7 封じ込めた記憶
「どこ、なの。ここは一体」
意識が途切れた、と思ったその次の瞬間には、見知らぬ景色の中にいた。
立夏の目の前には巨大なモニターが映し出され、その背景には淡い青のグラデーションが見える。
チカチカ、と青い光が反射している中で、立夏は何列も並んだ椅子の一つに腰かけていた。
まるで最新体験型の映画館のような空間に、立夏は思わず立ち上がって、周囲を見渡した。
たまると流星が少し離れた席にいる。
立夏はひとまずモニターをもう一度見た。
そこには、唯一知っていることがあった。
「なん、なの、コレ」
〈物語・人生・空腹 喪失 佐久間立夏――サファイア色の想い〉
それは、自分のフルネームだった。
「どういう、ことなの。なにをしたの!」
「ここは、夢のような場所だ。出ることも、入ることも普通はできない」
真っ先に立夏の疑問に答えたのは、それまで沈黙を保っていた流星だった。
彼はぼやけた冷たい視線を立夏に貼りつけている。
彼の表情に、立夏は既視感があった。
しかし今はその正体を探るよりも、ここがどこかということのほうが先決で。
「流星くんの言う通り。ここはあなたの〈想い〉を受け取るための場所。映像が始まるわ。座りましょう」
「納得できる説明をして! 私になにをしたっていうの!」
思わず声を荒げて言って、なんとか冷静さを保とうとする。
立夏の問いに答えたのは、たまるではなく流星だった。
「なにもしていない。驚いているんだろうが、言うことを聞いたほうがいい。アンタが求めた結果なんだから」
「どういう、意味?」歯切れの悪い言葉に、立夏は目を細める。
「これまた流星くんの言う通り。元の日常に戻るために、必要なことよ」
たまるは椅子に座ったままリラックスした様子で立夏を見つめ、言った。
二人の言葉になんの保証もなければ、ナビもない。
そもそも、出勤時間が近づいている。
急がなければならない。
不意に、足元の藍色のヒールに視線が落ちた。
熱帯魚のような影が、ヒールの真下をくぐる。
立夏は視線の行き場に迷い、出口を探した、のだが、非常口すら見当たらない。
行き止まりもあることはわかるが、永遠に果てしない道のりの途中のような、逃げ場のない空間に、いったん視線を彼らに戻す。
「見たら、帰れるのね?」
「ええ。保証するわ。元の日常に、戻れるわ」
「わかった、わ」
納得をしたつもりもないが、そうする他に手段がないと判断した。
立夏は肩にかかるほどの髪をかけたのち、耳の裏側のあたりに手を当てたまま腰かける。
浅めに着席をしたところ、急に空間の光が薄まって、モニターの映像が切り替わった。
それは懐かしくも手放してはいけない記憶の映像たちだった。
*■*■*
物語・人生・空腹 喪失 佐久間立夏――サファイア色の想い
『私の人生の時間に、緩急はあっても、休まる時間が今後は用意されていないのだと悟ったのは、母が亡くなって、父が去って、それから五年もの月日が流れてからのことでした。
私は昼の仕事を終え、次の職場に向かうために公園を横切っていました。
その日は炎天下で、熱中症アラートが出ていましたから、子供たちが遊んでいる様子を見て少し心配をしていました。
子供たちの黄色い声が飛びかっています。
大丈夫なのだろうか、と思いながら横目で流し、通り過ぎようとしたときでした。
サッカーボールが転がって、私の足にトン、とぶつかって止まりました。
ボールを返して、終わり。
見て見ぬふりをして終わり。
普段と変わらぬ乾いた世界、そのはずでした。
ボールを拾い上げて軽く放ったあとの、少年少女たちの言葉に、私は必要以上に吸い込まれるなんて、予想にもしていませんでした。
「お姉さんのそのネックレス、キレイだね!」活発そうな少女の声。
「お前、ネックレスだけかよ!」
「違うよ、お姉さんがつけてるから余計にキレイなんでしょ!」
私は反応に困りました。
東京の真ん中というのは、素通りする場所のはずですから、足を止めるなんてことをしたら、不審者扱いされてしまう。
そう、私は思いました。
しかしどういうわけか、彼らは近づいて来て、一瞬にして私の周りにはたくさんの子供たちが集まっていました。
あたふたするしかできなかった私に、彼らは無邪気な笑顔を向けてきました。
ただの世界の気まぐれに、私は付き合うことにしました。
膝を折って、彼らと同じ目線になると、目に映るすべてのものが変わったような、そんな気すらしました。
すると、女の子が言いました。
「お姉ちゃん、『じょゆうさんみたいだね』!」
私はびっくりしてしまったのです。
昔私が母に抱いたあのときの憧れの結果、口から飛び出した言葉を、そっくりそのまま言うではありませんか。
途端に、気丈で煌びやかに着飾った母の姿が頭の中に浮かびました。
しかし私は、それを拒むように振り払います。
そうでもしなければ、私は崩れてしまう、そういう状況だと本能が知っていたのでしょう。
「今日は暑いから、熱中症には気をつけてね。お水も飲むんだよ」
そう言って、私は彼らが再びサッカーボールで遊び始めるまで、見守っていたのです。
彼らの興味が、彼らの世界に戻るまで、そう時間はかかりませんでした。
不思議な気持ちにさせられ、私はまた、私の元の乾いた世界に戻ってゆきました。
そんな折でした。
病院で、小児科に入院してきた少女が、ひまわりの匂いをふりまいて、こう言ったのです。
「ねえママ、綺麗な先生がいる! 『女優さんみたい』」
私は最初、自身に対して言われていることに気がつきませんでした。
それから見かけるたびに、私に『女優さんみたい』を言うので、とうとうこう言いました。
「また小児科から抜け出してきたの? それに、私は、看護師だから先生じゃないの」
都内の大学病院でしたから、色んな患者さんとすれ違います。
私は少女を軽くあしらって、仕事が忙しいからと言ってその場を離れ、避けるようになりました。
子供の無垢な笑顔というのは、どうしても。
あの頃を連想させてしまいますから。
昼夜、張りのない仕事をこなしては、泥のように眠って仕事に向かい続けます。
私は毎晩自分自身を呪いました。
どうか、あの子たちが私のようにはならないでください、と。
心の底から笑うことを、忘れないでいてほしい、と。
足元に散らばった桜の花びらの死骸たちを眺めるたびに、両親の死が遠のいている。
それに恐怖をしながら、私はいつの間にか、克服というものを分かった気になっていました。
本当は、私も気づいています。
心の底から笑うために、過去を振り返り、受け入れなければならないことを。
大切な記憶たちを、噛みしめることしか、生きている人間にはできないことも』
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