15 君に見せたかったもの1
固い決意とともに始まったリリーの最後のやり直し人生は、しかし、最後という緊張感が感じられないほど、のんびり幸せに過ぎていった。
リリーは、3回目の人生と同様に、好きなものを好きなだけ食べて、よく笑い、幸せに過ごした。基本的には家の中で本を読んだり、勉強をしたり、裁縫や料理の勉強をしたりして過ごしていたが、今世のリリーは、前世ほどはひきこもらず、ほどほどに社交の場には出た。社交の場に出たからといって、自由に飲み食いしたリリーのふっくらとした体型では、誰も美しいなどとは噂しなかったので、目立ちなどしなかった。8歳の誕生日パーティーではあんなにリリーにご執心だったルークは、太ったリリーには何も興味がなく、社交の場でリリーを見かけたとしても、話しかけてきたりなどしなかった。リリーも、自分に対するルークの冷ややかな態度は、接しなくても予想がついたので、自分から関わろうとはしなかった。
ルークの変わりっぷりに、こんな男があの心優しいアリサに似つかわしいか、リリーは甚だ疑問になった。アリサには、太った人間に対するルークの冷たい態度を直接見せて、それでもルークが良いというのなら応援することにしようか、とリリーは考えるようになった。近い将来、リリーはアリサと出会い、アリサはルークとも出会うだろう。そのときに、リリーに対するルークの態度を見て、それで失望すればそれまででいい。むしろその方がいいのかもしれない。リリーはそう考えるようにすらなった。
最後の人生でリリーは、前世で母と別れる道を選んだ罪悪感と寂しさからか、今まで以上に母と仲良くした。料理や裁縫を、使用人から教わるだけでなく、母にも聞きに行った。母に自分が作った料理を振る舞うこともたくさんあった。よく甘える娘を、母はより可愛いと思ったのか、前世ほどリリーの体型について母は文句を言わなかった。
父との関係は相変わらず良好だった。もうすぐ病に伏せてしまう父のことを思うと胸が痛んだが、残された父との時間が短いとわかっているため、ルーティンのような日々の出来事も、リリーは大切にできた。
そしてリリーは、定期的にシリウスと文通をしたり、時にはお互いの家に遊びに行ったりするような仲になっていた。もともと親同士そこそこ親しかったようで、お互いが頻繁に遊ぶことも難しいことではなかった。
少年シリウスは、魚釣りや園芸が趣味のようで、暇さえあれば川へ行ったり、土をいじったりしていた。リリーは、そんなシリウスの隣でいつも機嫌よく笑っていた。シリウスは、そんなリリーが心底不思議なようで、最初のうちは、つまらなくないか、と何度も尋ねてきた。そう尋ねられるたびリリーは、見ているのが楽しい、と答えた。それはリリーにとっては本心だった。ただシリウスの傍で、何かに夢中になっている横顔を見ているだけで、リリーは幸せでたまらなかった。シリウスは、そう答えられるとそれ以上は何も言わなかった。そして、しばらく期間が館たてば、聞くことすらなくなった。
リリーはシリウスの隣で、いつも本を読んだり、編み物をしたりしていた。シリウスは、自分の作業の合間にちらりとリリーを見ては、小さく微笑んでいた。
ワグナー男爵家の屋敷には、本がたくさんあった。シリウスの兄が本が好きなようで、ワグナー男爵は、リリーに好きな本を読んでいいよと快く許してくれたので、リリーはその言葉に甘えていた。
「よく本なんか読めるな」
育てているトマトの苗の草取りをしながら、シリウスは、日陰で本を読むリリーに話しかけた。リリーは、本から顔を上げて、ええ、と頷いた。初夏のさわやかな日差しがシリウスに照りつける。シリウスは汗をにじませながら、しかし、だるそうではまったくなく、生き生きとした瞳で作業を続けていた。
「面白いわよ。シリウスも読めばいいのに」
「俺は本なんかからっきし。字を読み続けると頭が痛くなる」
「そんなこと言わないで、読みやすい本を探してあげるわ」
「遠慮する。俺は次男だから、勉強なんてしなくていい」
「でも、将来は家の仕事をするんでしょう?」
「兄さんがやるから、俺はその手伝いをするだけ。農作業の方が中心になるかもな」
シリウスは、そう嬉しそうに話す。そんな横顔を見つめながら、リリーは言葉が詰まる。彼の兄は、将来病気で亡くなってしまう。シリウスの口ぶりからすれば、彼が学校に入る直前のことなのだろう。彼は、彼の兄の死を境に、死にものぐるいで勉強を始める。それなら、今のうちから勉強を勧めるべきだろうか。しかし、そんな説明をリリーができるわけもないし、するべきではないことはリリーにもわかっていた。
黙り込んでしまったリリーに気がついて、シリウスは地面から顔を上げてリリーの方を振り返った。そして、少し黙った後、でもまあ、読むのも悪くないかもな、と言った。リリーは、え、と声を漏らした。
「また、おすすめを教えてくれ」
シリウスは、そう言うとまたトマトの苗の方に視線を戻した。おそらく、本を拒否したことを、リリーに悪いと思ったのだろう。そんなシリウスの不器用な背中を見つめて、リリーは小さく微笑む。
「それじゃあ、この本、【愛とはいずれ】を紹介するわ」
リリーは、手に持っていた本の表紙をシリウスに見せた。シリウスはそれを見ると、へえ、とつぶやいて、額に浮かんだ汗をぬぐった。そして立ち上がり、リリーの側に近づいた。
「これ、…兄さんがよく読んでいる本だ」
シリウスは、リリーの手から本を受け取ろうとした後、土で汚れた手に気がついて、後で受け取る、と伝えた。リリーは、ええ、と頷いた。
「読んでみる?」
「まあ。…時間がかかるだろうけど」
「お兄さんが好きな本だから、興味がわいた?」
「それもある」
「それも?」
シリウスは、視線横にそらした後、少し黙った。畑の方へ視線を逃がして、それからそちらの方を見たまま、なんでもない、と言った。リリーは笑って、なあにそれ、と言った。
「気になるわ。誤魔化さないでよ」
「…」
「言いたくないのならいいけれど」
「…君が、すすめた本だから」
シリウスはそういうと、またトマトの苗の方へ向かった。リリーは、そんなシリウスの背中を見つめる。リリーはゆっくり微笑むと、ねえ、とシリウスに声をかけた。
「今度、家族と別荘へ行くの。あなたもこない?」
「別荘?」
「前に話したでしょ。私の好きな湖があるって。あなたの瞳の色とそっくりな」
「ああ…。そんなところに、俺なんかが行ってもいいのか?」
「あなただから来てほしいの」
リリーは、ね、とシリウスに聞いた。シリウスは、少し考えた後、そんなに言うなら、と答えた。そんなシリウスに、リリーは微笑む。もうすぐ本格的に暑い夏が来る。それを予感させる風が、2人の間を通り抜けた。




