22. 月、満ちし時
橙と紫が混ざった、何度も見た空の色。
でも今日は、違う。エルメルアは目を瞑り、息を吐く。
太陽も月も存在しない空。その下で集うは白き精鋭達。
息を吐く。それを連れ去るように、風が吹く。
私達の背中を押す、優しい追い風。
それとも、もう二度と引き返せないという暗示なのか。
朝、予知した未来。その通りになるだろうか。
今更になって、不安になる。自分の予知で、この頼もしい精鋭達の命を預かっているようなものなのだ。
それを自分の選択で失うかもしれない。この小さな体には、大きすぎる責任。今にも押しつぶされてしまいそうな、そんな責任。
エルメルアの傍らには、いつもの様にリグレットがいる。
いつもと変わらない、爽やかな笑顔で。
目が合えばそのまま無言で、くしゃりと頭を撫でられる。エルメルアが不安な時に、いつもしてくれることだ。
『姫様の選択は誰も否定しません。姫様の恩恵が無ければ、何もできずに負ける。それを変えれる可能性ができるだけでも、凄いんです』
皆、優しいからそう言ってくれる。
たった10人で、ノワールの相手をしようとするだけでも凄いと。無謀であるのに、諦めずに未来を変えようとする意志が凄いと。
それが悔しかった。まだ結果もわからないのに。
ここにいる10人を除けば、みんな負けると思っているのだろう。
「姫……見返してやりましょう」
リグレットは少し乱雑に頭を撫でて、小さく言う。
実際見返すことは難しい話ではない。勝てばいいのだ。
今回で言うならば、ノワールの襲撃を防いで守りきること。こちらが攻める必要は全く無いのだから。
やがて満月が顔を見せる。
それを左目で捉えるとエルメルアはそっと、右目に触れる。まだ熱く、鈍い痛みが残っているような感覚。
何となくで察する。恩恵はしばらく使えそうにないと。発動したのは朝ではあるが、初めてかなり長い時間の未来を視たのだ。
「……そろそろ、ですね」
時間というのは残酷だ。このまま止まっていてほしいのに、何知らぬ顔で進んでしまう。
予知では、この辺りの時間だった。だからもう始まってしまう。止められない、戦いが。
既に何人か準備に行ったようで、今ここにはリグレットとロミ、そしてセアリアスしかいない。
『こちらリズラ。予定通り、行きます』
「了解。…………始まったようです」
魔術によって届けられた開戦。
それが遅れて、エルメルア達にも直接伝わる。
地が揺れる。激しい雄叫びと足音によって。
それだけでわかる。ノワールの莫大な軍勢が来たと。
今回の作戦は単純だ。ノワールの軍勢を、前日に用意した狭い通路に誘い出し魔術で袋叩きにする。
囮役としてリズラとヴェルト、残りは魔術だ。
そしてそれでも残った人をリグレット達3人が逃がさず仕留める。エルメルアも戦えるが、王様であるし、なるべく恩恵による負担もあるため休んでいてほしいとのこと。
自分だけ休むというのは気が引けるが、まともに戦える身体でないのに無理を言っても足手まといになるだけだろう。
エルメルアも仕方なく甘えることにした。
甘える、とは言っても準備は万端だ。最悪の場合を踏まえていつでも恩恵は発動できるようにしている。
仮に戦闘になっても、今は正装だ。
動きやすさも意識されたこの服なら、多少激しく動いても大丈夫であるし、編み込まれた生地は魔術への耐性や耐久性もばっちりなのだ。
とはいえ、この様子であればエルメルアが戦いに参加する必要はない、だろう。
所々から響く爆発音や雷鳴によって地響きはあるが、先程のような雄叫びや足音は少なくなっている。
このまま行けば勝てる……そう安堵した。
そして、少しだけ風に違和感を覚えた。
さっきまで追い風だったのに、いつの間にか向かい風になっているからだ。でも向かい風にしては何か違う。無理やり作られたような風に流されている……そんな違和感。
後ろを振り向けば、弱々しくも追い風は吹いていることがわかる。
そしてビュゴォォ!!! と荒れ狂うような風音。
その風は甲高い金属音を響かせて、余韻に浸らせるようにゆっくりと消えていく。
その音に疑問を思いながら、エルメルアは振り向いていた顔を戻して、知らぬ間に起きていた事にようやく気づく。
「え?」
鋭い切っ先が、真横にあった。
その鋼の切っ先を、同じく鋼で受け止めているリグレットが目の前にいる。その表情は険しく、刃のように鋭い眼光。
暴風が急激に止んだ事で発生した砂煙によって、エルメルアに届きかけた剣の持ち主の顔は見えない……が、敵であることは明白だ。
煙が晴れるのを合図に、にゅっと真横にあった剣も消える。そして、ようやくその持ち主の顔が明らかになる。
「久しぶりです。せーんぱい」
「…………」
「感動の再開、ではないですけど。元気そうで何よりです」
剣を後ろに隠し、ニコニコと花が咲くように笑う少女。その顔は先程まで人を殺めようとしていた、など信じられないものだった。
「……お前も元気そうだな、ジュリエッタ」
「ええ、とっても。ところで先輩」
ジュリエッタと呼ばれた少女は、名を覚えてくれていたことに喜んでいるようで、更に花を咲かせる。
しかし次の瞬間には、凍るような表情に変わる。
「邪魔なのでどいてくれません?」
手が動いたと同時に、風を纏う剣が空を裂く。
正確無慈悲に狙うのは1点のみ、エルメルアの心臓。
リグレットは苦虫を噛み潰したように、それをいなす。
いなされた暴風は背後の木へとぶつかり、その部分をごっそりと削る。その威力を見て、エルメルアは初めて自覚する。これが戦争なのだ、と。
「先輩が私と戦いたくない気持ちも分かりますよ。もちろん私だって姫様を殺したくないですし。…………でも仕方ないんです」
いなされて体勢を崩されても、ジュリエッタはその姿勢から更なる突きを放つ。洗練された突きは、リグレットを守る選択へと誘導する。剣を振り上げ、振り下ろすまでには早さが足りないからだ。ここでリグレットが攻撃に転じれば、ジュリエッタの剣はエルメルアを貫くだろう。かといってエルメルアが下手に動けば、守るためにリグレットか移動する隙を晒すことになり、エルメルアも加勢する事ができない。
じりじりと距離を詰められ、突きの感覚が短くなる。それにこちらもいなすのには限界がある、いなして逸らされた風の刃が地を抉り、徐々に足場が悪くなっていくからだ。
「これは戦争です。私情を挟めるほど甘くないんです」
少しだけ、ジュリエッタは悲しそうな表情をした、そんな気がした。だが止むことの無い突きの雨に変わりはない。
しかしその表情をしていた事を後押しするようにジュリエッタには確かに若干の乱れが生まれていた。
リグレットがいなしてきた暴風、その余韻はどれも肌を裂きそうなほどだったのに、今の暴風は迷いがある……殺しに来ているはずなのに躊躇っている。弱くなっているのだ。
台風の目のように暴風が緩み、やがて無風となる。
しかし瞬きをすれば、再び暴風へと変貌してしまう……。
そんな限りなくゼロに近い秒数、ほんの僅かな乱れ。
それをリグレットを見逃すはずが無い。
勢いよく腕を振り上げ、繰り出される突きを上へ強く弾く。そしてそれにより無防備になったジュリエッタの胴への剣が触れる…………
「……っ! 『エア』ッ!!!!」
触れたのは、小さな風の塊。遅れて風船の割れるような音、そしてその塊の中から、ようやく脱出したと言わんばかりに風が吹き荒れる。
しかし咄嗟の反応による風の魔法は、リグレットの剣だけではなく術者であるジュリエッタも吹き飛ばしてしまい、詰めていた距離が初期位置に戻る。その隙にエルメルアも距離を取る。
「はぁ……。しつこい人は嫌われますよ?」
「しつこくて悪いな。だが、姫は手放せない」
エルメルアが傍から離れたことを軽く確認して、リグレットは改めて構えを取る。ようやく戦いの場が揃った。
今まではエルメルアを守るために、あの突きをいなす選択しかできなかった。しかし今は違う。
ジュリエッタがエルメルアを狙おうとすれば、その隙をリグレットが狙う。だから下手にジュリエッタもエルメルアを狙えない。そうなればリグレット側にも選択肢が増える。
まずは距離を詰める。エルメルアとの距離を離すこと、そして強引に突きの雨を止めるためだ。適切な距離であれば速度と威力もある突きだが、距離を極端に詰められれば、その威力は落ちていく。そのためジュリエッタも距離を離すために後ろへ下がり、それをリグレットが追う……そんな構図が自然と生まれる。
「さっきまでの威勢はどうした? 話す余裕も無さそうだが」
シーソーのように、形勢が逆転。
言葉を紡ぐ余裕……そんな暇も与えないリグレットの猛攻。それをジュリエッタはなんとか躱す。無数の突きを繰り出した、それによって蓄積した疲労が今になってやってきたのだ。このままでいずれ押し切られる。
本当なら既に死んでいる。そう感じる。
相手がリグレットだから、攻撃を躱す事ができているのだ。本当に甘い人だ、元仲間とはいえ今は敵。生かしておけば殺されるかもしれないのに。その甘さのせいで後悔するかもしれないのに。
それなら、今。私が先輩を後悔させてあげる。
そんな甘い甘い心なんて、絶望が食べてしまえばいい。
「優しいって、罪ですね」
足を狙う剣を飛んで避け、そしてそれを踏み台として高く高く飛ぶ。空の真上まで来た満月を背にして、穏やかに笑う。
これは奥の手。突きを極めた少女の最後の突き技。
少女の元に集い始める魔力に、リグレットも構えを固める。最大の威力で来るのならば、こちらも……。
「……? っ、まさか……!」
こちらも最大の守りで、そう腰を落とした時に、ジュリエッタの視線がこちらを見ていないことに気づく。
気づくのが遅すぎた、彼女の狙いは自分じゃない……。
「鋭利なる風の槍よ、穿ち抜け! 『風霊の怒り』ッ!!」
夜空に響き渡る術式。
ギュオオオオオ!!!! と名を呼応され、叫び散らす暴風は今までの比にならないほど強く、引き込まれるほどの渦を作り出している。
距離を取ったのが仇となった。身体強化の魔術を施してようやく届く距離、しかしそれではいなす事が出来ない。
行っても行かなくても、どちらかが死ぬ。
だからといって行かない訳にはいかない。姫を守って死ねるなら、従者として本望だろう。
張り詰めた空気を、暴風の槍が一掃。
剣を投擲するという暴挙に出た技。1対1という勝負に置いて、武器を投げ捨てるというのは予想外だろう。武器を失う、それはつまり戦いに置いては死を意味するからだ。
長い長い道を、リグレットを、あっという間に追い抜かしていく槍。あの速さでぶつかればどうなるか、想像もしたくない事だ。だからこそ、身体の中を焦燥感が駆け巡る。
守るべきものが、小さく見えた。逃げようともせず、それを見据えている。
まだ間に合う、だからもっと速くしなければ。
リグレットは荒野を駆ける狼の速さで、エルメルアの元へと迎う。
遠くから、リグレットの姿が近づくのが見えた。
着実に自分を狙うものから、守るためだろう。
エルメルアにはあの槍を防ぐ術はある、しかし事前に来ると分かっていたならの話。これは予知の中にはない出来事……つまり予知によって変えた結果。エルメルアの恩恵である予知の弱点とも言える。
何もかも完璧に防ぐには、永遠に予知し続けなければならないのだ。
「久遠に果てなく輝き続ける星。朽ちることない白き星座。万化する光の、終わらぬ旅路。始まりは今、ここに」
しかしエルメルアから、その蒼の瞳から希望の光が消えることはなかった。紡いだ言の葉、手のひらから生まれた、光り輝く小さな花弁を空へと放ち、叫ぶ。
「『万花せし星の光』、『万花』、『集い護る星花の光』……ッ!」
放たれた花弁は瞬く間に乱れ咲き、エルメルアを取り囲むように散らばる。そして次の術式を合図に姿を変えていく。
小さな花弁は集まって1つの大きな花を形成、そしてそれが幾重にも重なっていく。
エルメルアが得意とする光魔術。その中でもブランの王族が創り出した固有魔術『万花せし星の光』。
消費した魔力に比例して、小さな花の形をした光の球を咲かせ、術者を援護させる術。
小さな花弁1つ1つは弱くとも、複数となる事で強力になる……そんな術だ。
そして『万花せし星の光』の真価は、四季が移り変わるように『万花』することだろう。小さな花弁達を別の形へと変化させ、1つの能力を特化させた形態にする。
『集い護る星の光』は大きな花を盾に見立てた、守りに特化した形態。花弁1枚から盾は形成する事が可能で、その使用枚数を多くすればするほど、花は重なり強固になっていく。
そして今、重なった数は9つ。最大枚数の1つ下。この早さで形成できる枚数としては充分すぎるほどだ。エルメルアの魔術が秀でているから成せた事だろう。
突き出した左手、エルメルアを護るように咲いたラナンキュラス。それらが見据えるは暴風の槍。
凄まじい風の威力が、そして投げつけられた剣が大きな花を散らせようと衝突。ジリ……と簡単に押され、左手だけではダメだと右手も加える。
花の壁にぶつかり、行き場の無くなった風が暴れまわる。
油断すれば足を取られる、そんな強い風を逃がしても、眼前の槍の威力は落ちることなく未だに突き刺さる。
パキッ……っと1枚、ヒビ。連なるように2枚、3枚と亀裂が入っていく。
パリン……と花が散る。亀裂によって弱くなった盾を、いとも容易く砕いて残りの花を散らそうと更に迫る。
割れては衝突し、徐々に後ろへと押される。
しかし衝突を繰り返す度、威力が落ちている。
残った3枚の花。しかし幾度と繰り返された衝突の威力、それによる痛みが左腕に蓄積して、エルメルアの集中が乱れている。そのため盾の耐久値も落ちているのだ。
「うぅぅ…………」
脆くなった盾は粉々に砕け、残り1枚。
せめて、リグレットがこっちに来るまでは耐えなければいけないのに、痛みが、迫り来る死の恐怖が、エルメルアを更に乱す。
「うぅ……あああああああああああああああああ!!!!」
最後の激痛、それを耐えるように叫ぶ。
諦める訳にはいかない、死ぬ訳にはいかない、そんな生存本能が花を咲かせる。残り1枚を小さな花弁で補強し、暴風を抑え込む。そして……。
パキャン…………。
長い時間がやっと終わる。
静かに響く。戦いの終わり。
砕け散った花は地面に散らばり、光となって消える。
暴風は止み、押されていた感覚も止まる。
耐えていた反動、エルメルアの身体が、宙に浮く。
そのままぺたりと座りこみ、痛む左腕を押さえる。
全身に力が入らない、ただでさえ恩恵の疲労があるのに、更に魔力を枯渇させたのだ。しばらくは動けない。でも、終わったのだ。後はリグレットが来るのを待つだけ。
そう、ふと顔を上げてリグレットを見ようとした。
しかしそれより先に見えてしまったもの。
暴風は止んだ。今は頬を撫でるそよ風だ。
しかし、止めるべきは暴風だけじゃない。
ゆっくりゆっくりと近づく、死の音。
それは動けないエルメルアを仕留めるように。
暴風を纏っていた剣は、止まらない。