8 私の人生
映像が止まり、立夏は気圧されたのか、背もたれに体を預けていた。
呼吸が荒くなっているのが、容易にわかる。
「なんで、こんな映像、私、見たくない。また、笑えなくなる」
「いいえ、それは違うわ」
たまるが、言った。
「この空間も、映像も、心の底から笑うために、あなたが向き合おうとした結果よ」
柔らかい口調が、ずぶり、と深くまで突き刺さる。
心臓を掴まれたような感覚に、立夏は必死に呼吸をくり返し、落ち着こうとする。
頭の隅に追いやった克服を、直視はもうできない。
桜の花びらを見るたびに薄れる記憶を掘り起こして、心を追いつめることは、自分のこれからを消すもののように感じた。
目前のモニターが、再び動き始める。
両親との思い出が、幼少期のあの頃の立夏が、網膜に焼きついたあのときの記憶が、再生されている。
淡い青のグラデーションの空間が、桜色に変わり始め、立夏は顔をしかめた。
『ねえ、りっちゃん。お母さんとお父さん、みんなでここで家族写真を撮りましょう』
『イヤ! だってお外寒いし、コタツでぬくぬくしてよーよ!』
記憶が、色をもって目の前で再生されてゆく。
小さな幸せな頃の、幻影と声。
『肩車してやる。お父さんはな、ずっとお前のヒーローだぞ!』
『うん! でもお母さんのほうが偉いから、お父さんよりヒーローっぽいよ!』
『お、言うな! おりゃっ』
『だってお父さん、いつも喧嘩で負けてるじゃん! うわっ』
あの頃の会話の声までが、すべてが聞こえる。
「やめて、やめてよ」
立夏は思わず顔を両手で覆った。
しかし映像も、声も、止まる気配を見せず、鼓膜に音声だけが飛び込んでは、頭のなかで映像が蘇る。
『立夏さ、最近付き合い悪いよね、まあ、高校卒業したわけだしさ、次からもう誘わなくてよくない?』
『しーっ! 立夏、トイレから戻ってきちゃうよ』
久しぶりに会った、同級生たちの心のない声。
なにも知らないくせに。
『キミさ、恋愛とかキョーミない系? イマドキじゃないよ。俺こんなに葵ちゃんに使ってるから、俺なら君を幸せにするよ』
『先輩って、不感症とかですー? アイリ心配。さすがに婚期逃しちゃいますよお』
『院内でウワサになってるんです。夜のお店で働いてるって。この間患者さんから』
聞きたくない、聞きたくない。
全部、知らない。
「やめて、やめてよ! こんなもの、ねえ、アンタがやってるの? アンタがやってるんでしょ! 止めてよ、止めなさいよ!」
気づけば立夏は身を乗り出して、たまるを睨んで叫ぶ。
しかし、予想外に茶色の瞳を揺らしているたまるの、柔らかな表情に、なにもできなくなる。
たまるは答えた。
「いいえ違うわ。これは、あなたが望んでいるからよ。ここはあなたの〈想い〉の世界。ここは本当の〈想い〉を知るための空間で、私はそれを受け止める〈想いの受取人〉」
「そんなの、意味がわからない!」
なにを言っているのか、理解できることなどなにもなかった。
「無意識かもしれないけれど、立夏さんは〈想い〉を、記憶を、置き去りにした。でもその〈喪失〉の感情は、あなただけのものなの。あなたの、〈喪失〉なのよ」
たまるの声は一直線で、柔らかくて、残酷だった。
一体なにが起こっているのか、やはり今でもわからないままで、立夏はその場でもう一度体を丸めて顔を両手で覆った。
忘れることが、怖い。
でも今更、思いだすことも怖い。
そういうものから、逃げた結果だった。
「わからない、わかりたくも、ない」
「すぐに帰れる、なんて騙して、ごめんなさい。でも私はあなたの力になりたいと思ったし、その過去は受け入れない限り必ず追ってくる。これは、本心よ」
たまるの言葉は、正しかった。
立夏も本当はすべてわかっていて、それでも逃げようとした。
それも、中途半端に。
立夏は両手でこぼれそうになる感情に、フタをしようとした。
しかし、うまくはいかない。
冷静さとこの世に一人取り残されたような感覚との間で、立夏は言葉を紡がなくてはならなかった。
「私は、前に進まなきゃいけないの。進まなきゃ、なにも、できないから」
「そうね。でも今のままではいけないと、どこかで気づいた。だから、私たちはここにやってきたの。〈喪失〉の記憶と感情がなければ、人生が成立しないこと、人生の色を失ったことを立夏さんは知っているはずよ」
返す言葉を失って、立夏は中指と薬指の隙間から、胸元に輝くサファイアのネックレスを見つめた。
途端に、あの頃の母の「私も立夏も、美人さんだからお父さん、幸せ者よ」が思い出され、病室で日に日に力を失ってゆく細い腕が思い起こされた。
すぐに視界がぼやけて見えにくくなった。
それが、立夏にとって、何年もの間、こらえてきた感情そのものだったと気づく。
「生きるためには、強くなければ難しい。この世界は甘くなんてない」
「そう、ね」
「私に選択肢なんて、なかった。頼れる人だっていなかった」
誰も楽しくない選択など好まない。
そういう話題に触れること自体を、拒む人だっている。
立夏はネックレスを強く握った。
ゆっくりと視線を持ち上げると、家族で撮った新潟旅行のときの写真が表示されている。
立夏は左手で胸を押さえた。
ドク、ドク、ドク。
脈が速く、強く、動いていた。
そうだ、まだ、生きている。
この世界にいる限り、諦めるわけにはいかない。
途端、モニターの映像が動き始めた。
『公園で子供たちを見送って、それから小児科から抜け出した少女が声をかけてきて、数日後のことでした。
私は、いつものように嫌がらせを無視して仕事をし、帰り際になると少女が話しかけてくるようになりました。『じょゆうさんみたい』の言葉を何度も繰り返し言うので、私は一つ、嘘を吐くことにしました。
「私は、実は魔女で、すごく悪い人なのよ」
すると少女はこう言うのです。
「でも悪い人も一人は寂しいって思うでしょ? 実は私も悪い子なの」
私は驚いて、一枚上手だな、と思いました。
なにせ、寂しいなんてとっくの昔に置き去りにしていたからです。
胸の辺りにじわり、と広がるものを感じました。
だからその日は少しだけ、寄り道をしようと思ったのです。
少女にこう、言いました。
「じゃんけん、しよっか。ユウちゃんが勝ったら、毎日話しかけにきてもいいよーってルールでどう?」
「怒らない?」
「うん」
そうして私は負けたのです。
しかし私は毎日擦り切れるように生きていて、その約束のことなど一ヵ月もすれば忘れて、少女をあしらうようになりました。
それでも、少女は毎日声をかけてきていたのです。
一言も、あのときのじゃんけんの話は持ちださず。
決して私を責めたり、ののしったりもしませんでした。
実際、少女が毎日声をかけてくることに、どこかで安堵した自分もいたのかもしれません。
なにせ、喘息もひどく、時折私を見つけられないこともありましたから。
「先生、見つけた」
その日もまた、少女は声をかけてきました。
着替え終わって、外に出ようとしたときのことでした。
胸元を見て、少女はこう言いました。
「やっぱり、先生はキレイで、じょゆうさんみたい。そのネックレス、素敵だね」
ひまわりの匂いを振りまきながら、笑顔で言うのです。
なぜでしょう、私はとても誇らしく思ったのです。
それから次の仕事に向かうまでの道中、たびたびネックレスを握って、その日も乗り切ることができました。
私はその日、気づいたのです。
色んな出会う人たちから、様々な想いの色を受け取って、今ここにいることを。
サファイアのネックレスを握りしめながら、ここにいることを。
大切な人たちの〈想い〉を受け取って、生きてゆく。
物にはそれぞれ想いが宿る。
私は今でも、母の形見である思い出のサファイアのネックレスをつけています。
サファイア色の想いを受け取って、そうして、毎日を必死に繋いでいっているのです。
そうやって、生きようと、しています。
あの世に行ってしまった母と父に、私のいまが届いていると信じて』
〈物語・人生・空腹 喪失 佐久間立夏――サファイア色の想い〉
*■*■*
「あの子との約束を、私、忘れて」
病院で毎日のように声をかけてくるあの子との約束を、立夏は思いだした。
と、同時に立夏は自分自身の過去と重ねてしまう、あの言葉から逃げていたのだと、そう思う。
「私、病院であの子にちゃんと笑えてる自信がなくて、それで、避けてた。でもどうして今になってこんなに、助けられていたって思うのかな」
「俺も、たぶんアンタと同じで、なにかを失ったんだ」
ぼそり、と答える低い声があった。
流星だった。
ぼんやりした視線を立夏に向けながら、彼は口を小さく動かし続ける。
「失うってことは、たぶん。忘れ物を探すような感覚に近いんだ。だからアンタも俺も、きっと探し物をしているんだろうな」
彼の瞳が、揺れているのが見えた。
立夏は立ち上がった二人から視線を手元に戻し、ゆっくりと立ち上がる。
やるべきことが、一つ、見えたと思った。
「私、あの子に会って伝えなきゃ」
この世界に永遠のものなどない。
けれど、約束を破るような人間ではありたくない。
立夏が手の甲で目じりを拭ったそのときだった。
目の前の巨大なモニターが、動き始める。
『ねえ、りっちゃん。私、こんな風になっちゃったけど、後悔してないのよ。だってあなたが立派に育って、人の気持ちに寄り添える子になってくれたんだもの』
『油臭いジジイになっても、俺はお前のヒーローだし、自慢の娘だ』
入院中の母と、お見舞いに来ていた父の姿だった。
『私、お母さんみたいな人をサポートできるように、仕事、頑張るからね』
あの頃の、立夏。
片付けられずにいた感情が、現実が、目の前に現れる。
母も父ももういない。
その現実から目を背け、自分自身の感情から逃げ続けていたと思う。
強さはなくとも、それを見るしなやかさは、もう充分ここにあって。
あるべき感情が、あるべき場所へと帰ってくる感覚があった。
立夏は奥歯を噛んで、視線をなんとか持ち上げ続けた。
胸元にあるサファイアのネックレスを握りしめる。
それだけで、大丈夫だと思えた。
「だけど、やっぱり、怖いの」
立夏はたまるに助けを求めるように言った。
すると、たまるは座席の間を移動して近寄ってくる。
「大丈夫。誰だって怖いものだから。みんな、そうに違いないから」
たまるの柔らかい声に、立夏は答えるべき言葉を見失った。
「私、あの子の前でちゃんと笑えるかな」
「きっと、大丈夫」
明日、あの子に会いに仕事に向かおう。
立夏は右手でネックレスを握り続けながら、もう片手で視界を覆うモヤの正体を拭った。
指先に付着した化粧が、はり続けた仮面を溶かしていた。
「あー、情けない。私、お仕事前なのに、どうしちゃったんだろ」
自然と唇の端が持ち上がり、しかし目から溢れる感情は止まる気配を見せない。
しかし立夏は思う。
いつまでも、自分の感情を知らない子どものままではいられない。
だから、下手くそだが温度のある顔を、二人に向けて、
「お化粧、直さなきゃダメね。でも、ホントによかった」
いまにもつまずきそうな笑顔で言った。
カッコ悪くても、ダサくても、ありのままの笑顔を。
心からの笑顔を。
戻ってきたあの、失うということの恐ろしさや、記憶の温かさが、染みわたる。
「二人とも、会いに来てくれてありがとう」
言って、立夏は中指で目頭をなぞって、もう一度笑った。
そして、無表情で冷たい視線の流星の瞳が揺れている姿が見えて、こう続ける。
「キミも取り戻せるといいね、いろんなものを」
柔らかい笑顔が、うまく作れているかはわからない。
それでも、久しぶりの心の底から出た、自分だった。
彼に感じた既視感の正体が、今わかった気がした。
鏡に映る自分自身そのものだ。
色褪せた世界を見つめる、その表情そのものだと思った。
あの淡い色の空間が溶けるように現実に戻って、立夏は仕事に向かう。
再びスタート地点に立った立夏の化粧は、落ちて見るに堪えなかったが、あらゆる感情を手放してはいけない。
一つ一つ、感情を捕まえて、今日を生きる。
二人のために向けた笑顔が、確かに今日を彩ってゆく。
これからも、困難に立ち向かう彼女の道のりは続いてゆく。
――私の、私だけの人生。
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