44. 秘めたること
エルメルアは自室から彼方に見える深い霧――リグレット達が今まさに戦闘を始めているであろう場所を不安げに見ていた。
机の上に残されていた書き置きから、代わりにティアが同行しているのは知っている。だから自分があの場にいなくても大丈夫だと信じているのだが、それでも少しだけ心残りがあった。
窓越しに微かに映った自分の右目をそっと手で隠す。熱を帯びてズキズキと痛む右目に口を固く結んで、目を細める。
「……お姉さんの言う通り、運命に背く代償というのは……ぁ……くぅ……!」
僅かに気を緩めて、右目をピクリと動かしただけでこれだ。あまりの酷さに思わず膝をついて、声を漏らす。
こうなったのは言ってしまえば「恩恵の過度な使用」という自己責任なのだ。まさかここまで酷いとは思わなかった甘い考えが原因だった。
こんな状態になってしまったからこそエルメルアは今満足に予知ができない。それも今日からではなく、リグレットの特訓が終わったその日からだ。
それ故に、リグレット達に伝えた予知というのは不完全……そもそも予知ができているかどうかも怪しいレベルで、それがエルメルアの心残りだった。
「……ですが、それでも……。それでも、私にしかできない事なんですから……!」
震える身体に言い聞かせるように、ぽつりぽつりと呟いて立ち上がる。
エルメルアが自分に課した事、それは「『予知』の弱点の克服」。
『予知』で視ることのできる未来は、「エルメルアが恩恵を発動した時点での確立された事象」であるため、未来に干渉したその先までは視る事ができない。
それは先のノワールとの戦争でわかった事だ。ノワールによるブランの強襲を阻止した結果、その後のジュリエッタへの対応ができなかった。
そこで辿り着いた弱点の克服が「恩恵を絶え間なく使用する事」。未来を変えた瞬間に次の未来を予知するという簡単な方法だ。
そしてそれを突き詰める事で、「常に相手を先読みする」という戦闘における大きなアドバンテージを手に入れる事ができる。それは非力な彼女が、強大な敵を前にしても戦える――リグレットを守れる唯一の方法。
しかしそれは、ただ恩恵の負荷に身体を慣らせば可能……という訳にはいかなかった。
常に未来を視る、言ってしまえば現在と未来を同時に見るという事だ。圧倒的に処理が追いつかない、というよりも追いつかせる方が無理がある。
それに加え現在進行形で流れる今と、その先の未来という僅かな時差であったり景色の違いに三半規管が耐えられず吐き気や眩暈が襲ってくるのだから。
今はさっきまで眠っていたからか眩暈などは酷くないが、その代わりにやってくるのが目の痛み。酷使しているからか、多少目に力を入れるだけで繊維のひとつひとつを無理やり引きちぎるような痛みがやってくる。
そういった痛み等が身体を襲う度、運命に干渉するという事がどういう事なのか、身に染みて感じられるのだが……。
「むしろ……今この瞬間をリグレットに見られたら……。余計に、心配をかけてしまうから」
できるならリグレットには黙っておきたい。この事を彼が知れば、彼はまた自分のために無理をしてしまうのだから。
「……『予知』」
そうしてエルメルアは、再び恩恵を使用する。その名を呼ぶだけで能力を発動できる程に彼女は回数をこなしているというのに、それでも代償は付き纏う。
「……ふぅ」
予知の発動と終了を僅かな感覚で行って、それを数回してから息を吐く。ティアが渋々教えてくれた、連続した予知の訓練法。
5秒先の未来を見て休んでは、その5秒先をまた読む……それを繰り返す。地味ではあるが、先程も言ったように現在と未来の時差による処理が、たったこれだけでも追いつかないのだ。
これを片手で数えるくらいの回数が、今のエルメルアの限界だった。
終わった途端に目を抑えて蹲り、ひたすら痛みと眩暈が治るのを待つ……その繰り返し。
再び顔を上げて、窓に映った自分の右目は酷く充血している。もうやめた方がいい、と誰がどう見てもそういう言うだろうが、それでもまだ自分を追い込むのがエルメルアなのだ。
彼女は再び訓練を始めようとしたが、コンコンと扉を叩く音で止められる。
壁伝いに歩いて、その扉を開ければ自分の従者の1人――メメが慌てふためいていた。
「……メメ、どうかしたのですか?」
「あっ、姫様! あの、その、姫様宛の手紙が……」
「……相手は?」
王になる前から、エルメルアの元にはこうして手紙が届く事は何度もあった。その内容の殆どがブランの国民のちょっとした嬉しい出来事だったりするのだが、いつもと違う雰囲気からして、少し身構える。
「……隣国のルブルムから、です」
「……そう、ありがとう。メメ、下がっていいですよ」
その手紙の送り主は隣国の赤の国、ルブルムからのものだった。
何故、今? という疑問が生まれるが、ひとまずメメを自由にさせる。
その言葉を聞いてメメは深く頭を下げて小走りで去っていく。そして姿が見えなくなったのを確認してエルメルアは渡された手紙の封を開ける。
そこには簡単にこう書かれていた――。
『この度のノワールとの戦争、我々ルブルムもブランの同盟国として微力ながらも支援する』と。
「…………」
その文を読んでエルメルアは眉をひそめる。
噂というのはすぐ広まるのだから、ノワールとの戦争が知れ渡る……それもルブルムの情報網なら当然事だから驚きはしないし、同盟国である事も偽りない。
例え災厄によって国同士の間に疑心があるとしても、ブランとルブルムの関係ならばこうした戦力のやり取りも不思議ではない。
ルブルムにはエルメルアの友人、リーゼロッテがいる。
彼女はルブルムの姫であり、災厄以前は父親同士が国の外交をしている時によく2人で遊ぶ程には仲が良く、むしろ幼馴染と言ってもいい程には互いに信頼している。
それに性格はエルメルアと違って天真爛漫であるため、こうして手紙を出すよりも突然来訪しては気ままに去っていく嵐のような子なのだ。
だからこそ、この手紙には違和感が感じられた。
「ルブルムは不沈の要塞都市……。故に攻め落とされる事も、そもそも無闇に攻められる事もないとは思いますが、かと言って貴重な戦力をこちらに回して、もぬけの殻にする必要があるのでしょうか」
ルブルムはパレンティア大陸における情報網と商売の要。だからこそ滅ぼされる事のないように都市を要塞のようにして、人をなるべく戦力よりも商人の方を優先させているのだ。
そしてその最低限の戦力が、ルブルムの姫――リーゼロッテを中心とする5人ほどで構成されたメンバー。
しかしその戦力をブランに送るというのだ。いくら要塞とはいえ戦える人が誰もいないのでは不安が残るというのに何故?
「…………っ」
そんな疑問から右目に力を入れようとして、やめる。
疑いたくはない、だがしかしいくら何でも不可解な点が多すぎる。
それでもし自分の身に……もしくはリーゼロッテの身に何かあれば、事前に知れたはずの私は後悔するだろう。
ならばやる事は、もう決まっている。
目の方角をルブルムのある位置へと向け、見える左目を手で隠す。
視界は暗闇で覆われるが、こうする事で未来と今を同時に見る事はなく、眩暈などに襲われなくなるのだ。
それでも痛みは無くならないが、それだけなら――もう慣れっこだから。
「……『予知』ッ!!!!」
そうしてエルメルアは右目を翠に輝かせて、未来への干渉を始める。
 




