78. 捕らえられた蝶
レグレア vs アルタハ サイドの話になります。
腐敗し荒れ果てた森林を、蝶々が舞う。
その中央に、蜃気楼の如く揺らめくものが一つ。それはぬるりと這うように蝶の影へと潜り込み、瞬きよりも早くその羽を毟った。
その影から現れた陰湿そうな女は、力無く落ちていく蝶を勢いよく踏みつけ……更に強く擦り付ける。
「……いい加減に……出てきたらどうですかぁ……?」
二度、三度と潰れた蝶の形が無くなるまで踏み潰して、呪われそうな低い声で女は苛立ちを露わにする。
勿論、反応は無い。しかしこの場の何処かにはいる。証拠はこの蝶……これがいるという事は、アイツは今も近くで見ている。
「……観察しても……無駄。むしろ……自分の寿命を縮めている、というのは……理解してますよねぇ……?」
会話を試みようとしても、全て独り言になる。
それが苛立ちを加速させる。相手が彼女でなかったのなら、この時点で辺り一帯跡形もなかっただろう。
本来このまま時が過ぎるのを待つだけでもいい、相手には時間制限があるのだから。しかし彼女の最期は時間というくだらないもので終わらせるものではない……そんな結末は己のプライドが許さなかった。
それならばいっその事……。
「…………」
再び訪れた静寂。それが数秒も立たずとして――。
――音だけでなく、辺り一帯を削り取った。
中心に立つものは、一切の興味を失ったような顔。
先程までの怒りも、相手の思考を読む賢さも……何もかもが、切れた糸のようになっていた。
「…………」
ただひたすら。身振りも素振りもなく、己が支配する影に委ねて辺りを腐敗……そして破壊していく。
「あんたってほんっと……!! 読めないわね」
その被害から逃げるべく、隠れていたレグレアは余裕な様子と共に姿を見せるが……その目は笑っていなかった。
勿論、この展開はレグレアが最も望んでいたもの。アルタハもそれをわかっていたからこそ、その手段を選ばない。だから別の手段で不意を打つ――はずだった。予想の外れた今この瞬間、望んでいた展開こそが最悪の展開と言える。
唯一彼女の思考回路で理解できない点がこれだ。手段も策略も完璧なもので、確実に相手を追い詰める。しかし相手がアルタハを上回った瞬間、彼女は積み上げたものを躊躇いなく壊す。それがあと1歩で仕留めれるものだとしても。
本当に厄介、とだけ心で呟いて、レグレアはアルタハと相対する。
「……ようやく、姿をみせましたねぇ……?」
アルタハはなんとも嬉しそうな笑みを浮かべ、荒れ狂う影の猛攻をレグレアへと絞り、1つの大きな矢として射出。勿論レグレアはそれを容易く躱す。
轟音と共に空を切った矢、それが引き起こした風は凄まじく、触れた肌が引き裂かれそうな程だった。
真正面から戦って勝てる相手ではない――分かりきっていた事ではあるが、こうも差を見せつけられるとは。悔しい事実を前に、レグレアの瞳が怪しく輝く。
その眼を見てアルタハはまた不気味な笑みを浮かべる。
「……やはり、権能にしか……頼れないんですね」
「ええ。――あんたには、加減しないわよ」
その会話が幕切れの合図だった。
レグレアは影の猛攻を躱すために離れていた距離を一瞬で詰め、その速度に対応出来なかったアルタハは懐への侵入を許した。レグレアの手には短刀……それも刃先には液体が滴っている。
「……ッ」
アルタハはそれを影の助力を得て寸前で止める。
刃から地へと落ちた水滴は、香ばしい音と共に触れた木々を溶かした。
「……また、そんなつまらないものを……」
「触れたら終わりはお互い様よ。それよりアルタハ――」
ぎりぎりと迫る刃を前に、初めてアルタハが焦りを見せる。なぜならそれはかつて自分を苦しめたものと同じだから。
自然と身体が強ばる。それが仇となってしまう。
「――背中がお留守よ」
「……ぐっ…………!」
姿は目の前にある。しかし声は背後から。
それが彼女の分身であると瞬時に判断した。だが強ばった体では、奇襲への対応が僅かに遅れる。
切っ先がアルタハの首に触れるとほぼ同時、影が暴れ狂い互いの距離を強引に離す。
「……本当に……不快ですね」
「「不快? なら良かったわ」」
手に持つ刃に血が付着しているのを見てニヤリと笑うレグレアを見てアルタハは怪訝な顔。
「「でも――そうね」」
「「「「これで、お相子って所かしら」」」」
そしてそれは2人だけに留まらず4人、8人と数を増やし、気づけば何処を見ても彼女と目が合う――悪夢のような光景になっていた。
「……悪趣味なこと」
「これは幻覚……なら、良かったわね? アルタハ」
「ええ……とても」
これがレグレアのやり方。数の暴力で優位を得て、小手先でジワジワと消耗させていく。
そして彼女の権能は『相手の名を呼び、目を合わせ、言葉を紡ぐ』ことで発動する。発動さえすれば、彼女に支配されることになる。視線を逸らそうとしても無駄だ、分身はそのためにある。
先程から名で呼ぶのも今まさに支配しようとしているのだ、素振りは見せずとも怪しく輝く瞳がそう言っている。
だが――しかし。アルタハは心の中で笑う。その手段は通じない。
「……でも、多数になった所で……結末は変わりませんけどねェ!!!」
多数のレグレアを前に、アルタハも影の触手で対抗する。
影が分身を貫いては、八つ裂きにし、その隙に懐に潜り込んだ他の分身がアルタハへと深く突き刺す。それが四方八方で行われている。転がった四肢や触手は飛び散った猛毒に触れ、溶け崩れていく。
腐敗した樹海が、無惨な姿の身体とおびただしい血で穢れていく。そんな地獄の有様でも、レグレアとアルタハは構わず互いの命をすり減らしていく。
「赤一面に、貴方の亡骸が白く映えてますよ」
「…………ッ!」
「フフフ……話す余裕も無くなったようですね……」
全身の痛み、それすらも心地よく感じるほど気分は高揚していた。レグレアの限界はすぐそこまで来ている。これでは権能でしか打破できない。
その最後の希望の糸を、最高の瞬間で切る。その時彼女はどんな顔を見せてくれるのかが楽しみで仕方がなかった。だから後は手招いてやるだけ――そう、大きな隙を敢えて晒す。
大地を揺らす轟音、群れる蝶を散らす魔力の爆発。
それはレグレアの華奢な身体では遥か上空に吹き飛ばされる程。しかしそれはアルタハの触手も同じ。
爆撃の余波に自由を奪われ、アルタハだけが直立不動だった。この瞬間を逃す訳にはいかない。
木々を支えに被害を免れた、動けるものだけでアルタハへと走る。限界の身体では辿り着く頃には1人だけになっていた。
息が切れる。それでも叫ぶ。
「はぁ……はぁ……。……アルタハ――動かないで」
ぴくりとアルタハの身体が震える。だらんと腕が力無く落ち、忌々しそうにレグレアを睨む。
「あんたの……負けよ。毒には耐性があったみたいだけど、致死量はとっくに超えてる。時期に訪れるわ」
そしてそう告げた。だがアルタハはコロンと表情を変え、口角を吊り上げる。
「……何がおかしいの?」
「何が……? そうですねェ……」
眉をひそめるレグレアに対し、アルタハは勿体ぶるような口振り。そして何とも、恍惚な表情を浮かべていた。
「――何もかも、ですよ」
ガバッと、レグレアの影から触手達が根を伸ばし、その肢体を絡めとっていく。反応など、できるはずがない。アルタハは動けない、そのはずなのだから。
「なん……っで……!」
腕や脚に力を入れても、ビクともしない。当たり前だ、レグレアには余力など残っていない。
「どうしてだと……思います?」
「何? 力の差とでも言いたい訳?」
「それは……貴方の口から認めてください」
「……嫌よ、バカじゃないの」
「ふふ……。強がりも……いつまで持ちますかね」
ギギッ……と締め付けが強くなり、ますます力が入らなくなる。それと同時に身体の奥底から全身に巡る不快感が襲う。
「……っ。な……に、これ……!」
力が入らないではない、力が抜ける? 倦怠感と脱力感、そして嫌悪感が全身を支配する。
その感覚が訪れる度に、触手の力は強くなる。
それで確信する。己の魔力を吸収していると。だが気づくのが遅すぎた。どう足掻いても、自分はこのまま養分となって果てるしかない。
「……これが、権能を……破った正体?」
「まぁ……惜しいですが、そうです」
意識を失いそうになるのを、気力でこらえる。このままでは終われない、せめて情報を手に入れなければ。
「私の『暴食』は……血肉を喰らった者の能力を得る……というものです」
「……! あの時から」
「そう……13年前、貴方を殺したあの日から……私には貴方の権能が使える」
アルタハは静かにレグレアに歩み寄り、少し困ったような表情をする。
「でも……あの後すぐに、私も貴方が遺した猛毒によって命を絶った」
「ええ……。でしょうね……」
「だから……この権能でどこまでできるのか……わからなくて……」
アルタハはレグレアの身体を優しく撫でる。不快感がぞっと駆け上がり、身をよじって逃げようとするが絡みついた触手は離そうとしない。
「……言わないわよ、絶対に」
アルタハが聞くより早く、口を閉ざした。
それを見て何を思ったのか、アルタハは勢いよくレグレアの服を破り捨てた。
「ひっ…………」
ボロボロになり、破りやすくなっていたとはいえ、色白の素肌を晒されるとは思ってもいなかったレグレアは、か弱い悲鳴をあげる。
「なに……するの……?」
「……これほどの逸材なら……どれだけの男が喉から手が出るほど欲しがると思います?」
覗かせた谷間や腹部を強調するように、絡みついた触手が締め上げる。いやらしい笑みを浮かべながら、アルタハはレグレアの身体のラインをゆっくりと撫でる。その目は本気だ。
自慢ではないが、顔立ちも良い、スタイルだって良いと認識している。でも全ては自分の愛する人に捧げるために努力してきたもの、決して嬲られるためにしてきたものではない。
だから……絶対にそれだけは嫌だ。悔しいが涙すら溢れそうなほどに嫌だ。
「い……や。やめ……て、おねがい……」
震えて掠れる声で、懇願する。今にも泣き出しそうな表情のレグレアにアルタハは聖母のような優しい表情をする。
「ふふ、可愛いですね。グレア……」
アルタハはそっと優しくレグレアの頭を撫で、その表情を目に焼き付けるようにじっと見て、うっとりしたように頬を染める。
レグレアはその様子を見て、安堵していた。自分の精神はボロボロに崩れ去ってしまったが、穢されるよりはマシだ。
「――だから、権能の全て……教えてくださいね?」
意識を保つのもやっとだった彼女に、ましてや自身の純潔が天秤にかけられていたのだ。アルタハの瞳がどうだったかなど、知る由もない。
もっとも……それに気づいた時には既にもう……アルタハの手に堕ちている。ぐちゃぐちゃになっていく思考は意識が限界を迎えたからか――。
――それとも支配に呑まれてしまったからか。




