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はじまりのBLUE、エンドロールブルー  作者: 日高 章
 1 佐久間立夏《さくまりっか》 サファイア色の想い
6/9

 5 記憶と帰路

 *久*■夏 過去*出■事


『覚えていないとは到底言えません。

その日は、風が強く、桜吹雪が舞う日でした。


 私は、まだ慣れていない仕事を終え、帰ろうとしたところでした。

スマホがバイブレーションで着信を知らせ、耳に押し当てた端末が落ちました。

拾い上げたときには、画面にヒビが入っていましたが、それどころではありませんでした。

母は気丈で、元気なはずです。

ですが、駆けつけた病院で知らされた「ステージ3」の意味を、私はよく理解していました。

なにせ、私は病院勤務で看護師になったばかりだからです。

それからほとんど毎日、母の病室に向かうことになったのです。

病室ではいつも機械油のにおいがして、日々痩せてゆく母は、入院から二か月もなくして無言の帰宅という結果となりました。

葬儀場で初めて気づきます。

母を勇気づけていた父でしたが、末期まで病に侵された母と比例するようにして、父の体も痩せ細っていたことに。

それから、父の酒量は増えました。

けれども決して暴れるようなことはありません。

ただ、ただただ無言で、視線を伏せている父に声をかける方法は私にはありませんでした。

骨と皮だけになった父が線路に誘われるまで、それほど時間はかかりませんでした。

空っぽになったリビングに、私は一人立ち尽くしました。

窓から、秋口の少し肌寒い風が吹き抜けていました。

気丈だった母があっさりとこの世を去り、父は秋風にそそのかされるように駅のホームから踏みだしました。

こうして、私は一人になったのです。

母の病院の治療費の明細書に、二人分の葬儀代、想い出の家すら売り払う結果となり、私は居場所がないように感じられました。

どこにも帰る場所もなく、休まることもなく、かかる費用を捻出するために、多額の借金を返済するために、私は夜の仕事とかけ持ちをして、体に無理を強いるほかありませんでした。

私を守ってくれる人は、この世にもういないのです。

冬木立が最後の葉を落とすのを見たとき、ふとたどり着くのは、もう少し父の異常に気づくのが早ければ救うことができたのではないか、そういう考えでした。

否。

真冬は正直でした。

そんな現実など、もうあり得ないのですから。

季節がめぐるたび、次第に交友関係も減ってゆきました。

同級生たちと時間が合わず、疎遠になってゆくのがはっきりとわかりました。

私はそれでも働くしかありません。

私は永遠のものなどこの世界のどこにもないことを思い知らされました。

友情ですら、家族ですら、居場所ですら』


 *久*■夏 過去*出■事




 立夏は現実と夢の間のような映像に、頭を押さえていた。

長いような、一瞬のような、時間経過がわからない。

まだ残る頭痛に、立夏は時計を見つめる。

午後一時十六分。

まったく時間は進んでいない。

立夏は額と背中に、じわり、と気持ち悪い汗が流れた。


「いまさら、どうして思いだすっていうの」


 まだ、ここで手折れるわけにはいかない。

まだ、働かなければならない。

染みついた強迫観念が、体を動かし続ける。

まるで、コクピットから体を操縦しているような感覚だ。

もう記憶も薄れ、克服したと思っていた過去が、鮮明によみがえる。

立夏はシャツのポケットの内側に着けたままのネックレスを握って、廊下に出る。

仕事を、しなければ。お金を、稼がなければ。


 それから立夏は定時の時間までをなんとかくぐり抜け、一足先に仕事を終えようと挨拶をした。


「おつかれさまです。定時なので、あがらせていただきます」


 立夏はいつもと同じように院内のカウンターの中でスタッフたちに会釈して言った。

しかし看護師たちは立夏をじとり、と見つめたのち視線を逸らす。

立夏はそのまま踵を返して歩きだすと、聞こえるか聞こえないくらいの声で、


「佐久間さん、いつも定時であがってさ、私たち残業してるの知っててよく帰れるよね」

「あれでしょ、歌舞伎町で男にお酒作るのに忙しいんでしょ」

「聞いた聞いた、ヨネイさんの採血のとき」

「いまどきの子よね、ホント。ひと昔前じゃ通用しないわよ」


 好き放題に言う声にはもう慣れた。

立夏はそのたびに思う。

彼女たちにいくら事情を説明したところで、表面的な薄い善意の声と、挙句には手のひらを返されるのだろう。

そもそも歌舞伎町で働いているのは事実なので、否定のしようはない。

更衣室までの道で、今朝声をかけてきた幼い少女が立っていた。

ウサギのぬいぐるみを抱いて、立夏を見つめて、


「美人さんの先生、お仕事終わりなの?」


 ひまわりのにおいがした。

立夏は気づかれないように軽く吐息をもらす。


「ユウちゃん。私は先生じゃなくて、看護師なの。それに、お仕事は終わりだけど、」

「それならお茶でもしませんこと?」


 少女は大人びた言葉で言って、小さな歩幅で距離を縮めてきた。


「今日はね、急がなくちゃいけないの。お姉さん、まだやることが残ってるから」

「お紅茶飲むくらいの時間もないの?」


 少女の表情が、ひまわりから夕方のしぼんだ朝顔みたく変わった。


「ごめん。行かなきゃ。また明日ね」


 立夏は軽くあしらうように言って、再びきびすを返す。

今の立夏に他人を配慮する余裕などない。

手早く着替えを済ませて鞄の中に制服を詰めて守衛室を後にした。

外に出ると、昼間の熱気が残っており、すぐに汗が噴きだした。

立夏は顔をしかめることもせず、足を止める暇はないと判断し、歌舞伎町へ一直線に向かう。

耳に押し込んだエアポッズから流れるPerfumeの新曲が、外の世界との繋がりを切り離してくれた。

いつもの道順を、いつものように通り抜ける。

パンプスに、細身のシルエットのジーンズを履いた脚が前に進む。

ハリボテの自信を身に着けながら、虚勢を隠して向かった先で、公園にさしかかった。

普段となにも変わらない街路樹と遊具。

子供たちは学校帰りだろう、ランドセルを背負って走り回り、その様子を立夏はなんとなく、見つめていた。

なにかが懐かしい。

しかし記憶の片隅にある見たことのある光景を、直視できない。

立夏は足を止めていた。

胸元にかけたサファイアのネックレスを自然と握る。

途端、三度目の頭痛があって、今度は頭を押さえるよりも先に、映像が飛び込んできた。




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