53. 昨日の敵は、今日の――
エルメルアの自室から飛び出したリグレットは火照ったであろう顔を、頭を冷やすために外へと向かった。
自分がエルメルアを守らなければ……そんな気持ちがあったのは間違いない。だが、それよりももっと不安なのはエルメルアが、恩恵を使用するかもしれないということ。
着実にエルメルアは恩恵を使いこなせるようになってきている。それと同時に代償に身体が慣れてしまっているのだ。
今はまだ目の痛みだけだが、そのうち左目の視力までも奪いかねないのではないか。それが……ただただ不安だった。
「おう坊主! なぁに湿気た面してやがる」
そんなリグレットの肩を力強く叩き、ガハハと笑う男。その特徴的な笑い方はグリーフしかいない。
どうしてブランにいるのかとも思ったが、そういえばしばらく滞在すると言ったのだ。魔獣によって負傷したとは聞いていたが、見る限りピンピンとしているし、敵国だと言うのに構わず外を出歩いている余裕は流石と言えるだろう。
「自分の家のように寛いでるな……おっさん」
「まぁ実際住んでた事もあるしな。もう数十年も前の事だが、顔馴染みだっているぜ」
そんな小言を言ってみればグリーフはニカッと笑い、その大きな腕をリグレットの肩へと乗せる。……それも、逃がすまいとガッシリと掴んで。
「そこでだ坊主。ここで会ったも何かの縁、馴染みがいる店で……1杯どうだ?」
「……断っても連れてく気だろう」
「バレたか。じゃあ、決まりだな」
そうしてグリーフはリグレットを攫うように酒場へと向かった。
「かぁぁぁ!! やっぱ運動した後はこれよ!」
酒屋に辿り着いて、まだ間もないというのにグリーフが手にしたジョッキの中は……空。
「久しぶりだね、グリーフさん。飲みっぷりも健在で安心したよ」
「ハハハ! 今日は坊主がいるからな! 気兼ねなく飲めるってもんだ!」
マスターは手馴れた様子で、酒を注ぐ。グリーフがノワールということも知っているからか、店内はリグレット達のみで他には誰もいない。
「団長さん、気にせず。請求先はノワールにしておきますので……」
「あ、ああ……。ありがとう」
グリーフに聞こえないように、こっそりとそう言うマスターはどこか嬉しそうだった。本来ならリグレットはいない方が、もっと懐かしい話ができただろうに……。
「ほら、坊主もなんか頼め!」
「……じゃあノンアルコールのカクテルで」
「おいおいおい、そこは酒だろうが! ……もしかして飲めないタチか?」
「……業務に支障が出るからな」
「はぁぁ……。お堅い奴だぜほんと……」
がっくりと肩を落としたグリーフは「も1杯」とマスターへグラスを渡し、次の酒を喉へと流し込む。
酒豪という奴だろう。ブランには――特に騎士団はアルコールの類に滅法弱く、それゆえ嗜む者などいない。
だからグリーフのような者は珍しく、見ていて新鮮だった。
それからというもの、グリーフは静かに……何か思い耽るように、酒の味を楽しんでいる。
「……なんだ。急に俺が静かになって酔い潰れたと思ったか?」
その問にリグレットはこくりと頷く。飲み始めた時はテンションが高いが、数分と経たない内に眠ってしまう副団長という例があったからだ。
「ブランはな。嫁の故郷なんだよ」
「…………」
「だから、こうして来る度。嫌でも考えちまう。『俺は強くなれたのか』とか、色々な」
「おっさんは――」
もう既に強いだろう――そう言いかけてやめる。
「……それが、おっさんの『強さ』の理由か?」
「ははっ。――まぁな」
代わりに問うのは、以前グリーフがリグレットに訪ねた「強さを求める理由」。
「最強だとか、黒獅子だとか……色んな名前をつけられてもよ。大切な人を守れなかったのはずっと心に残り続ける」
「……ああ」
「だから二度目はもうない。そのために強さを求める。それにどこまで強くなるか……なんて限界もない。限界なんて決めちまったら、守れるものの限界も決まっちまうからな」
上には上がいる。中にはその事に絶望する者もいるだろうが、それは自らが慢心してしまわない為の枷にもなるのだ。
どこか達観したようなグリーフを前に、リグレットは心で思っていた事を問う。
「……おっさんなら。その守りたい人が自分の身を壊してまで……強くなろうとしていたら。どうする?」
「ハハッ! 随分ピーキーな質問だな、お嬢ちゃんの事か?」
「…………ああ」
グラスを持つ手を顎へと変え、考えるように唸るグリーフは、目を閉じしみじみと語り出す。
「俺だったら、見守る。前にも言ったが、いくら自分が強くても、自分がいない時にそいつを守れるのはそいつ自身だからな。勿論いなくならない為に強くなれとは言ったが、何も自分が不在の理由は死だけじゃない。たった今もそうだ、俺とのんびり酒を飲んでる時に――嬢ちゃんが襲われたら、守るのは嬢ちゃんしかいない」
「…………」
「それにな。……強え力を持つ奴ってのはどうしても無理をしたがるんだ。だから、見守る。自分の限度は、自分にしかわからねぇしな」
そして、最後にとグリーフはリグレットへと眼差しを向けて。
「心配することはいい事だが、信頼をしてやるのも忘れんなよ」
そう言い残すと「じゃあな坊主」という言葉と駄賃を置いて、去っていくのだった。
「信頼……か」
すとんと心の中に落ちた。確かに自分はエルメルアの身を案じるだけで、彼女の気持ちは考えていなかったのかもしれない。
先程もそうだった。右目の充血はあっても、痛みや意識を失うといった代償は感じていなかったのだから。
ならば、リーゼロッテを守る時に傍を離れる事への「大丈夫」という言葉も信じてやるべきなのだろう。
もう彼女は、幼い頃のように自分の後ろを着いてくるだけの少女ではないのだから。