遺族 1
——降誕礼典。
6日後に控える祝典を前に、街は俄かに色めき立って見えた。
それは聖アレス教会が執り行う勇者生誕の儀式。六百年前の人魔大戦を勝利に導いた大勇者の加護を授かることにより、教会に選ばれた英傑は礼典を以て勇者へと生まれ変わる。
クレイト遺跡の調査により四天王アーゾルグの討伐が公式に確認された後、教会は白金級冒険者ルシア・シュティーレを正式に新たな勇者——第42代勇者に定めた。
それからおよそ3週間。連日のように教会の重鎮や各国の要人がゲラーレンを訪れ、都市はちょっとした人類の坩堝になっている。今日、世界中の注目が彼女に集められていると言っていい。およそ七年に渡る戦争において、負け続きの人類が得た初めての勝利なのだ。不死に思われた四天王、不落の牙城、その一角が到頭崩されたのだ。誰もがその英雄を一目見ようと、熱を上げていた。
◇◇◇
「そんな間の抜けた顔してていいのか?」
隣に座る勇者様は、すっかり気を抜いた様子でぽかんと空を見つめていた。期待していた英雄のこんな姿を見たら、遠路遥々やってきたお偉方はどう思うのだろうか。
中央公園。
その名の通り、ゲラーレン中央区の中央、都市の真ん中に設置された市営の広場では、礼典に向けて、今日も男達が舞台作りに勤しんでいる。
「マフラーで隠してるんだから、わかんないでしょ」
「じゃあ、そのだらしない座り方をやめたらどうだ」
ベンチに脱力して寄りかかり、背もたれの縁に首を引っ掛けて空を見上げている。夜勤明けの肉体労働者だろうか。
「疲れたの。人多すぎて」
大通りの賑わい様は、ゲラーレンに移住してから見た事もない程だった。貴賓の馬車が度々通り掛かり、見知らぬ装いの人々が行き交う。大通り沿いの商店は、この商機を逃すまいと声を張り上げている。典礼まで1週間を切り、貴賎を問わず来訪者はますます増えている。帝都フェルベンを彷彿とさせる繁華だ。
「そんなに人混みが嫌いな性質でもないだろ」
「なら、ずっと顔隠していたら? なんか探ろうとする人達もいるし……」
彼女の言う通り、大通りを少し歩くだけでも、物陰から人混みを観察する不審者が見受けられた。
おおよそどこかの密偵か何かだろう。どの勢力にしても、いち早く勇者と接触したいのは間違いない。現状、ルシアは冒険者ギルドの傘下にあるが、条件次第では引き抜ける可能性もあるのだ。
「……ご苦労様」
「わかったならいいよ。で、この後はどうするの?」
エルノートへの聴取は終えたが、太陽はまだ天頂に達してまもなく、時間は大いにある。ガロス区貧民街に向かうのは明日にするとして、それ以外への聞きこみは終わらせたいところだ。
「……ローサムさんの家へ行ってみよう。アポは取ってないけど、ルシアがいれば大丈夫だと思うし」
「ねぇ、私のこと、面会状か何かだと思ってない?」
「そんなこと、畏れ多くて思えないよ」
シグウェ・ローサムの家があるコルク通りは、ここから歩いてほど近いところにある。中央広場から東の方向に数分行けば、閑静な住宅街に差し掛かり、その大通り側の端の、南に伸びる通りがそれだ。大商会や教会等、中枢機能が集まる大通りにアクセスが良いだけあって、言わずと知れた高級住宅地であり、整備された白い石畳が目立つ。立ち並ぶ家屋は、どれも2,3階建ての豪邸だ。
その隅にある、他の建築と比べるとやや見劣りする小柄な一軒家が、ローサム家だ。おそらくは、使用人も雇っていないのではないだろうか。
「じゃあ、頼んだ」
「はいはい。まあ、これくらいは手伝うよ」
ルシアはそう言って、玄関の横に設置された魔力感応式の呼び鈴に触れる。一定時間触れることによって、石板が魔力を検知し、内部の者に来客を伝える。果たして、反応はすぐにあった。
「はい」
玄関の扉が開き、下瞼に隈の目立つ女性が姿を現す。エプロン姿で髪を結いあげた格好で、年齢は30代ほどに見える。失踪したシグウェの年齢は34歳。おそらく彼の妻だろう。
「どちら様?」
「初めまして。『金鬛』のルシア・シュティーレと申します。シグウェ・ローサムさんの失踪についてお話を伺いたいのですが……」
ルシアは冒険者証を提示し、マフラーを軽く下にずらす。
「ルシア・シュティーレ……って、もしかして勇者様ですか?」
「正確には、まだですが」
彼女は軽く苦笑してみせる。
「……わかりました。そちらの方もご一緒ですか?」
「よろしければ」
「……どうぞ上がってください」
それだけ告げて、玄関の扉も開けっ放しに女性はすぐに奥へと消えた。疲労感の滲む、もっと言えば少し鬱陶しげな動作だった。
俺達は顔を見合わせて、彼女の後に続いた。
「あなた達、少し部屋で遊んでいて」
リビングルームでじゃれ合っていた子供に向けて、女性は言った。5,6歳で遊び盛りの少年が二人。「わかった!」と一方の少年が大きな声を上げて駆け出し、残された少年が慌てて後を付いていく。
「そちらに掛けてください」
その更に奥の食堂。四つの座席の置かれたダイニングテーブルの隣り合った二席に、俺達は案内された。
彼女は、木製のカップに水を注いで此方に差し出すと、対面に座った。
「ご丁寧にありがとうございます。紹介が遅れました。ルシアと一緒に事件捜査に携わっている、冒険者のユーレ・クライデです」
「シグウェの妻のヒルダです。要件は夫の失踪でよろしいでしょうか?」
ヒルダさんは自ら本題に触れてきた。あるいは、彼女も早めに話を終わらせたいのかもしれない。
チラリと見た室内は、家具の寡少が目立つ。
「はい。幾つか質問をさせて欲しいのですが」
シグウェ・ローサム。
先月16日に失踪した3人目の被害者。30代前半の若さにして、公爵のパーティーに呼ばれる程の腕利きのヴァイオリン奏者。七年前に妻と結婚し、二人の子供を授かってラグズ通りに一軒家を構える、紛れもない成功者。一見した限り、彼に失踪の理由は見当たらない。
「構いません」
「然程お時間は取りません。単刀直入にお聞きします。失踪の前夜、シグウェさんの様子がおかしかったとお聞きしましたが、詳しく教えていただけますか?」
「はい」
ヒルダさんは、首から吊り下げられたブローチを握りしめ、そして話し始めた。
「——夫は真面目な人でした。『才能に胡座をかいていてはいけない。私が慢心していたら叱ってくれ』と常日頃から口にするような人でした。そういう性格でしたから、大きな舞台の演奏があるときには、とりわけ練習に勤しんでいました。前日なんかは日付が変わる頃まで演奏しているものですから、早く寝てくれと、よく文句を言っていました」
ヒルダさんは一旦話を切り、大きく息を吸った。
「素敵な旦那さんですね」ルシアがそう口にした。
ヒルダさんは少しだけ目を丸めた。
「はい。とっても。……ですが、その日は違いました。失踪の前日、15日の事です。その日、夫は翌日公爵家で行われる公演のリハーサルの為に、公爵様のお屋敷を訪れていました。家に帰ってきたのは、夕方の5時くらいだったと思います。私は当然のように彼が書斎に籠って演奏を始めるものと思っていました。しかし、書斎に向かったはいいものの、一向に演奏は聞こえてきませんでした。不思議に思って様子を確かめに行くと、夫はヴァイオリンをほっぽって本を読んでいました。それも音楽とは全く関係のない娯楽小説です。私はそれで頭にきてしまって。何をしているのかと怒鳴り声を上げました。——そうしたら、夫は『お前こそ、一家の主人に向かってなんて口ぶりだ!』と怒鳴り声を上げて。私の頰を張りました」
ヒルダさんは左の頰を手で押さえた。おそらくは、張られたというその頰を。
微かに震える手を見ながらも、俺とルシアは何も言えなかった。
「…………夫は本当に優しい人でした。出会ってから、手をあげるどころか怒鳴ることすらありませんでした。ですから、私はとても動揺してしまって。ただただ怯えて、座り込んでしまいました。夫はそんな私を黙って見つめていました。まるでネズミを観察しているような、冷たい目で。またぶたれるのではないかと、身を固くしていると、突然『ごめん、ヒルダ。今日はちょっと体調が悪くて。演奏も出来そうにない』と謝りました。突然過ぎて、私にはもう訳がわからなくて。それから、ただ言われるがままにリビングに戻って。夫はいらないというから、3人分の夕食を作って。そうしてすぐに寝室に入りました。……書斎の前を通るのさえ怖かったです。寝室でもいつ夫が入ってくるのかと怯えましたが、結局その夜夫は寝室へはやって来ませんでした。ヴァイオリンの音も聞こえませんでした」
ヒルダさんは再び話を切った。
自分の身体を抱くように、両腕を押さえていた。
「翌朝、夫は平然とした顔で食堂にやってきて、言いました、『今日の朝食はいつもより美味しいね』と。作られたような笑顔を浮かべて。……普段通りの行動といえばそうですが。ごめん、の一言もなく。昨日のことなどなかったように振舞う姿は、正直……気味が悪かったです。それから、私は気力を振り絞るように夫を見送り、そしてその後、夫が帰ってくることはありませんでした」
予め用意されていた言葉を話しているように、感情的に見えて、彼女の話は整然としていた。それは事実そうだったのかもしれない。
数分話しただけで、彼女は目に見えてわかるほど憔悴して、一段と隈が濃くなったように思えた。
「……ありがとうございます」
どうしようかと頭を悩ませる。
全容を聞くことができたが、疑問点は多い。だが、不用意な質問で、彼女の精神状態が悪化するのも避けたい。
そんな沈黙を破ったのはヒルダさん自身だった。
「あの、私、アレが夫だったとはとても思えないんです」
ヒルダさんはわかりやすくルシアに向けてそう訴えた。
ルシアの目配せに、俺は静かに頷いた。
誰だって、初対面の青臭いガキより、見目麗しい勇者様に話を聞いて欲しいだろう。
「……どういうことですか?」
ルシアは問いかけた。
「夫は何かに操られていたんじゃないかって。そう思うんです」
「その可能性もなくはないですけど……」
「あの、私あと1週間で実家に引っ越すんです。でも、その前に、アレが本当に夫だったのか知りたくて。そうじゃなかったら、もう誰も信じられなくなりそうで……」
それは小さな声であったが、確かに悲痛な叫びであった。
「ですから、勇者様、どうかお願いします。あと1週間で、この失踪事件の犯人を捕まえてくれませんか?」
ヒルダさんはルシアの手を取って、そう懇願した。
傍から聞いていると、なんとも図々しい願いだ。
だが、ルシアの答えは手に取るようにわかった。
たとえ彼女に勇者にそぐわないような思索があったとしても、その本質は類い稀なる善性であると俺は断じているのだ。
「——わかりました」
果たして、彼女は容易くその重石を取った。
「私の手の及ぶ限りではありますが、勇者に選ばれた身として尽力する事を約束します」
彼女はヒルダさんの手を取り返した。
「ああ、ありがとうございます。本当に、ありがとうございます——」
ヒルダさんはその手を支えにして俯き、涙を流し続けた。それは神を前にした敬虔な信徒のようで、聖アレス教会が繁栄した一端を垣間見ているようだと、冷めた思考で感じた。