1 日常
ナースステーションの内側では、情報がいち早く、シナプスのように伝達する。
「ちょっと新聞見た? このあいだの殺人事件の犯人、まだ捕まってないんですって」
「みたみた、弁護士が殺された通り魔のやつでしょ? うちもさ、下の子が学校から帰って来るの迎えにいくことにしちゃった。だって怖いじゃない」
左手を口元に当て、もう片方の手を振りながら話をする女性看護師たちから、佐久間立夏は視線を切った。
他人の噂話に花を咲かせ、話題がなくなればSNSやニュースから話題を無理矢理引っ張って、そういう光景はここではよくあることだ。
そういう現象みたく、立夏は通り過ぎる風景としてしか見ないことにしている。
「あ、先生見つけた! 今日こそ私と一緒に遊びましょうよ」
廊下を抜けようとした瞬間、立夏の背中に小さな声がした。
立夏は足を止め、胸で呼吸をしながらゆっくりと振り向いた。
黄色い声、やはり、いつも声をかけてくる少女だった。
「ねえユウちゃん。私はただの看護師で、先生じゃないのよ」
「でも、『じょゆうさんみたい』に綺麗だから、いつもの先生よりも好きだもん!」
小児科から抜けてきたのであろう、少女はひまわり色の明るんだ笑顔を向けて言った。
立夏は、即座に答えられない。
過去の記憶を想起させる『じょゆうさんみたい』という言葉は、動揺を誘うには充分なものだった。
わずかに間を置いて立夏は答える。
「ありがとう。でも私お昼ご飯食べなきゃだから。また今度遊ぼうね」
ええ、いじわわる、の言葉に、少女は渋々うなずいて、小さな歩幅で離れてゆく。
その先には、少女の母親であろう、女性が会釈していた。
立夏も軽く頭を垂れて、精巧な笑顔を二人に送った。
我ながら、よくできた笑顔だ、と考えながら踵を返す。
立夏は足を踏みだしながら表情を元に戻した。
患者に向ける笑顔と、すれ違いざまに交わす会釈は借り物だ。
光沢のあるリノリウムの床に溶けた本音と、張り付けた表面上の仮面はどちらが本物か。
廊下には、空調よりもずっと冷たい立夏の視線が一直線に伸びている。
スニーカーの踵を冷たく響かせた。
立夏は更衣室で荷物を手に取り、カーディガンを羽織って、大事にしているサファイアのネックレスを着け、守衛室を後にする。
「空にも色はないのね」
カラっとした晴れ空を仰ぎ、立夏は乾いた声でつぶやいた。
首を戻すと、不意に裏口のガラスの映り込みに見えた自分が目に入った。
白い看護師の制服に、紺色のカーディガンを羽織って、髪をアップでまとめた薄化粧の姿。
疲れ切った顔が、かつて子育てに疲弊した母と似ている、と思った。
しかし、決定的な違いがあった。
それは、無機質な借り物の顔をしているような、気持ち悪さ。
スマホが、今だ、と言わんばかりに通知を知らせる。
〈葵さん、お疲れさまです。今日、出勤枠が空いて、出られたりしますか?〉
スマホの画面には蜘蛛の巣状にヒビが入っていた。
その画面に、ウェンズデイ鈴木さんからショートメッセージが届いている。
立夏は、『葵』というもうひとつの顔で返信を送る。
〈わかりました。十九時にはお店に行きます。ありがとうございます〉
端末をしまって、再び足を踏みだそうとした、そのときだった。
明らかに、立夏を見つめている視線が二つ。
短髪の制服姿の男に、前髪を切りそろえた黒いセーラー服の女子高生。
「高校、生?」
立夏は足を進めることにした。
その途端、頭の中に、車が突っ込んできたような痛みが走る。
視界がグラついて、思わず壁に手をもたれた。
「頭が、え、痛い、」
頭を押さえながら浮かんだのは、過労の単語だった。
しかし、次の瞬間にはノイズ混じりの映像が直接頭に流れ込んできて、鼓膜の奥の奥で響きはじめる。
ザ……。ザザ……。