ミカ
二年ほど前に書き放置していたものを、中途半端ですが短編として公開することにしました。
ミカ
世界はきらきらと無色の光であふれている。なかでもミカは内から輝くような美しさでわたしは目を細めてしまうけれど、そのおかげで遠くからでもミカを見つけることができるのだ。
ミカはまだ若いわたしの面倒を見てくれる天使で、かなりの年数を生きた偉い立場にあるのだと最近知った。長い長い生の中での経験をわたしに語る姿は先輩として堂に入ったものだった。
ある日、お務めの帰りに通りがかった場所でのことだった。
「私たちは消えてしまうと、消えたものの存在を忘れてしまうんだ」
ヒトの子がまだ若い林檎の実を誤って摘んでしまったのを見てミカはそう教えてくれた。
「わすれる、とは?」
「失ってしまうんだ、なにもかも」
「そうですか」
わたしが分かりやすいようにお務めのことを教えてくれるミカがヒトの言葉を使って説明をしたのは初めてだったからよく覚えている。
ヒトの子はまだ青い小さな実を足下の草むらに隠すと辺りをせわしなく見回しながら小走りで駆けていってしまった。彼は自分の失敗を消してしまうことにしたようだった。
「…あの林檎のことを覚えているのは」
次のお務めに向かうために飛ぼうとしたところでミカがつぶやく。
「もう、だれも……」
そんなことないじゃないか、わたしたちは「忘れる」ことなんてないのに。
ミカが間違ったことを言うのが可笑しくて微笑んでしまった。
啓示を終えて戻るとミカの姿は見えなかった。
「入れ違いになっちゃったかな」
こころを澄ませばすぐにミカのいるところが分かる。ミカがここ20年ほど執心している一人のヒトの子。彼のそばにミカがいなかった日はない。
からだを落として気づかれない程度の位置まで接近する。そうして伺い見たミカはまるでヒトのように柔らかく微笑んでいたのでわたしはいつものように、目を細めてしまう。
あのヒトの子のことなんてどうでもいいのにミカのことが知りたいだけなのに。
ヒトの子は絵筆を持って唸っている。わたしはそこに何が描かれているか知っている。
曇天を裂く一条の光に照らされる翼人。頭上には輝く光の輪が浮かび手にはOleaの枝が握られている。広げられた二対の翼は重厚感と同時に軽さも感じさせた。
彼の筆でミカが造られた。彼の絵の中でミカが生きていた。ヒトにはわたしたちの姿は見えないはずなのにミカが描かれている。
啓示ではない、とわかる。ミカはそんな私利私欲のために力を使わないと知っているから。特定のヒトの子に長年寄り添っていればわたしたちの姿を認識できるようになるとか?
そんなことを考えてあまりの論理の可笑しさに自嘲する。ばかばかしい、単なるお仕事の相手にそんな手間暇をかけられるほどわたしは彼らに執着はない。
ミカの執着は見なかったことにしてわたしはまたエヴェンに戻った。
ヒトの子の世界で大きな争いが起こっているのでわたしたちはとても忙しくなった。以前はふらふらと漂う余裕があったのに最近はもっぱら地上のあらゆるヒトの子に張り付いてる。聞きたくもない会話が耳に入ってきて大変不快である。
「南部の戦線が一部落とされたらしい。隣に指令本部があるここはやつらの通り道としてもっとも有力だろうな」
「いっそのこと町中に地雷を蒔きましょう。奴らにこの地を踏ませるくらいならば建造物もろとも破壊した方がよっぽどましだ」
「橋を破壊しておく方が先だろう」
入れ替わり立ち替わり、戦線もヒトも揺れ動く。議論が熱を帯び怒号にも似た声が響く。
「やはり市民にも武器を持たせるべきであろう!我らが祖国の地を野蛮な民族に踏ませるわけにはいかん!」
頃合いだ。沈黙を守っていた尉官に囁く。
「いのちの価値は神の御名のもとに平等です。慈しみのこころを忘れてはなりません」
顔を上げた尉官は重々しく口を開いた。
「静粛に」
それだけで場が水を打ったように静かになるからヒトの社会性やら身分というのは興味深い。
「戦場に散らす人命は最低限にせよとの閣下のご命令を忘れたか。勝利の暁に誇れる戦術でなければ意味を成さぬと理解せよ」
一瞬の沈黙、そして野太いヒトの子の返答。
今回のお務めも滞りなく片付いたがまた同じようなお務めが控えている。わたしは陰鬱な気持ちで現場に飛ぶ。
合間にミカの居場所を感じ取る。例のヒトの子のところではないことに安堵を覚えたがわたしは少し不安な気持ちになる。
先ほどのヒトの子の話に出ていた南部というのはその例のヒトの子の住処がある場所ではないのか。
ミカの執心ぶりを思い出して伝えるべきか思案するが、所詮ヒトの子の命はわたしたちよりもずっとずっと脆くてそれゆえに尊いのだからわたしたちが関与できることなどないのだ。ヒトの子には興味など無いがその命の価値は評価している。
戦争はいったんは落ちつきかけたものの再び激化し、両国の大半を焦土と化してようやく終結した。
そしてその過程で例のヒトの子が死んだとわたしは知った。
締結してやっと一息つけると漂ったさきにそのヒトの子の住処だったものがあった。ミカが寄りかかっていた壁は煙と土で薄汚れところどころに大穴が空いている。ヒトの子が座っていた質素な椅子は倒れた棚やらイーゼルで押しつぶされて、もう使える状態ではないだろう。そして、埃が薄く積もった床に乾いた血の跡を確認した。おそらく傷を負ってふらふらとよろめいたのだろう、血は揺れながら屋外へと向かう。
そして一際大きな血だまり。彼がここで息絶えたのだと容易に、はっきりと理解できる。
遺体の集積場に行くと土足で踏み荒らされた汚い床にそのままヒトの子が並べられている。そんな中に彼はいた。もともと青白く線の細いヒトの子だったけれどそれからさらに肉がなくなってまるで死人みたいだった。いや、死んでいるけれど。
遺体の上にかけられたムシロから覗く彼の手には長年筆を持つことでできたタコと絵の具が残っていて、わたしは思わずその熱量にあきれてしまう。ミカが彼に執着するのと同時に彼もまたミカに執着していたのだ。
「人間って本当に馬鹿だな」
零れた声を拾うものなんてここには誰もいないから、
「あなたの魂がミカに会えますよう」
ヒトのために祈りを捧げよう。
エヴェンにはMiscanthusが見渡す限り銀色になびいている場所があって、わたしたちはいつも業務報告の場にそこを選んでいる。ヒトの子が世話をするムギというものも似たように黄金に輝くという。
ミカはいつも通り微笑んでわたしの業務報告を聞いている。的確な指摘や助言を受けわたしも気を引き締めて大きくうなずく。
「今日の報告はこれでおしまいだ。おつかれさま」
「はい、ミカ。おつかれさまです」
きらめき揺らめく穂の海の上をわたしたちは黙ってたゆたっている。つま先を穂に遊ばせれば柔らかい感触とくすぐったさがこの身体を満たしていく。
「…レツェ」
ミカの声に振り向く。
「私は君の管轄を離れることになった」
そう言ってミカは微笑む。わたしは続きの言葉を黙って待つ。
「これからは一人で行動することになるだろう。成すべきことを成すのだよ」
ミカはただ微笑んでいる。
「昇進おめでとう見習い(レツェ)」
「いままでお世話になりました。ありがとうございました、啓示」
日が暮れて夜の空を映してもわたしたちは天つ原にいた。
お務めのためにわたしが去ってしまうまで、ミカはざわざわときらめく波に揺れていた。
設定はある程度練っていたのですが言及する前に終わってしまいました。
ここまで読んでくださったことに感謝いたします。