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はじまりのBLUE、エンドロールブルー  作者: 日高 章
 1 佐久間立夏《さくまりっか》 サファイア色の想い
9/9

 8 私の人生


 映像が止まり、立夏は気圧されたのか、背もたれに体を預けていた。

呼吸が荒くなっているのが、容易にわかる。


「なんで、こんな映像、私、見たくない。また、笑えなくなる」

「いいえ、それは違うわ」


 たまるが、言った。


「この空間も、映像も、心の底から笑うために、あなたが向き合おうとした結果よ」


 柔らかい口調が、ずぶり、と深くまで突き刺さる。

心臓を掴まれたような感覚に、立夏は必死に呼吸をくり返し、落ち着こうとする。

頭の隅に追いやった克服を、直視はもうできない。

桜の花びらを見るたびに薄れる記憶を掘り起こして、心を追いつめることは、自分のこれからを消すもののように感じた。

目前のモニターが、再び動き始める。

両親との思い出が、幼少期のあの頃の立夏が、網膜に焼きついたあのときの記憶が、再生されている。

淡い青のグラデーションの空間が、桜色に変わり始め、立夏は顔をしかめた。


『ねえ、りっちゃん。お母さんとお父さん、みんなでここで家族写真を撮りましょう』

『イヤ! だってお外寒いし、コタツでぬくぬくしてよーよ!』


 記憶が、色をもって目の前で再生されてゆく。

小さな幸せな頃の、幻影と声。


『肩車してやる。お父さんはな、ずっとお前のヒーローだぞ!』

『うん! でもお母さんのほうが偉いから、お父さんよりヒーローっぽいよ!』

『お、言うな! おりゃっ』

『だってお父さん、いつも喧嘩で負けてるじゃん! うわっ』


 あの頃の会話の声までが、すべてが聞こえる。


「やめて、やめてよ」


 立夏は思わず顔を両手で覆った。

しかし映像も、声も、止まる気配を見せず、鼓膜に音声だけが飛び込んでは、頭のなかで映像が蘇る。


『立夏さ、最近付き合い悪いよね、まあ、高校卒業したわけだしさ、次からもう誘わなくてよくない?』

『しーっ! 立夏、トイレから戻ってきちゃうよ』


 久しぶりに会った、同級生たちの心のない声。

なにも知らないくせに。


『キミさ、恋愛とかキョーミない系? イマドキじゃないよ。俺こんなに葵ちゃんに使ってるから、俺なら君を幸せにするよ』

『先輩って、不感症とかですー? アイリ心配。さすがに婚期逃しちゃいますよお』

『院内でウワサになってるんです。夜のお店で働いてるって。この間患者さんから』


 聞きたくない、聞きたくない。

全部、知らない。


「やめて、やめてよ! こんなもの、ねえ、アンタがやってるの? アンタがやってるんでしょ! 止めてよ、止めなさいよ!」


 気づけば立夏は身を乗り出して、たまるを睨んで叫ぶ。

しかし、予想外に茶色の瞳を揺らしているたまるの、柔らかな表情に、なにもできなくなる。

たまるは答えた。


「いいえ違うわ。これは、あなたが望んでいるからよ。ここはあなたの〈想い〉の世界。ここは本当の〈想い〉を知るための空間で、私はそれを受け止める〈想いの受取人〉」

「そんなの、意味がわからない!」


 なにを言っているのか、理解できることなどなにもなかった。


「無意識かもしれないけれど、立夏さんは〈想い〉を、記憶を、置き去りにした。でもその〈喪失〉の感情は、あなただけのものなの。あなたの、〈喪失〉なのよ」


 たまるの声は一直線で、柔らかくて、残酷だった。

一体なにが起こっているのか、やはり今でもわからないままで、立夏はその場でもう一度体を丸めて顔を両手で覆った。

忘れることが、怖い。

でも今更、思いだすことも怖い。

そういうものから、逃げた結果だった。


「わからない、わかりたくも、ない」

「すぐに帰れる、なんて騙して、ごめんなさい。でも私はあなたの力になりたいと思ったし、その過去は受け入れない限り必ず追ってくる。これは、本心よ」


 たまるの言葉は、正しかった。

立夏も本当はすべてわかっていて、それでも逃げようとした。

それも、中途半端に。

立夏は両手でこぼれそうになる感情に、フタをしようとした。

しかし、うまくはいかない。

冷静さとこの世に一人取り残されたような感覚との間で、立夏は言葉を紡がなくてはならなかった。


「私は、前に進まなきゃいけないの。進まなきゃ、なにも、できないから」

「そうね。でも今のままではいけないと、どこかで気づいた。だから、私たちはここにやってきたの。〈喪失〉の記憶と感情がなければ、人生が成立しないこと、人生の色を失ったことを立夏さんは知っているはずよ」


 返す言葉を失って、立夏は中指と薬指の隙間から、胸元に輝くサファイアのネックレスを見つめた。

途端に、あの頃の母の「私も立夏も、美人さんだからお父さん、幸せ者よ」が思い出され、病室で日に日に力を失ってゆく細い腕が思い起こされた。

すぐに視界がぼやけて見えにくくなった。

それが、立夏にとって、何年もの間、こらえてきた感情そのものだったと気づく。


「生きるためには、強くなければ難しい。この世界は甘くなんてない」

「そう、ね」

「私に選択肢なんて、なかった。頼れる人だっていなかった」


 誰も楽しくない選択など好まない。

そういう話題に触れること自体を、拒む人だっている。

立夏はネックレスを強く握った。

ゆっくりと視線を持ち上げると、家族で撮った新潟旅行のときの写真が表示されている。

立夏は左手で胸を押さえた。

ドク、ドク、ドク。

脈が速く、強く、動いていた。

そうだ、まだ、生きている。

この世界にいる限り、諦めるわけにはいかない。


 途端、モニターの映像が動き始めた。




『公園で子供たちを見送って、それから小児科から抜け出した少女が声をかけてきて、数日後のことでした。

私は、いつものように嫌がらせを無視して仕事をし、帰り際になると少女が話しかけてくるようになりました。『じょゆうさんみたい』の言葉を何度も繰り返し言うので、私は一つ、嘘を吐くことにしました。


「私は、実は魔女で、すごく悪い人なのよ」


 すると少女はこう言うのです。


「でも悪い人も一人は寂しいって思うでしょ? 実は私も悪い子なの」


 私は驚いて、一枚上手だな、と思いました。

なにせ、寂しいなんてとっくの昔に置き去りにしていたからです。

胸の辺りにじわり、と広がるものを感じました。

だからその日は少しだけ、寄り道をしようと思ったのです。

少女にこう、言いました。


「じゃんけん、しよっか。ユウちゃんが勝ったら、毎日話しかけにきてもいいよーってルールでどう?」

「怒らない?」

「うん」


 そうして私は負けたのです。

しかし私は毎日擦り切れるように生きていて、その約束のことなど一ヵ月もすれば忘れて、少女をあしらうようになりました。

それでも、少女は毎日声をかけてきていたのです。

一言も、あのときのじゃんけんの話は持ちださず。

決して私を責めたり、ののしったりもしませんでした。

実際、少女が毎日声をかけてくることに、どこかで安堵した自分もいたのかもしれません。

なにせ、喘息もひどく、時折私を見つけられないこともありましたから。

「先生、見つけた」

その日もまた、少女は声をかけてきました。

着替え終わって、外に出ようとしたときのことでした。

胸元を見て、少女はこう言いました。


「やっぱり、先生はキレイで、じょゆうさんみたい。そのネックレス、素敵だね」


 ひまわりの匂いを振りまきながら、笑顔で言うのです。

なぜでしょう、私はとても誇らしく思ったのです。

それから次の仕事に向かうまでの道中、たびたびネックレスを握って、その日も乗り切ることができました。


 私はその日、気づいたのです。

色んな出会う人たちから、様々な想いの色を受け取って、今ここにいることを。

サファイアのネックレスを握りしめながら、ここにいることを。

大切な人たちの〈想い〉を受け取って、生きてゆく。


 物にはそれぞれ想いが宿る。

私は今でも、母の形見である思い出のサファイアのネックレスをつけています。

サファイア色の想いを受け取って、そうして、毎日を必死に繋いでいっているのです。

そうやって、生きようと、しています。



 あの世に行ってしまった母と父に、私のいまが届いていると信じて』


〈物語・人生・空腹 喪失 佐久間立夏――サファイア色の想い〉


 *■*■*




「あの子との約束を、私、忘れて」


 病院で毎日のように声をかけてくるあの子との約束を、立夏は思いだした。

と、同時に立夏は自分自身の過去と重ねてしまう、あの言葉から逃げていたのだと、そう思う。


「私、病院であの子にちゃんと笑えてる自信がなくて、それで、避けてた。でもどうして今になってこんなに、助けられていたって思うのかな」

「俺も、たぶんアンタと同じで、なにかを失ったんだ」


 ぼそり、と答える低い声があった。

流星だった。

ぼんやりした視線を立夏に向けながら、彼は口を小さく動かし続ける。


「失うってことは、たぶん。忘れ物を探すような感覚に近いんだ。だからアンタも俺も、きっと探し物をしているんだろうな」


 彼の瞳が、揺れているのが見えた。

立夏は立ち上がった二人から視線を手元に戻し、ゆっくりと立ち上がる。

やるべきことが、一つ、見えたと思った。


「私、あの子に会って伝えなきゃ」


 この世界に永遠のものなどない。

けれど、約束を破るような人間ではありたくない。

立夏が手の甲で目じりを拭ったそのときだった。

目の前の巨大なモニターが、動き始める。


『ねえ、りっちゃん。私、こんな風になっちゃったけど、後悔してないのよ。だってあなたが立派に育って、人の気持ちに寄り添える子になってくれたんだもの』

『油臭いジジイになっても、俺はお前のヒーローだし、自慢の娘だ』


 入院中の母と、お見舞いに来ていた父の姿だった。


『私、お母さんみたいな人をサポートできるように、仕事、頑張るからね』


 あの頃の、立夏。

片付けられずにいた感情が、現実が、目の前に現れる。

母も父ももういない。

その現実から目を背け、自分自身の感情から逃げ続けていたと思う。

強さはなくとも、それを見るしなやかさは、もう充分ここにあって。

あるべき感情が、あるべき場所へと帰ってくる感覚があった。

立夏は奥歯を噛んで、視線をなんとか持ち上げ続けた。

胸元にあるサファイアのネックレスを握りしめる。

それだけで、大丈夫だと思えた。


「だけど、やっぱり、怖いの」


 立夏はたまるに助けを求めるように言った。

すると、たまるは座席の間を移動して近寄ってくる。


「大丈夫。誰だって怖いものだから。みんな、そうに違いないから」


 たまるの柔らかい声に、立夏は答えるべき言葉を見失った。


「私、あの子の前でちゃんと笑えるかな」

「きっと、大丈夫」


 明日、あの子に会いに仕事に向かおう。

立夏は右手でネックレスを握り続けながら、もう片手で視界を覆うモヤの正体を拭った。

指先に付着した化粧が、はり続けた仮面を溶かしていた。


「あー、情けない。私、お仕事前なのに、どうしちゃったんだろ」


 自然と唇の端が持ち上がり、しかし目から溢れる感情は止まる気配を見せない。

しかし立夏は思う。

いつまでも、自分の感情を知らない子どものままではいられない。

だから、下手くそだが温度のある顔を、二人に向けて、


「お化粧、直さなきゃダメね。でも、ホントによかった」


 いまにもつまずきそうな笑顔で言った。

カッコ悪くても、ダサくても、ありのままの笑顔を。

心からの笑顔を。

戻ってきたあの、失うということの恐ろしさや、記憶の温かさが、染みわたる。


「二人とも、会いに来てくれてありがとう」


 言って、立夏は中指で目頭をなぞって、もう一度笑った。

そして、無表情で冷たい視線の流星の瞳が揺れている姿が見えて、こう続ける。


「キミも取り戻せるといいね、いろんなものを」


 柔らかい笑顔が、うまく作れているかはわからない。

それでも、久しぶりの心の底から出た、自分だった。

彼に感じた既視感の正体が、今わかった気がした。

鏡に映る自分自身そのものだ。

色褪せた世界を見つめる、その表情そのものだと思った。




 あの淡い色の空間が溶けるように現実に戻って、立夏は仕事に向かう。

再びスタート地点に立った立夏の化粧は、落ちて見るに堪えなかったが、あらゆる感情を手放してはいけない。

一つ一つ、感情を捕まえて、今日を生きる。


 二人のために向けた笑顔が、確かに今日を彩ってゆく。

これからも、困難に立ち向かう彼女の道のりは続いてゆく。




 ――私の、私だけの人生ものがたり



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