プロローグ
「1年ぶりに両親に会うんだから、そう辛気臭い顔しないでよ」
薄光を背景に、彼女は言った。
そういう彼女の声もまた、朝露が滴り落ちるように濡れていた。
グレイス帝国戦死者共同墓地。
100メートル四方の敷地の中央に戦死者を刻んだ巨大な大理石が建てられ、枢要な墓石となっている。その周囲には区画に則って、遺族が有志で立てた墓石が並んでいる。金に余裕のある者にしかできないから、大して広くない敷地でも埋まることはない。
実際にどれだけの遺体が埋葬されているのかは、虚しくて考えたくない。
墓地に入り、参道を進む。
冷たい風が通り抜け、開花したばかりのオドントグロッサムが揺れる。お互いに迷うことはない。彼女の言った通り、毎年行っていることだから。
クライデ家の墓。
シュティーレ家の墓。
隣り合った二つの墓の前で立ち止まる。買っておいた花束を小さな墓石の前に添える。
やることは決まっている。座って、手を合わせ、瞼を閉じる。そして話しかけるのだ。一方的に。
月日というのは残酷なもので、もう父も母も、顔の輪郭があやふやになってしまった。仕方がないだろう。写真の一つだって持ち出せるような状況ではなかったのだ。
それでもこの行為にはきっと意味がある。
あの日の後悔を、誓いを再び心に刻むのだ。
顔を上げて横を見れば、彼女もこちらを見ていた。
「行こうか」
彼女は目を伏せてそう言う。
彼女には似つかわしくない表情にも、この日に限っては慣れてしまった。
中央の墓標へと向かう。
巨大な大理石に蟻ほどの文字で名前が刻まれている。最初は、およそ2万の単語の中から両親の名前を見つけ出すのに骨が折れた。
二人並んで手を合わせる。
日の出前であることもあり、他に人はいなかった。あと数時間もたてば、きっと大勢の人でごった返すことになる。
程よく切り上げて墓地の門を抜けた。
ちょうど正面から太陽が覗いた。振り返れば、墓石達が淡い橙色の光に照らされていた。同様に振り返った彼女の輝く金髪が墓石にふりかかるようで、それは眠れる者達への最大の追悼に思えた。
◇◇◇
人族が人魔大戦に勝利し、大峡谷を築いてから654年。曲がりなりにも享受されていた平和は終わりを告げた。
大峡谷——聖アレス教国北西に築かれた絶体不変の大要塞。アガレス半島と本土を分断し、魔族領を隔絶していた勝利の象徴は、その日天空からの一筋の光によって壊滅した。
雪崩、土石流、火砕流。どんな災害を持ってしても形容しがたい苛烈さで、多種多様な魔族が駆け、殺し、犯し、侵略した。聖アレス教国——人類の守り手とも呼ばれた人族最大の国家はたった七日で滅んだ。
あり得てはいけない事態が起きていた。情報の真偽がつかず統制が取れないままに、次は隣接するヨルド三国が滅ぼされた。
グレイス帝国はある一面で都合が良かった。聖アレス教国のような由緒正しき国家とは異なり、たかだか50年ほどの歴史しか持たない新興国。侵略戦争によって破竹の領土拡大を見せ、大陸でも有数の大国へのし上がった侵略国家だった。詰まるところ、国境の外に敵がおり、戦争に負ければ領土を失うことに変わりはなかったのだ。
だから、比較的平和な時代にあって、彼らは備えられた。正確には常に虎視眈々と備えていた。それまで為す術なく滅んだ国家とは異なり、グレイス帝国は半年もの間魔族との大立ち回りを演じた。食物を、金を、人命までもを消費し、国家としての体制もままならないまでの激戦を続け、そして滅んだ。
人族が体勢を立て直し、連携を取るまでには十分な時間だった。ティリス王国以南の、グルータン、エスト、アドラ王国による三国同盟。東方面を一手に担う大国アザートへの協力支援。
その間に、大陸の三分の一が魔族によって侵略されていた。
◇◇◇
湯気の立つコーヒーをすすりながら窓を覗く。
お気に入りの席だ。そこからカフェに面した中央広場の様子がよく見える。家から出てくる者、屋台の準備をする者、忙しなく駆け抜ける者。まるで街が目を覚ましていく様子をスクリーンで見ているようだ。
目の前には彼女がブリムの長いバケットハットと伊達メガネをつけ、変装した状態で座っている。人の認識能力というのも短簡で、金髪をハットの中にしまっただけでかなり印象が変わる。
アドラ王国、北端の都市ゲラーレン。
彼女は有名人であるから、素で街に出るとたちまち騒ぎになる。
店内には、魔音機から静かなBGMが流れている。ルーアピカ時代に隆盛を誇った魔法奇想曲だ。
暖炉からは温風が漂ってきており、外で厚着をしている人々を見ると店を出るのに気がひける。
「……ねぇ」
そうやって心地良さに身を委ねてコーヒーを飲み終えたとき、彼女から声が掛かった。見れば、彼女が頼んだホットココアは、全く手を付けられないまま冷め切ってしまっている。
本当は気づいていた。なにせ、彼女がここまで無言でいて、それも悩み込むように顔を俯けているのだから。帝国滅亡の忌日とはいえ、普段であればこうも沈黙が続くことは無い。
「ちょっと相談なんだけどさ」
だから、彼女がそう神妙に囁いたとき、ここからが本題なのだとすぐにわかった。黄金の虹彩が彩る瞳を見つめ返した。
「……私達がフロンブロクに行くって言ったら、ユーレはどうする?」
「……悪くないと思う」
アザート西端の城塞都市、フロンブロク。
最近では第二次人魔大戦などという呼称も浸透している、現在における人と魔族との戦争の、最重要拠点だ。ここゲラーレンも最前線の一つだが、2ヶ月前に魔王直下の四天王が討たれてからというもの魔王軍からの侵略は無く、重要度は低くなっている。その面で彼女という戦力がフロンブロクに移るのは、極めて合理的で賢明だと言える。
「そういう意味じゃなくて。……ユーレも、一緒に来ない?」
そう問われるのを想定していなかったかと言われれば、紛れもない嘘になる。
なにせ、彼女とは本当に古くからの付き合いなのだ。帝国が滅び、お互いに家族を失った後も、その縁が切れることはなかった。いや、寧ろだからだろうか。ゲラーレンに難民として受け入れられた当初は、互いに互いを拠り所とするように共にいたように思える。
だが、それももう昔の話だ。
今や彼女は白金級冒険者パーティーのリーダーを務めている。2ヶ月前には、彼女の赫赫たる功績に人類の誰もが喝采をあげた。
はたしてその鮮烈極まりない、比類なき地平に、俺も並び立てているだろうか。きっと、立てていないのだろう。
だからこそ此れは契機なのではないかと思うのだ。彼女になし崩し的に付けられていた枷が外れ、より高く飛び立つための。
言葉はいとも容易く口をついて出た。
いっそ軽薄と捉えられるほどに気負い無く、清流を思わせる淀みなさで呼気が気道を抜けていった。
「…………俺が行く意味はないよ。ずっと思ってたんだ。もう俺たちが一緒にいる意味も——」
「——ちょっと待って。そんなに結論を急ぐこともなくない?」
此方の言葉を遮るように彼女は言った。
「……私達、今まで本当にずっと一緒にいたわけでしょ。だから……、今更離れ離れになるっていうのも、その、どうにも想像がつかないというか……」
彼女の言葉に心の裏で同意する。
ゲラーレンに移ってからの6年だけではない。そのずっと前、物心ついたときには既に彼女が隣にいたように思える。それこそ、離れ離れになるということに違和感を覚えるほどに。
「そうだな。でも、変わらないよ。人と人、そう簡単にずっといられるものでもない」
無意識に窓の外に視線をずらした。東の山脈から差し込む強烈な日光に俺は目を細めた。
「ねぇ、それ本気?」
「本気だ」
「……」
なまじ静かで落ち着いた声だったから、問答はこれで終わりだと油断した。だから、彼女が次に取った行動に俺は目を剥いた。
彼女は黒いフレームの伊達メガネを静かにテーブルに置くと、次にバケットハットに手を掛けた。
「……おいおい」
それはマズイだろう。そう告げる暇もなく、一息にハットが取られた。途端に、窮屈だったと抗議するように金髪が宙に舞い、存在を主張するべく輝き出した。それを鬱陶しいとばかりに後ろに払い、彼女はずいっと、此方に顔を寄せた。
「ねぇ、ユーレさ」
金瞳一杯に自分の顔が映っている。
あまりに綺麗な七色の輝きに吸い込まれそうになる。
「……」
——ああ、マズイな。
素直にそう感じた。
「私、本気なんだ。本気で私達の故郷を、フェルベンを取り戻そうと思ってる。それはユーレも同じでしょ?」
「……ああ」
意識してではない。
気圧されるままに声を発していた。
「なら。私はユーレにも一緒に来て欲しい。フロンブルクで戦果を上げて、帝国領を取り返す。そのためには貴方が必要、だから——」
それを一重にカリスマ性と捉えていいのだろうか。
……まるで、蛇に睨まれた蛙だ。
加熱する思考とは別に、頭の何処かで酷く冷静に状況を俯瞰していた微小な意識がそう呟いた。彼女が天敵であるとか、そういった話ではない。言うなれば、存在の格が違うかのように。彼女がこれでもかと発散する膨大な魅力と熱量を前に、凡庸な人は飲み込まれるしかない。
「……わかったよ」
降参するように右手を小さく上げた。
次いで彼女の瞳を振り切るように首を俯ける。
流れる一瞬の静寂。その時になって、周囲が随分と騒がしいことに気が付いた。
ハッとした。当然の事だ。だって、彼女は自らの手でその変装を解いたのだから。目の前に『勇者』と、そう呼称されるような存在が現れれば、誰だって高揚する。
「やり過ぎだ。場所を変えよう」
責めるように言い放って、一方的に席を立った。
客の間を縫うようにして進み、途中でカウンターの奥に佇む店主に向けて銀貨一枚を放り投げる。
困惑する彼女を背にして、苦々しい思いでドアに手を掛けた。
——彼女、ルシア・シュティーレは紛れもない『勇者』なのだと。
きっと、その時の表情は醜く歪んでいた事だろう。