23. 師の選択
頬を伝うのは、血だろうか。それとも涙だろうか。
震える手で頬を触る。熱い熱い液体が手を伝い地面に落ちる。恐る恐る手を見れば、絵の具のような鮮やかな赤。
何も考えられない、ただただ手を見つめるだけ。
「姫……っ!!!!」
息を切らしたリグレットが駆け寄る。その顔は切迫しているが、どこか安堵しているような表情。
感情は纏まらないが、視線を合わせて大丈夫であることを伝える。
血というのは初めて見た訳ではないし、触れる夜風で少し痛く感じるだけで痛みもそこまでない。どちらかと言えば、目の前で起きたことや、死ぬかもしれないという動揺のせいで頭が真っ白になったのだ。
「すみません、もっと私が早く気づけば……」
「い、いえ。リグレットは悪くないです……」
少し息を整えていれば、リグレットが頭を下げるのでそれを止める。
実際、距離を離してもらえなければジュリエッタの攻めに耐えれなかっただろうし、あの距離から狙うとは考えにくかっただろうから。
しかし疑問なのは、あの剣。暴風が止み、それでも止まらなかったあれは、本当ならエルメルアを貫いていた。
だが何者かによって軌道を変えられ、結果的にエルメルアの頬を掠めるだけに留まったのだ。
「ありがとうございます。しかし姫、折角の麗しい顔が」
「……仕方ないです、防げなかった私の力不足ですから」
傷は残るかもしれないが、生きているだけ良かったと思うべきなのだろう。枯渇していた魔力が元に戻り始め、ふらつきながらも立ち上がる。
そして自分を貫こうとしていた剣を手に取り、それをじっと見つめる。
ジュリエッタ以外の魔力の痕跡はない……そもそもそれを確認しなくても、魔力など使用していないということが明白だった。
ジュリエッタが主に使っていたのは突きであって、刃の側面はほとんど使用していない。リグレットと組み合っていたといってもそれほど多くはなかった。
しかし今のジュリエッタの剣は側面が大きく削られているのだ。しかもこれは剣や魔力で作られたものではなく、自然の暴力によって作られたもの。暴風が暴風を食い殺した、というのが妥当だろうか。
「……それは、やっぱり、ジュリエッタの、ですか?」
そんな考察をしていれば、横からセアリアスが声をかけてくる。その目は少し見開かれていて、声も少し震えている。
視線が何度もエルメルアの頬を伝う血と、その手にある剣を往復。信じられないと言ったような雰囲気だった。
「……はい」
エルメルアも少し目を伏せて答える。
セアリアスはジュリエッタから師匠と呼ばれていた存在。セアリアスは弟子を持つ気は無かったが何度も頭を下げに来るジュリエッタを渋々と手解きしたのだ。
そんな弟子が、姫を傷つけてしまった。
これは戦争だから仕方ないことだ、と頭では分かっていても、受け入れるのには時間がかかる。
セアリアスはそっとエルメルアから剣を取り、少しだけ悲しそうな表情になる。
「弟子の面倒は、師匠である私が見ないと」
その言葉に、エルメルアもリグレットも黙りこむ。
ジュリエッタが全魔力を使った一撃を放った事を知らない人はいない。上空であれだけ目立つ事をしたからだ。
そして今、彼女には武器がない。そして全魔力を使ったということは、しばらく動くことはできない。
セアリアスが言った、面倒とはそういう事なのだろう。
「……無理はするなよ」
スタスタと歩いて行こうとするセアリアスを止めようとはせず、リグレットは告げる。
セアリアスはその言葉に一瞬足を止めたが、振り向くことはせず、そのまま奥へと歩いていくのだった。
大の字になって見上げる空はとても綺麗だった。
魔力切れで脱力した身体を、風が優しく撫でる。
静かでゆっくりとした時間を、時計を刻むように草を揺らす足音。
ああ、私死ぬんだ。これは命のタイムリミットなんだ。
あの膨大な魔力ならば誰でも察知できるし、狙うなら今だろう。ただでさえ数の多いノワールの軍勢を減らせる好機をブランが逃すはずがない。
しかもリグレットから距離を取る時、全体的に戦闘が起きている場所を避けて小道に逃げたのが運の尽きだ。
追ってきたリグレットとエルメルアを仕留めれば、気付かれにくいという考えから小道を選んだが、今となっては自分自身が気付かれなくなりそうだ。
冷たくて、鋭利な物が首に触れる。
視線を向ければ懐かしい顔が、首に触れるものと同じように冷たい表情で見ている。
「あはは……お久しぶりです。師匠」
師匠、と呼ばれてセアリアスは目線を逸らす。
ついでに大きな溜息。敵同士なのに甘すぎる、とでも言っているような溜息だった。
「私は貴方の師匠になった覚えはないです」
「……ちゃんと返してくれる」
渋々返ってきたのは、セアリアスのことを師匠と呼べばいつも返ってきた言葉。こんな雑談など気にせず、すぐ首を刎ねそうな性格なのに、今こうして首に触れるだけに留めているのも、心の中で葛藤しているのだろう。甘いのはお互い様だ。
「聞きたいことは山ほどありますが……」
トスッとジュリエッタの真横に剣が刺さる。
何か強い力によってボロボロにされた自分の剣。その刃は赤く染まっている予定だが、その痕跡は見当たらない。どうやらエルメルアは殺せなかったらしい。
その事実が、残念な気持ちと安心した気持ちの両方を生み出し、どういう顔をすればいいかわからなくなる。
「ロミには……もう会いましたか?」
そんなジュリエッタを気にする様子もなく、セアリアスが聞いてきた事は意外すぎるもの。もっと他にも聞くことはあるはずなのに、どうしてそんな事を聞くのか。
「あの人には…………会ってないです」
「そうですか」
ロミには、会っていない。というより会いたくない。
彼は不思議な人だから。目が合えば、それだけでも折角の決意が折れてしまう。嫌いな訳では無い。むしろ逆……あまり話したことはないが、好印象で忘れられない人だ。
そのジュリエッタの返答を聞いて、セアリアスは剣を鞘に収める。そしてそのまま何も無かったように、その場を去ろうとする。
「し、師匠!? なんで…………」
「彼にも、話しておきたいことはあるでしょう?」
呼び止められ振り返った顔。それはジュリエッタの心境を見透かしたような顔。
割り込まれた言葉には、おかしい点など何一つ感じさせず、開いていた口を閉じてしまう。
「そ、それでも……!」
「……ここでの後悔を残したまま死なれるのは、師としても不服ですから」
しばしの沈黙、このままではいけないと引き止めようとするが上手く言葉が出てこない。
代わりに返ってきたのは、密かな想い。
認めてはいなくても、剣術を教えた弟子であることに変わりはない。何一つ後悔せず、というのは難しい。だからこそブランでの後悔だけは無くしてほしいというセアリアスなりの師匠としてあるべき姿。
「しかし……もう後悔はないと言うのなら」
セアリアスがくるりと振り返る。悲しみを押し殺した冷たい表情。その手は収めた剣を握っている。
「お連れの方と共に死んでもらう」
僅かな手の動き、しかし剣は収められたまま。
穏やかな風が頬を撫でたと思えば、付近の木がゆっくりと倒れていく。
セアリアスは騎士団の中でも1番力がない。当然模擬戦の順位も下の方だ。しかしそれは魔術を使わなければの話。
力が無いなら、魔術で補えばいい。
剣も1番細くて軽いものにして、速さを上げた。
そよ風ですら、鋭利な刃にできる。それほどまで鍛え上げた風の魔術に、見えぬ剣技。
そんな芸当を魅せられ、響くのは乾いた音。
ぱちぱちぱち……と機械のように一定のリズムでそれはゆっくりと近づく。
「お見事な腕前でございます」
倒れた木々、その隙間を縫うように歩いてくるのは、セアリアスと似たようなメイド服の女性。
「盗み聞きとは、ずいっぶん悪趣味ですね」
「悪趣味も何も、こんな野外で話していれば丸聞こえですよ?」
お互いに毒を吐くが、その表情は無のまま。
似た者同士……しかし決して分かり合うことはない。
「まぁ、貴方が甘っちょろなお陰で大切な仲間を失わずに済んだので感謝はしていますが」
「…………」
「ふふふ。言いたい事はわかりますよ。気持ちは同じ。同じメイドとしてこんな言葉は使いたくありませんが……」
相対するメイド、分かり合えない2人の息が偶然にも揃う。
「「とりあえず死ね」」
金属音が1つ響き、2人はすれ違って止まる。
互いに位置を入れ替えただけのようにも見えるが、息が荒くなっており既に何度も打ち合った痕跡が幾つかある。
「私はセアリアス=プロープル。貴方は?」
「リエン=コンディパール。覚えなくて結構です」
そう言ってリエンはジュリエッタを抱える。
逃がさないと、構えを取るセアリアス。しかしどちらも戦う余裕はないほど消耗している。
その構えを見て、リエンがはぁ……と溜息。そして呆れたように口を開く。
「この子を庇いながら、というのは双方分が悪いでしょう」
リエンは肩や腹の部分が、セアリアスはスカートや黒タイツの一部が破けている。これはどちらも、攻撃を避けるとジュリエッタに当たるから、あえて受けたものだ。
今の状況では全力で戦うことはできない。
「だから今回はお預け……次は勝敗を決めましょう」
そう言ってリエンは踵を返す。
それをセアリアスは無言で見送る。
追う様子のないセアリアスをリエンは声に出して笑う。
普段は感情を隠しているメイドの無垢な笑い声。
「何がおかしいの?」
「いえ? 大人しく引き下がるんだなと。……まぁその足では追いつくので精一杯でしょうけど」
「はぁ……その嫌味しか言えない口はどうすれば治る?」
「メイドの悪態は仲良しの証ですよ?」
それでは、と悠々と帰っていくリエン。それを見届けて再度大きな溜息。ああいう人は、相手をするのも面倒だ。
いちいち引っかかるような言い方、それでいて正論。間違ってはいないからこそ、余計に腹が立つ。
それにしても、あのメイドは本当に厄介だ。
服こそ破れたが、こちらが受けたのは脚の傷ただ1つ。
しかしその1つがとても重く、あの小柄な見た目では想像がつかなかった。その油断のせいも多少はあるが。
破れた黒タイツからは痛々しい傷が見え、これではしばらくの間ゆっくりと歩くしかない……。
あの口ぶりからして、脚を狙っていたのは明白だ。それに狙われたのは軸足である右。セアリアスの速さを封じる、言うなればセアリアスの弱点とも言える場所を、1度も剣を交えていない相手が狙ったのだ。恐ろしい観察眼だと言える。
それに相手の武器も見えなかった、これは自分の責任だ。
「圧倒的に不利…………いっ……」
相手は弱点も基本的な動きも知っている。それに比べて自分は相手の武器さえ知らない。このままでは次に戦った時に死ぬのはこちらなのだ。気を引き締めなければ。
破れたスカートの裾をちぎって、包帯代わりに痛む傷口に巻く。キュッと結ぶのと同時に痛みで少し声が漏れる。
止血とある程度の固定、これで歩く事への支障は少なくなっただろう。急いでリグレットと合流しなければ。
元々動きやすさを意識して膝が少し見えるくらいの丈にしてあるが、それより更に短くなると黒タイツがあると言えど少し寒い。
そんな事を思いながらセアリアスは可能な限りの速さで、リグレット達のいた場所へと戻る。着々と戦いは終わりを迎えようとしているが、まだ終わった訳ではない。戦いが残っているのなら自分も加勢しなければ。
セアリアスは歩を進める。辿り着く先に絶望が待っているとは知らずに……。




