆の悪役の衣装に、悪役の演技をみた生徒たちは、マークに釘付けになっていた。
リリーは、満足げな顔をしたカトレアの顔を脳裏に浮かべながら、マークとのシーンを続けた。
そして、順調に話は進み、劇はラストシーンに入った。争いの中、姫を敵国の王子の城から助け出す王子であったけれど、敵国の王子の追手の弓矢により、胸を射られてしまう。倒れ込む王子に、姫が駆け寄る。息絶えていく王子の頭を膝に乗せて、その現実を受け入れられずに涙する姫。物語のラストに、観客からは鼻を啜る音が聞こえてくる。
リリーは、膝に乗せたシリウスの頭から頬にかけてそっと撫でた。シリウスは、リリーの方を見つめる。
「(…ありがとう)」
リリーは、シリウスにしか聞こえない声でそう言った。そして、台本の通りシリウスを抱きしめた。シリウスは、リリーの耳元で小さく、礼を言われることじゃない、と返した。リリーはシリウスを抱きしめながら、うん、と観客には見えないように頷いた。この抱きめた感触を、シリウスの体温を、きっと忘れられると、リリーはそう確信した。
割れんばかりの拍手の中、舞台の幕は下りた。劇は大成功のうちに終わった。幕が下りたあともしばらくは観客たちの感動や興奮は収まらず、しばらく拍手は鳴り止まなかった。




