0 はじまりのブルー
〈七月二十日 午前八時三十分 山手線〉
ざらついた体に、でこぼこした感情、それから二つの水晶体と、およそ七十パーセントの水分。
安里流星も同じであったはずなのに、でこぼこしたものがなくなって、平面図形みたく、なっている。
流星は今、通勤ラッシュを終えた山手線に揺られている。
座席の横のスペースで掴みを握り、窓の外をただ見つめているのだが、東京の街並みを見ていると、家に置いている水槽の中が思い出された。
名前すら忘れた色鮮やかな熱帯魚五匹が泳いでいたが、今朝、熱帯魚だったソレを一つ、処分した。
さすがに水が腐ると判断したからだ。
ただの作業工程。
エサやりも、熱帯魚だったモノの処理もまた、しなければならないこと。
そう、彼女に言われている。
アナウンスと共に、山手線が大塚駅へと到着を知らせ、彼女の家へと足を進ませた。
炎天下の道をいつもと同じ道を歩くと、アパートを前にした。
一階の閉店したブティックの汚れた造花が、いつまでも寿命を迎えられず死んだように生きている。
流星はその脇の細長い通路を抜けて、木製の扉を開けた。
「笠井たまる」
流星の声と共に、汗で貼りついたシャツに冷気が触れた。
「笠井たまる」
応答がない。
代わりに、玄関の靴箱の上に無造作に置かれた骨董品と、東南アジアで信仰対象になっていそうな謎の置物が流星を見つめる。
流星はバンズのスニーカーを脱いで勝手にあがる。
裸の女性の絵画の横を抜け、姿見が見えて足を止めた。
短く整えた髪に、虚ろな瞳があった。
チェック柄と紺色の高校の制服のパンツに、青みのある半袖シャツ。
自分の映り込みであることは確かだが、やはり他人の顔を借りているような感じだ。
いつも、ここで立ち止まることに、特別意味はない。
それでも、今日もまた姿見を見つめている。
ふと、自分の姿を見つめてしまうのだ。
「笠井たまる」
流星はもう一度名前を呼んだ。
今日は応答がない。
真相を知るべく、障子の扉を開いたところ、座布団の上で正座をしながら陶器を手にしている彼女の姿があった。
「フルネームで呼ばれるほど、私たちにはまだまだ距離があるのね」
陶器から立ち上がる湯気に沿って、長いまつ毛を持ち上げながら彼女は流星を見つめて言った。
前髪を切りそろえたストレートの黒髪に、セーラー服姿。
見慣れた彼女の姿に、流星はどう反応をするのが適切かわからず、点を見つめるみたいに彼女を見た。
「いいのよ。別に責めているわけではないから」
言って、彼女は陶器を薄い唇にそっとつけて、中身をゆっくりと口に含む。
彼女の肩越しには木製のテーブルがあり、『世界の青』という本が閉じられている。
その横に、彼女が愛してやまないバタフライピーが淹れられた透明なティーポットが見えて、その脇にある棚にはティーカップが並べられている。
流星は彼女がこのカップたちを使っている姿を一度もみたことはない。
「流星くん。珍しく顔色がすぐれないみたいだけれど。なにか変化があったのかしら」
「わからない。だけど、シャツが汗で濡れて不快だと思ったんだ」
強風に設定されているのだろう、冷房の空気が心地よいぶん、貼りついた汗が気持ち悪い。
そのことを伝えたところ、たまるは頬を持ち上げて言った。
「そういう感覚が戻ってきているのはいいことよ。流星くんから不快なんて言葉が出るとは、少し予想外だったわ」
座布団の上で正座を崩し、茶色の陶器を再び口に近づけて、たまるはなにが面白いのか笑っている。
流星にはわからないことだ。
薄く開いた目で彼女を見つめると、陶器を置きながら彼女は黒髪を耳にかけた。
たまるは背中に隠れていたキーホルダーを手に取って、いくつか連なった鍵を揺らしながら続ける。
「〈不快〉は〈恐怖〉のキーホルダー。ほかにも〈嫌悪〉〈忌避感〉、挙げたらキリはないのだけれど、キーホルダーは全部ぶら下がっているわ。これから流星くんはさまざまな感情を取り戻し、手にした鍵で扉を開いてゆくし、都度、気にすべきことも増える」
言って、たまるは手にしたキーホルダーにぶら下がった鍵たちをジャラリと鳴らした。
「それについてはどう?」
どう、という言葉に流星は返答に困る。
「俺にはわからない。知らない映画の感想を言えって言われてる気分だ」
「一番最初に獲得した〈ユーモア〉に関しては心配なさそうね」
流星は沈黙で返すのだが、たまるはなにやら一人、納得したようなうなずきを見せる。
「私の家に来てもらう理由は二つ。一つはリハビリと経過観察。二つ目は、感情を取り戻しに行くお仕事。今日は後者よ」
「また、あの景色を見るのか」流星はようやく聞き返す。
「そう。三つの感情を手にして、今日また新たに変化をすればきっと見えるものも変わるはず」
「それはつまり、〈想いの受取人〉の、お手伝い」
「ええ。そして流星くんは理解する。新たに抱えていたはずのものを取り戻すことになる」
抱えた空白、という言葉が理解できず流星はただ沈黙を返す。
たまるは満足気に陶器の中に入ったバタフライピーを再び一口含む。
それから一拍置いて、彼女は唇を緩やかに動かし始めた。
「この世のありとあらゆる想いはこの明け方の青に向かって、そこからまた旅立つ。それはまるで、この星に生きていることを教えているような、人生を模しているような気さえする。この言葉の意味が、きっと最後にはわかる。保証するわ」
彼女の言い切るときのその眼差しに、青い炎に、流星は何も言えなくなる。
流星をチラリと見つめたたまるは、ゆっくりと立ち上がり長い黒髪を揺らしながら訊いてきた。
「ところで、熱帯魚を一緒に買ったわけだけど、元気にしているかしら」
たまるの言葉に流星は小さくうなずいて答える。
「そう。よかったわ」
彼女の言葉はどこか細かったが、流星はただ視線を一点に張りつけていた。
理由はわからずとも、彼女から目を逸らせない、そんな気がしたからだ。
「さて、それでは出発しましょう。彼女の〈想い〉に触れ、流星くんはまた一つ、鍵を手にする。楽しみね」
安里流星は、切り離した心をもう一度手にする。
それが笠井たまると共に行動する理由であり、彼女に導かれる唯一の繋がりだった。